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14歳で『産めない』と言われた私が、命を守る会社を作るまで。

14歳で『産めない』と言われた私が、
命を守る会社を作るまで。
今日は35歳の誕生日。
大人になった、
価値を出せる大人になった、
だからこそ今、
私にとって忘れられない、あの日のことを書こうと思います。

*****

父の「ごめんね。」


「産める身体に産んであげられなくて、ごめん」

手術室から出て最初に見たのは、父の初めての涙だったと思います。
14歳。まだ「産む」ことの意味なんて全然わかっていなかった私でも、父の涙を見て、何か人生にとって大きな出来事が起きたことだけは分かりました。

ドラマでしか見たことのない真っ白な天井。
キャスターやアラーム、看護師さんが話すざわざわとした音、
病室の、やけに寝心地のいいベッドで目を覚まし、なぜか私は不思議なくらい冷静でした。

ああ、そうか。
私は、子どもを産めなくなったんだ。

その瞬間はまだぼーっとしていて。
でも次に目が覚めた時、絶望とか悲しみとか、そういう言葉じゃ片付けられない何かとても嫌な感情に苛まれ、とにかく「(傷口が)痛い。」と表現して泣いていた気がします。でもはっと、

「このままじゃ、また家族が悲しんでしまう。」
そう思いました。

すーっと涙がひいて、次に押し寄せたのはめらめらとするエネルギー。
脳裏には今も憧れる産婦人科の塩田先生。

私は産むことができない。だとしたら、私も小さないのちを守る側になればいい

これは、香川のド田舎で育った一人の私が、自らの喪失を原動力に変えて、何万もの命を守る「ケア」という執着に至るまでの物語です。


香川の果ての、みんな家族な集落


香川の果ての、みんな家族な(限界。笑)集落、
私の原点は、香川県観音寺市の山奥にあります。

地図で見ると、もうすぐそこは愛媛県。仲のいい同級生の家まで歩いて2時間かかるような、そんなとんでもない場所です。
信号機なんてないし、コンビニという言葉も知らなかった。
でも、今では珍しい「雨踊り」や「百手祭り」など季節ごとの行事があり、とても温かくて濃密なコミュニティでした。

今でも実家に帰ると、玄関先に近所のおばちゃんが育てた野菜が段ボールいっぱいに置かれていたりします。「聖月ちゃん、帰ってきてるんやろ?これ食べまい」って。
鍵なんてかけなくても大丈夫なくらい、みんながみんなを知っている世界。都会に住んでいる今、書いていて「ユートピアかな?」って感じました。笑

母は、ドライで愛しい自由人。
いつも自分の趣味や好きなことに全力で、小さな頃は寂しかった気もするけれど、今となっては”自分の好きな人生を生きれる”ってなんて幸せなんやろうって思います。祖母(ままちゃん)が育てた自己効力感の賜物だろうか。
ちなみに、手術の時は「聖月が食べれんのだったら、あーちゃんもご飯いらん。」って一緒に絶食していた、深すぎてわかりにくい愛情の持ち主です。

父は、真面目で愛情深い母と真反対の人。
いつも学校行事は父がきていたし、地域の行事にも参加。
夏休みは職場に連れて行ってくれたり、友達も連れてよく遊びにも連れて行ってくれた。大人になっても父とはラブラブです。笑

小学校では、ちょっと目立つ存在だったと思います。身長も高かったし、声も大きかったし。リーダーシップをとるのが好きで、毎月の誕生日イベントとか学級委員とか進んでやるタイプ。振り返るとこの頃からケアの人で、近所の赤ちゃんをお世話しに行ったり、宿泊学習で下級生がアレルギーがあれば、買い出しにいってアレルギー対応食を調理したな・・。
今考えると、10歳で本当に大人だったなと思う。

でも、中学に入ると少し景色が変わりました。

ブレザーに憧れて田舎から受験して中高一貫校に入り、急に世界が広がった。そこで出会ったのが、井戸くんという男の子。彼は勉強がすごくできて、私は彼に負けたくなくて必死で勉強しました。(井戸くん急に名前出してごめん。笑)

「井戸くんが98点なら、私は100点を取る」

そんな謎のライバル心を燃やして、学年トップを争う日々。
部活はバスケットボール部に所属して、汗だくになってボールを追いかけていました。

見た目はちょっとギャルっぽかったかなぁ(笑)。
靴下をルーズにして履いて、スカート短くして。プリクラもたっくさん撮ってた。枚数撮りたくって、100円ショップのプリクラ。懐かしい…

