【思索の旅VI】苦悩する自由
精神科医ヴィクトール・フランクルは、『夜と霧』の中で、私たちは人生の意味を「問う」のではなく、日々刻々と人生から「問われている」存在なのだ、と述べています。
『夜と霧』は、彼自身が経験した強制収容所での出来事を、心理学的な視点から記したものです。
もちろん、私の経験を強制収容所での経験と並べることはできません。
それでも、どんなに些細な選択であっても、人生から問われていると私は考えます。
例えば、『誰もが知る有名人になりたい』という意志があるとします。
一見、自由意志のように感じますが、
その実、主体が歩んできた人生から逆算された、
叶いそうな選択肢の中の一つを選んだ、とも取れます。
さらに、その意志に従って行動するときには、理想という人生の目的地から、どの選択をするか「問われている」とも取れます。
砕けた表現をするなら、
『私はこの目標に向かっている、どうなる?』
ではなく、
『こういう人生もあるけど、お前はどうする?』
と問われているのです。
さて、何が言いたいかというと、
『無限に選択肢があるように思える人生でも、実際には置かれた状況によって、選択肢が決められているのではないか』ということです。
それは、「自由に生きられる。選択肢は無限にある」ということではなく、
「限られた選択肢のうち、どれを選ぶかという自由はある」
くらいだと私は思います。
同書では、
『わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ』
とドストエフスキーの言葉が引用されています。
私の解釈では、
限られた選択肢のどれかを選べる自由まで、捨ててしまうか無視してしまえば、苦悩することができなくなる。
つまり、
『人生における自己決定権を人生にすべて譲渡してしまうことへの恐怖』としています。
【思索の旅IV】でも語りましたが、楽とは、楽しいことを増やすのではなく、苦をなくしていくことだと私は考えます。
これは、先ほどの、
『人生における自己決定権を人生にすべて譲渡してしまうことへの恐怖』
と矛盾しているように思えますが、そうではありません。
苦悩することのできない人生は、すでに満ち足りているのではなく、
満ち足りていると思い込んでいる状態であると私は思います。
『苦を取り除くために苦悩する』
もちろん、怖いし、苦しいし、逃げ出したい。
そしてもちろん、この考えでさえも人生からの問いに対する私なりの回答でしかない。
むしろ、そうするしかない。
(了)
