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見知らぬ街――記憶、土地、迷宮、「帰れない」または「帰りたくない」


見知らぬ土地への漂着と「宙づり」

 どこからか現れた来訪者は、この地にしばし留まり、時を過ごそうと思いを巡らせる。そうして日々を重ね、街を歩き、住人と言葉を交わすうちに、いつしか迷宮のような路地や、その土地の奥深くに隠された領域やシステムへと足を踏み入れており、帰ることができなくなってしまう。または帰ることは忘れてそこに留まってしまう。

フランツ・カフカの「城」 安部公房の「砂穴の家」

 世の中には様々な場所、街や村、異世界や建物に迷い込み、そこから出れなくなる話が多い。代表的なのはやはりカフカの『城』だろうか。

Kが到着したのは、晩遅くであった。村は深い雪のなかに横たわっていた。城の山は全然見えず、霧と闇とが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。Kは長いあいだ、国道から村へ通じる木橋の上にたたずみ、うつろに見える高みを見上げていた。

フランツ・カフカ『城』、原田 義人訳、青空文庫、2012年、1頁

 Kは測量技師として村に到着したが、村長からは「われわれは測量技師はいらない」「測量技師の仕事なんか少しもない」と言われて、測量技師の要請はとっくに撤回されていたはずなのに事務的なエラーであったと判明する。普通だったらこんな不気味な村から早く立ち去りたいと思うだろうが、Kは城にたどり着けないのであれば、この村にそのまま宙吊りの状態で滞在し続けることを望んでいく。この「帰れない(帰りたい、逃げ出したい)」状態から「帰りたくない」に変化していく。

「おお、村長さん」と、Kがいった。「多くのことをあまりにもあっさり見すぎていらっしゃるのは、またしてもあなたなのです。私をこの土地にとどめているいくつかのものを、あなたに数え上げてお聞かせしましょう。故郷の家から出てくるために私がもたらした犠牲、つらかった長い旅、ここで採用されるために思い描いたさまざまなちゃんとした理由のある希望、完全な無一物、今また家へ帰って別な適当な仕事を見つけ出すことの不可能なこと、そして最後にはこの土地の女である婚約者です」

フランツ・カフカ『城』、原田 義人訳、青空文庫、2012年、116頁

 ここから話は、官僚的な制度の中でのどうにか自分の居場所を作るために、城への接触を試みるが、たどり着けない状態が最後まで続いていく。だが、Kの他に複数の小説の人物は迷い込んだ世界から出れないまま物語が終わる。安部公房の『砂の女』がまた同じような例で挙げられるはずだ。この小説も「帰れない(逃げ出したい)」から、「帰りたくない」(または帰る必要がない)に状況はいつの間にか変わっている。

目的のない彷徨とトポスの悦楽

 このような「帰れない」から「帰りたくない」への変化というのは、不条理系の小説だけでなくて、もっと愉楽や悦楽を含んだものを多くある。その場合とはある「場所・土地ートポス」へ踏み込んでいく物語なのではないだろうか。

吉田健一の「金沢」 松浦寿輝の「半島」

 吉田健一の『金沢』は東京で暮らす内山が特に差し迫った目的や用事もなく、ふと思い立って北陸の古都・金沢に居を構えて、街の彷徨や交歓を味わう小説で、劇的な事件などは起きず、物語の中心は、古い旅館での逗留や風情のある町並みの散策、そして土地の美味と美酒の堪能である。
 そしてのこの小説の「金沢」が特に魅力的に感じるのは、吉田健一の息の長いゆったりとした独特な文体を通しての路地やその場所の料理などの匂いが目の前に感じることができることだろう。そして内山は『神曲』のウェルギリウスのような骨董屋から様々な場所や酒宴に入っていく。その文章を読めばこの単なる場所としての金沢ではなく、吉田健一の「金沢」に誰もがいつまでも浸っていたいと感じるはずだ。

