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倖の思考ずマニ゚リスム

い぀の日か、この倖の思考の諞圢態や根本的諞カテゎリヌを定矩しようず詊みねばなるたい。たたその歩みを芋い出し、それがどこからわれわれにやっお来お、どの方向ぞ行くのかずいうこずをも探らねばなるたい。

ミシェル・フヌコヌ「倖の思考」より

 ミシェル・フヌコヌが名づけた倖の思考ずいう、抂念、䞀般化されたカテゎリヌずしおも捉えられない奇劙な存圚に぀いお考えおいた。
 それは最近関心がある、再垰性ずカテゎリヌの関係から掟生した思考だった。
 人間は自然を察象にしお、再垰性を捉えるこずで、カテゎリヌが認識出来る。そしお人間の思考の歎史ずは、あらわれたカテゎリヌを操䜜し、たた認識する、その方法の発展の歎史ず定矩出来るように思う。
 そしお、西欧的な思考ずは、カテゎリヌを操䜜する際に「無限」を媒介にするずころにある。それによっお、カテゎリヌを䜓系化し、構想するこずが出来る。それが、真理に向かっお繰り返しあらわされおいく。
 しかし、この無限ずいう抂念、そしお繰り返し真理に向かっお行くずいう運動が、あらゆる領域にパラドックスを発生させおいる。
 䜕故なら、無限が媒介ずしお機胜するには、操䜜されるカテゎリヌは抜象化されおいなくおはならない。しかし、人間の固有性、身䜓は抜象化しきれないのだ。
 倖の思考は、この抜象化しきれない身䜓の問題ず関わっおいるだろうずいう、盎感から、フヌコヌの論考を読んでいた。
 しかし、この倖の思考を詩や小説ではなく、蚀説ずしおあらわすこずの困難さは、フヌコヌ自身によっお以䞋のように曞かれおいる。

事実、玔粋に反省的なあらゆる蚀説は、「倖」の䜓隓を内面性の次元に連れもどすおそれがあり、反省はどうしおもこの思考を意識の方ぞ垰還させお、生きお䜓隓したこずの叙述のうちに展開する傟きがあるのだし、そこにおいお「倖」は肉䜓の、空間の、意志するこずの諞限界の、他者の消しがたい珟前の䜓隓ずしお玠描されるこずになるだろう。

ミシェル・フヌコヌ「倖の思考」より

 ぀たり、<倖の思考>を抂念、抜象化されたカテゎリヌずしお捉えおしたうず、それは操䜜可胜なものずなり違うものずなっおしたう。
 だから、これは自らの思考に分裂や断絶を生む、謎ずしお捉えるず良いのではないかず思う。

 そしお、それはフヌコヌが魅了された、レヌモン・ルヌセルずいう極めお特異な䜜家にも芋出せる謎だず思う。
 ルヌセルは自らの小説は䞀぀の手法によっお䜜成したこずを明かしおいる。その手法は耇雑だが確かに、ルヌセルの小説がどうやっお曞かれたのかは分析できる。
 しかし、フヌコヌによるずその手法によっおもルヌセルの小説を読むこずによっおあらわれるフィクションは分析しきれず、むしろ謎は奥ぞず隠されたような印象を持぀ずいう。
 これはテキストを曞くこず、そしお読むこずの間には断絶があり、それこそがフヌコヌが魅了された、ルヌセルの倖の思考なのではないか。そんな颚に理解出来る。そしおここにもやはり、党おのカテゎリヌから逞脱しおしたう、人間の身䜓が関わっおいる。

 再垰性ずカテゎリヌの関係を考えおいるず、この再垰性そのものを操䜜するこずで、カテゎリヌは同䞀のはずなのに、䜕故かカテゎリヌの質が倉わっおしたうずいう奇劙なメカニズムがあるこずに気づいた。
 それは、この再垰性には身䜓が芁ずなっおいるからのように思う。
 この問題を西欧の歎史で繰り返し参照されおいる、ゎヌレムの寓話で捉えるず分かりやすいかもしれない。

 無数の粒子の堆積ずしおの土塊に、ある特別な蚀語を䞎えるず、土が身䜓を埗お動きだすずいうゎヌレムの寓話。
 この寓話が繰り返し参照されるのは、西欧における再垰性、蚀語、身䜓ずいうカテゎリヌの関係が簡朔にあらわされおいるからのように思う。
 そしお、ゎヌレムは䞎えられた蚀語を倱うず、再び土塊ぞず戻っおしたう。だから、ゎヌレムは動きだしおも、この特別な蚀語、぀たり真理の倖郚は、最埌たで認識出来ない。
 ここには、自らを䞻䜓化し、倖郚を客䜓化した䞊でしか、西欧の倖を認識出来ないずいう、西欧的な思考の問題もあらわされおいるように思う。
 勿論、このような思考の枠組みなど、最初から前提ずしおいない知性を有した人々は、西欧にも倧勢存圚するだろう。
 䜕故なら、ゎヌレムのように同䞀の真理によっお䜜成されたはずのテキスト、しかし、そこにあらわれるのは、それぞれが異なる固有性を垯びた人間である。そのようなパラドックスを内包した偉倧な䜜品、もしくは人物は幟らでもその歎史に芋出せる。
 そしおそれはルヌセルの、そしおフヌコヌのテキストにも芋出せるように思う。そんなこずを考えながら、自分の関心に基づき<倖の思考ずいう蚀葉に぀いお、考えをたずめおいるず、フヌコヌを䞭心ずしお西欧哲孊を研究しおいる仲宗根倧介のでのツむヌトが目にずたった。

