超天才のつもりが「ただの殺人者」に。ドストエフスキー『罪と罰』
最近、夜中にふと目が覚めると、得体の知れない不安に襲われることがあるんだ。
40歳、独身。研究者なんて肩書きを気取ってはいるが、結局のところ、私は歴史を変えるような偉人でもなければ、社会を導くリーダーでもない。ただの「その他大勢」の一人だ。
若い頃は、自分だけは特別だと思っていた。世の中のルールなんて、才能のない凡人が身を守るための柵に過ぎず、選ばれた人間——「非凡人」は、その柵を飛び越えて新しい価値を創造する権利がある、なんて本気で信じていた時期もあった。まあ、中二病の成れの果てと言えばそれまでなんだがね。
そんな青臭い万能感と、それが粉々に砕け散る瞬間の地獄を、これでもかと描き出したのがドストエフスキーの『罪と罰』だ。今回は、この「痛すぎる傑作」を、居酒屋の片隅で管を巻くような気分で紐解いてみたいと思う。
作品のあらすじ
十九世紀、ロシアのサンクトペテルブルク。うだるような七月の酷暑の中、物語は始まる。
主人公のロジオン・ロマーヌィチ・ラスコーリニコフは、法律を学ぶ元学生だ。彼は「棺桶」と形容されるほど狭く薄汚れた下宿に閉じこもり、極度の貧困と孤独の中で、ある「理論」を育て上げていた。
それは、人類を「凡人」と「非凡人」に分ける思想だ。凡人は既存の道徳を守る義務があるが、ナポレオンのような非凡人は、人類全体に利益をもたらす目的があるならば、既存の法を、たとえ「血を流してでも」乗り越える権利があるという危険な選民思想。
「俺は、踏み越えられる人間なのか? それとも、ただの虫けらなのか?」
彼は自らの理論を証明するため、一つの計画を実行に移す。標的は、社会の害虫と見なしていた強欲な金貸しの老婆、アリョーナだ。
決行の日。ラスコーリニコフは震える手で、コートの内側に仕込んだ斧を握りしめる。
「老婆の金で自分の才能を花開かせ、何千人もの人間を救えば、一人の老婆を殺した罪など帳消しになるはずだ」
そう自分に言い聞かせ、彼は老婆の部屋の門を叩く。
老婆が背を向けた瞬間、彼は斧を振り下ろした。
鈍い音が響き、老婆は崩れ落ちる。返り血を浴び、意識が朦朧とする中で彼は財布を奪おうとするが、そこに運悪く老婆の義妹、善良で無垢なリザヴェータが帰宅してしまう。パニックに陥った彼は、罪のない彼女までも斧で殺害してしまった。
「完璧なはずだった」計画は、ここから音を立てて崩れ始める。
事件後、彼は高熱に浮かされ、恐怖と猜疑心に苛まれる。盗んだ金品は使うこともできず、石の下に隠したまま。友人ラズミーヒンが親切に世話を焼いてくれるほど、彼の心は「自分は人殺しだ」という事実によって他者から隔絶されていく。
そこへ現れるのが、鋭い洞察力を持つ予審判事ポルフィーリーだ。彼はラスコーリニコフが書いた「犯罪について」という論文を読み、彼に目星をつけていた。
ポルフィーリーはあえて逮捕せず、雑談を装ってラスコーリニコフの心理を追い詰めていく。
「いやあ、ナポレオンを気取って人を殺したはいいが、良心の呵責に耐えられない……そんな『凡人』が犯人だったら、実に見ものだと思いませんか?」
ポルフィーリーの言葉は、ラスコーリニコフの自尊心をズタズタに引き裂く。
一方、彼はもう一人の人物と出会う。
父の死をきっかけに知り合った少女、ソーニャだ。彼女は家族を養うために娼婦として身を売っていたが、その魂は驚くほど純潔で、深い信仰心を持っていた。
自分を「強者」だと思い込みたかった殺人者と、自分を「最も卑しい罪人」だと信じる娼婦。
二人の孤独な魂が交差したとき、ラスコーリニコフは彼女の足元に跪き、その足を抱いてむせび泣く。
「俺は、あんたに跪いたんじゃない。人類のすべての苦難に対して跪いたんだ」
彼はソーニャに、自らの罪を告白する。
「俺は、老婆を殺したんじゃない。俺自身を殺したんだ……。俺は、踏み越えることなんてできなかった。俺はただの、震えているだけの虫けらだったんだ」
ソーニャは彼を拒絶せず、ただ一緒に苦しむことを選ぶ。彼女は彼に、十字架を背負い、広場で大地にキスをして、世界に向かって「私が殺しました」と叫ぶよう促す。
「苦しみを受け入れなさい。そして、その苦しみによって自分を浄めなさい」
最終的に、ポルフィーリーの執拗な心理攻勢と、ソーニャの献身的な愛によって、ラスコーリニコフは警察署へ向かう。
彼は自首し、シベリア送りとなる。広大なロシアの大地、凍てつく流刑地で、彼はなおも自分の理論が間違っていたとは思えずにいた。しかし、彼の傍らには、すべてを捨ててついてきたソーニャの姿があった。
ある朝、大河のほとりで彼はソーニャの手を握り、号泣する。
その時、ようやく彼の「再生」が始まった。自分が「特別な何者か」である必要などない。ただ一人の人間として、誰かを愛し、苦しみを受け入れること。それこそが、彼が長い彷徨の末に見つけた真実だったのだ。
川上の独り言
どうだったかな。正直、読み終えるたびに、胃のあたりが重くなるような感覚になるよ。
ラスコーリニコフの「非凡人」理論を、単なる狂人の理屈だと笑える人がいたら、私はその人の幸せを羨ましく思う。でも、私のような人間には、彼の痛みがよく分かるんだ。
「自分には何か大きなことができるはずだ」「自分は凡庸なルールに縛られる存在ではない」という万能感は、裏返せば「何者でもない自分」に対する恐怖なんだよね。
彼は結局、老婆を殺したことよりも、「自分がナポレオンになれなかったこと」に絶望していた。そのプライドの高さが、一番の毒だったわけだ。
現代のSNSでもそうじゃないか。誰もが「特別な自分」を演出しようとして、他者を見下し、自分の正義を振りかざして誰かを「社会の害虫」として叩く。それって、ラスコーリニコフが振り下ろした斧と、本質的には同じなんじゃないかと思えてならないんだ。
罪とは何か、罰とは何か。
ドストエフスキーが提示したのは、法的な刑罰じゃない。「自分が特別ではないと知る」という、残酷で、かつ救いに満ちた「罰」だった。
私は40歳になって、ようやく「自分はただの凡人だ」という事実を、少しずつ受け入れられるようになってきた。それは敗北のように見えて、実はラスコーリニコフが最後に感じたような、清々しい解放感に近いのかもしれない。
君はどう思う? 自分が「選ばれた人間」じゃないと気づいた時、人はどう生きればいいんだろうね。
今夜は少し、強い酒を飲みたくなってきたよ。
それでは、また。