 金沢の町もその賑やかな所の裏通りは迷路になっていて遅くまで明るい店がどこを見ても並んでいるのだが地理を知らなければ自分がどこにいるのか見当もつかなくさせる。内山にとっても不思議だったのは普通は迷路を縫って自分が行きたい所から次に行きたい所に向かうのにその晩はどこへいくという考えもなしにただその辺を自分が歩いていることだった。そしてやはり腑に落ちないことながら店の前にどうかして立ち止まるとそこへ入って行った。それが入って見ると知っている店であることもあってその時はそこは金沢だったが或るはその状態で一つだけ確かだったのは自分がどこにいるということに関心をなくしていたことかも知れない。

吉田健一『金沢』、講談社文芸文庫、1990年、35-36頁

 この金沢の裏通りという「迷路」をどこに行くとなく、ただ彷徨すること自体を愉しみ、「どこにいくという考えもなしに」歩くことことを愉しむこと。これは見知らぬ村にたどり着いたK(『城』)や砂地獄からの脱出に奮闘した男が彷徨った迷宮ような場所(『砂の女』)とは違うにしても、このどこかわからない場所にたどり着き、そこをただ彷徨することの愉楽が似たような共通点になっているのではないかと思う。まさに「帰れない」迷路から「帰りたくない」愉楽の場所に変わっていく。
 そしてこの独特の文体が癖になる。 屋根裏部屋の役所の中を歩き回るKのように、クラム(城)に到達するために藻掻くのではなく、内山は目的地を決めずにその場所・土地の流れに漂うことで、バーの主人や料亭の亭主との会話や町の眺めから、記憶の形跡や過去と現在が溶け合ったような時間の中を自在に動いていく。これは金沢という土地に踏み込んでいるからだろう。

 吉田健一のこうした場所・土地の捉え方は、その他の作品にも当てはまる。『旅の時間』ではロンドン、ニューヨーク、京都、大阪など様々な土地・場所を描いている。これらは一応、旅行者としての主人公たちがその場その場での現地の人々との交流を描いているが、すべての根底として、土地とその時間の流れの中での感覚や過去の追憶が、飲酒を通して体験できるような内容だ。


 そしてこの場所を目的もなく彷徨うことの愉楽は松浦寿輝の『半島』でも見て取ることができるはずだ。

 『半島』や初期の松浦の小説は、見知った家の中の形が代わったり、今までどこにつながっているのか全く見当もつかなかった所が、実は自分の宿の前の海岸につながっているなど、町や都市全体が迷路に変化することがある。『半島』についてもおそらく吉田健一に影響を受けた息の長い文章で、主人公の迫村が半島に中を漂い歩き、現実とも幻想ともわからない時間を体験していく物語だ。これらの『金沢』『半島』も主人公としての来訪者は元いた場所には戻らずに、戻ることができずに終わる。

 ただ、両方の作品にも、土地の表面をただ練り歩くのではなく、ふとした拍子に土地の本質のような、得体のしれないものに直接触れるような体験をしていることだ。それは単なる地理的な空間ではなく、幾重にも重なる歴史の地層のような、土地の深部に沈殿するトポスの引力そのものであると思える。

フアン・ルルフォの「マコラ」  土地そのものが死者の声で満ちている極限

 この「得体も知れない土地のそのものに触れる」感覚はフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』に至っては、その一つの極限に達している。

ペドロ・パラモという名の、顔も知らぬ父親を探して「おれ」はマコラに辿りつく。しかしそこは、ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった……。斉射と死者が混交し、現在と過去が交錯する前提的な手法によって、紛れもないメキシコの現実を描出し、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けになった古典的名作。

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』、杉山 晃・増田義郎訳、岩波文庫、1992年、表紙

この「土地を直接体験する」行為はその町コマラにいるだけで、死者たちの記憶に直接触れることができる場所になっている。主人公は最初はそこから脱出の道を探すが、気づいたら自分のその町の一部になってしまった。

境界を越えて戻ってきた者たちの「傷痕」

 たまにこういった土地や場所から生還する・帰れる者たちがいる。
 しかし、境界を越えてトポスの迷宮に入り込んだ者が、無傷のまま元の日常へ帰還することなどあり得るのだろうか。