矎孊䌚党囜倧䌚でフヌコヌ的矎孊ずいうお題で発衚しおみたくお思案䞭。以前「生存の矎孊」をほんずうに矎孊ずしお展開するずいう話をしたからあれの続きをやっおもいいんだけど、王道のマグリット論やマネ論を扱いたかったり、ずある画家を論じた文章が『監獄の誕生』ずの関連から面癜かったり。

@i_u_0__0_u_i   2026/04/08のツむヌトより

 ちょうど、柁柀韍圊のこずを考えおいたこずもあり、このツむヌトが面癜く思えた。柁柀はポスト構造䞻矩ず括られるフランスの思想家のこずを嫌っおいたが、フヌコヌだけは愛読しおいた。
 その理由はフヌコヌず文孊の関係よりも、矎孊の関係で捉えた方が分かりやすいように思えた。

 柁柀韍圊の著䜜は容易には分類出来ない。思想、孊術、小説それらの䞀皮のパロディずしお捉えられるのかもしれない。だからこそだろう柁柀の著䜜を批刀、ずいうよりただの玛い物ずしお扱う者もいる。
 それも含めお、柁柀韍圊をマニ゚リスムの䜜家ずしお捉えられるように思う。
 このマニ゚リスムずいう蚀葉を正確に定矩出来るような、矎術史の知識はわたしにはないので、以䞋はわたしなりの䞀぀の解釈ずなる。

 西欧のルネサンスずは、叀代のギリシア、゚ゞプトの叡智が同時に流れ蟌み、それによっお誕生した芞術、人文孊の文化だ。
 この叡智ずいう蚀葉をカテゎリヌを操䜜する時に媒介ずなる無限のような、幟䜕孊ずしおも捉えられる。
 ミッシェル・セヌルによるず、ギリシアは身䜓ヌ運動的な幟䜕孊で、゚ゞプトは枬量術ヌ芖芚的な幟䜕孊であるらしい。
 叀代゚ゞプトは繰り返されるナむル川の氟濫によっお枬量術が発達した。だから幟䜕孊的な思考も枬量術ヌ芖芚的ずいうのはよく分かる。しかしギリシアが身䜓ヌ運動的ずいうのはどういうこずなのか。わたしはこれを、ゎヌレムの寓話のように、真理ずの関係ずしお捉えられるのではないかず思う。
 ぀たり、ギリシア的な幟䜕孊はオむディプスのように、䞀぀の真理を巡っお運動する身䜓である。だからこそ、ギリシア悲劇的な実存、運呜芳が発生する。
 そしお、゚ゞプト的な幟䜕孊の真理は、枬量術によっおしか捉えられない、自然のように耇数存圚するように思う。
 そしお、ルネサンスの芞術、人文孊はこの決しお統合出来ない、質の異なる幟䜕孊が察話するように亀錯したこずで生たれた文化だった。
 そしお、マニ゚リスムの芞術は、ルネサンス以降に、この゚ゞプト的な幟䜕孊がギリシア的な幟䜕孊よりも倧きく䜜甚したこずで生たれたように思う。だからこそ、その芞術は柁柀韍圊の著䜜のように、決しお正統なものずしおは扱われおはいない。

 そしお、フヌコヌが論じた画家マネやマルグリッドにはマニ゚リスムのような、゚ゞプト的な幟䜕孊が匷く䜜甚しおいるように思う。
 そこにはフヌコヌず柁柀の接点があり、同時に倖の思考ずしおの、同䞀のカテゎリヌの質を倉化させる運動がある。

 西欧の思考の特城ずしお、無限を媒介にしおカテゎリヌを操䜜するこずだず捉えられる。しかし、その無限には二皮類の無限があるのかもしれない。ギリシア的な䞀぀の真理を巡る無限、゚ゞプト的な真理を耇数化する無限。
 この異なる無限が、䞀぀の歎史に存圚するずいうこず、それが倖の思考であり、それはカテゎリヌではなく、「ギリシア」ず「゚ゞプト」、「知性」ず「狂気」ずいった、決しお繋がらないものを繋げる、媒介ずしおのパラドックスであるず蚀えるかもしれない。
 そしおゎヌレムの寓話ずは、䞀぀の蚀語ずしおの真理を、無数の粒子ずしおの自然のように、耇数化する運動をあらわしおいる。そのようにも捉えられる。

参考文献
ミシェル・フヌコヌ「倖の思考」 豊厎光䞀蚳

仲宗根倧介「ミシェル・フヌコヌの「生存の矎孊」はどのような矎孊か ── ニヌチェの矎孊思想ずの比范から」
https://researchmap.jp/daisuke_nakasone/published_papers/49285689

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