「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります」 / 『沈黙』遠藤周作
『踏むがいい。お前の足の痛さはこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。』
――『沈黙』遠藤周作
弱きものには弱きものの誇りがある。
遠藤周作は1923年に東京で生まれた。
神戸に移り、12歳のとき母の影響でカトリックの洗礼を受けた。
慶應義塾大学仏文科を卒業後、フランスへ留学し西洋のキリスト教文学を研究。しかし遠藤が生涯をかけて格闘したのは、強者の神と日本人の精神風土との亀裂だった。
『沈黙』は1966年に発表された作品で谷崎潤一郎賞を受賞している。
グレアム・グリーンはこの作品を前に、遠藤を「20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家」と呼んだ。
遠藤自身は後に、裏切りを繰り返すキチジローというキャラクターは、母の洗礼を裏切った自分自身をモデルにしたと述べている。その告白があって初めて、この小説の深さが測れる。
私がこの小説で心を動かされたのは、このキチジローという男だ。
密告し、逃げ、また現れて許しを乞う。それを何度も繰り返す。
強くなれなかった人間の、それでも消えない渇きだ。
彼はこう言う。
「この世にはなあ、弱か者と強か者のございます」と。
強い者だけがハライソへ行ける。弱く生まれた者は踏み絵を踏まざるを得ない。
その言葉に、遠藤は答えを用意しなかった。ただ書いた。その不格好な魂の渇きを、切り捨てずに書いた。
今の日本では、弱さは克服されるべきものとして扱われる。
メンタルを鍛える、レジリエンスを高める、ポジティブに変換する。
弱さを抱えたまま生きることへの許容が、どんどん薄くなっている。
強くなれない人間は自己責任として処理され、弱さを表明すると「成長が足りない」と返ってくる。
しかしキチジローが示したのは、弱くても渇き続けることの誠だ。踏み絵を踏んだ後に、それでも許しを求めてついてくる。
その執念は、強者の殉教より深いところに根を持っているかもしれない。
弱さを引き受けたまま、それでも何かに向かって歩こうとすることを、この小説は肯定も否定もせずに書いた。
『沈黙』が今も読まれ続けるのは、宗教の話だからではないだろう。
踏み絵を踏まざるを得なかった人間の話、理想の自分に届かない、裏切り続ける自分を抱えながら、それでも何かに向かって歩こうとする話、その切なさは、江戸の禁教令の下だけにあるのではない。