宮沢賢治の「山猫軒」 スタジオジブリの「八百万の神々の世界」

 宮沢賢治の『注文の多い料理店』は、近代人の傲慢さが異界で徹底的に無力化されるプロセスが描かれている。2人の紳士は、山や生き物をただ消費・殺戮の対象としか見ていない都会のブルジョワ階級で、冒険者ではなく、自然への無神経な侵入者として描かれている。「髪をとかせ」「塩を揉み込め」というあからさまな調理の下準備を、「高級な西洋料理店の流儀だ」と勘違いして自ら嬉々として従う。彼らを追い詰めるのは怪物の力ではなく、自分自身の浅ましいスノビズム(選民意識)だろうか。 真相に気づいた紳士たちは恐怖で泣き叫び、何の抵抗もできずに震えるのみ。

 そして猟師のもってきた団子だんごをたべ、途中とちゅうで十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。
 しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。

宮沢賢治『注文の多い料理店』新潮文庫、新潮社 1990年


 彼らを救ったのは自らの知恵ではなく、死んだはずの猟犬たちが扉を破って乱入したという偶然の出来事であり、得た宝などは何もなく、東京に戻って湯に入っても「紙くずのようになった二人の顔」だけが二度と治らないという、恐怖と屈辱の身体的痕跡だけを背負わされる。捕食者気取りの人間が、自然の場(トポス)に入った瞬間にただの獲物へと反転させられ、日常へ逃げ帰った後も消えない傷痕を刻み込まれてしまうのである。

 言わずと知れたスタジオジブリの『千と千尋の神隠し』も同様だ。千尋も偶然にも異世界に迷い込んでしまい、両親を助けるために奮起する。だが、彼女の帰還もまた単純な現状復帰ではない。元の世界へ抜け出した彼女の身体は日常へ戻っているが、その知覚は、日常の裏側にあの異界の層が確かに存在することを知ってしまっている。世界が不可逆的に二重化された状態(知覚の変容)こそが、トポスが彼女に与えた目に見えない傷痕なのだ。

読書という「不可逆な接触」

 物語の中で登場人物は、見知らぬ場所を訪ね、そしていつの間にか帰れなくなっている。ただその場合も、読書を通じて、読者は登場人物が抜け出せない迷宮からふと顔を上げると現実世界に戻ってくることができる。

  1. 出発(本の中の世界へ参加)

  2. 試練/彷徨(Kと一緒に迷宮を駆けずり回り、内山と一緒に金沢を彷徨し、コマラで死者と直接対話をする)

  3. 帰還(読んでいる本から頭を上げて現実世界に戻ること)

 その際には自分の一部がまだ小説の中の世界に留まっているような感覚があるはずだ。本を閉じれば私たちは日常に戻るが、一度文字を通じて触れてしまった金沢の路地や雪深い村の気配は、読者の知覚に深く入り込み、今までと同じはずの日常の風景を静かに二重化(異化)してしまう。
 なお上記の出発・試練・帰還は意図的にジョセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』のヒーローズ・ジャーニー(The Hero's Journey)のフレームワークをベースにした。 

 神話の膨大なサンプルを分析した結果、英雄神話には「出立→イニシエーション→帰還」という驚くほど一貫した共通パターンがあることが見えてきた。私たちはなぜ、今もなおこれらの構造を持った物語に魅了されるのか? フロイトやユングの精神分析論を用いながら、民族や時代を超えて人間の心の潜む普遍的欲求を明らかにしていく神話論の決定版。

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 読書からの帰還をしたあと読者たちは、山猫の料理店から命からがら逃げてきた紳士たちのように「消えない顔の皺」のような認識の歪みを背負うのか、千尋のように複層化された世界を生き直すのか、それとも帰還を拒否して「帰りたくない」者として小説の世界を漂おうとするのだろうか。私は内山のように「金沢」にずっと浸っていたい。

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