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身捨つるほどの祖国

お盆休みたけなわである。
故郷に帰省し、お墓参りをする方もおられるだろう。

毎年、八月になると、広島、長崎の原爆の日や、終戦記念日に、盂蘭盆会の風習も重なって、日本中がどことなく祈りの空気に包まれる。


ところで私には、マッチを擦ってロウソクに火を灯し、お迎え火を焚く時、つと思い出す一首がある。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 『われに五月を』(1957) / 寺山修司(1935~1983)


遠い昔、
「僕には、恋愛をしている時間など、ないから」
そう言って、私から去って行った人がいた。

彼は、私には理解できなかった「何か」を守るため、仲間たちと共に「誰か」と闘っているらしかった。

「民主主義」とか「革命」とか何とか、言っていたような気がする。
この国は、進むべき道を間違えているんだ、とも。

「政治集会」や「抗議行動」とやらで、せっかく入学した医大の授業へは碌に出席せず、進級さえ危ういらしいと、仲間の人伝に聞いた。

「そうまでしてでも今、我々は闘わねばならないのだ!」
と幾人かが、私を説得しに来た。


その後、彼の消息を知ったのは、何十年も経てからのこと。

ちゃんと医師になって、まぁそれなりに出世もしているらしいよ、と共通の知人から教えてもらった。

良かった、と私は思った。

そして同時に、何だ、それ、とも思った。
何なら、軽い殺意すら覚えた。

革命に殉じるんじゃなかったんかい。


私は、選ばれなかったことが悔しいのではなかった。

ただ、私を選ばない言い訳に「革命」なんて物騒なものを出して、まるで悲劇の戦士でもあるかのように、己に酔っていた彼が腹立たしかったのだ。


「マッチ擦る」
その言葉を目にするだけで、漂う煙や匂い、頼りなげに揺れる炎が、経験のある人には浮かんでくるだろう。

ところが今では、「マッチを擦る」という経験をしたことのない人が増えているそうだ。

喫煙者は、めっきり少なくなった。
ライターなら100均でも、コンビニでも買える。

キッチンにはIHコンロも多くなり、お墓参りやキャンプに行かなければ、そもそも火を点ける習慣自体がないかも知れない。


「マッチ売りの少女」は、その小さな炎の中に束の間の幸せな光景を見た。
それはもう、遠いお話の中だけの世界である。

およそ70年ほど前、寺山修司は霧のたちこめる海に「身捨つるほどの祖国」を自問した。

きっと今でも、世界中の国や地域の人々が死と隣り合わせにあって、年若い人たちに、そんな問いが突き付けられている。


だけど、と私は思う。
祖国のためになんか、己の命を捧げてはいけない。
逆だよ。
個人の幸福のために、国や政府があるのだから。

冷えたスイカを頬張って、私のお盆休みがはじまった。


大人も子供も関係ないよ
左も右も関係ないだろ?
爆弾が落っこちる時
天使たちは歌わないよ
爆弾が落っこちる時
全ての未来が死ぬ時

いらないものが多すぎる
いらないものが多すぎる
いらないものが多すぎる 

爆弾が落っこちる時 / THE BLUE HEARTS

1980年代のブルーハーツに、今も変わらず勇気づけられる。


生まれた所や皮膚や目の色で
いったいこの僕の
何がわかるというのだろう

運転手さんそのバスに
僕も乗っけてくれないか
行き先ならどこでもいい

こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問いつめる
まぶしいほど青い空の真下で

青空 / THE BLUE HEARTS

問われ続けている。
だから私は、答えを探し続ける。これからも。

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ちえ 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。もしも気に入っていただけたなら、お気軽に「スキ」してくださると嬉しいです。ものすごく元気が出ます。