でも中身は今と変わらずガリ勉で、感情系。矛盾してるようだけど、それが私でした。

そんな順風満帆に見える中学生活でしたが、実はいじめも経験しました。

目立つ杭は打たれる、というやつだと思います。
インフルエンザで長期で休んで久しぶりに登校した時の朝練で、先輩にフル無視され。母の遺伝子のドライな部分が発動して、すぐ退部。
先輩が夏季大会が終わりいなくなったタイミングで復部しました。笑

ただ、こういう時も親には相談できなかったな。心配かけたくなくて。

でもこの傷ついた経験が、私の性格の根っこを作った気がします。
基本的には平和主義で、争いごとは嫌い。でも、理不尽なことには屈したくないという、変な負けず嫌い。

そして、人の痛みに敏感になったこと。
どんな時も楽しいや自分の幸せを犠牲にしないということ。

何もせずに「みんなと仲良く」なんて綺麗事だけじゃ、世の中回ってない。
だからこそ、誰かが手を差し伸べなきゃいけない。

そんなことをぼんやりと考え始めていた矢先でした。
私の人生を決定づける出来事が起きたのは。

14歳。「産めない」と告げられた日


新中3になる直前でした。

※ここからは、こんな長い文章、岸畑のコアファンしか読まないだろうし、赤裸々に、生々しく綴っていきます。

ある日の授業中に突然、お腹に激痛が走りました。
最初は「悪いもの食べたかな」くらいに思っていたんです。でも、痛みは引くどころか、どんどん強くなっていく。冷や汗が出て、座っていられないほどになって。

なんとか先生に言って、保健室に行って、おそらく養護教諭が親と連絡をとって救急車がきました。
ピーポーピーポーというサイレンの音が、どこか遠くの世界からやってきたように聞こえていました。

運ばれたのは大学病院。
記憶は、高速道路を走っている救急車の中と、CTを撮られている時と…
今覚えているのはそれくらいです。
結果的に手術が必要となり、開腹手術になりました。

病名は、婦人科系の疾患で、卵巣と子宮の両方に問題があり、それを摘出することになりました。

そして(恐らく)医師は、両親にこう告げたのでしょう。
「将来、お子さんを望むのは難しいかもしれません」
助産師として何回か立ち会ってきたシチュエーションです。きっと私の場合もそんな感じだったのかなと想像しています。

眠りから覚めて、病室のベッドの横で父が私に謝り続けていたのは、こういう理由でした。

「ごめんな、ごめんな……」

父の涙を見て、私は逆に冷静になっていったのを覚えています。強くいなきゃ。
ああ、父を泣かせちゃったな。母は、病室の外かな。

手術は無事に終わりました。今も身体はとても元気です。
でも、失ったものは戻ってきません。

14歳という多感な時期に、「あなたは子どもを産めない体です」と宣告されることの意味。
当時、(ギャルだったので?)すでに彼氏もいて、子ども好きな私は、近所のあのおねえちゃんのように、当たり前に結婚して子どもを持つものだと思っていました。考えてしまうと、現実になってしまうようで。その喪失感を考えないようにしていました。

でも、入院生活が長引くにつれて、じわじわと実感が湧いてきました。

私の未来予想図から、「母親になる」というピースが抜け落ちてしまった。
病室にたったひとりの14歳は、その空白の大きさに、夜中一人で押しつぶされそうになっていた気がします。

数週間の入院生活。
その間、私はずっと考えていました。

「なんで私なんだろう」
「私は何のために生かされたんだろう」

答えなんて出ません。
でも、ただ一つ確かなことがありました。
それは、医療従事者の方々の存在です。

医師や看護師さんたちが、昼夜を問わず働いている姿。
私の痛みに寄り添い、励ましてくれる言葉。
たった14歳でこの場所にいる私を彼らがどう見ていたのかは分からない。
でも、彼らがいなければ、私は今ここにいない。
そして、何より主治医の塩田先生がとても優しく、かっこよかった。

「私、医者になろう。」

そう決めたら行動は早く、春休みの宿題をデイルームでしていたある日、
塩田先生が診療の合間に話しかけてくれた時、私はついに口にしました。

「先生、私、お医者さんになりたいです」

先生は優しく微笑んでくれました。

聖月ちゃんならきっといいお医者さんになれるよ

その言葉が、どれだけ嬉しかったか。
近くに、こんな素敵な先生がいる。私はラッキーだ。私はなれる。

この時、私の中で一つのロジックが完成しました。

産めないなら、生まれた命、生まれる前の小さな命を守ればいい

自分が命を生み出せないのなら、誰かが生み出す命を全力で守る側に回ろう。そうすれば、私の人生にも意味が生まれるはずだ。

それは、喪失感を埋めるための、私なりのこれからの人生強く生きるための、”生存戦略”だったのかもしれません。
そして今もただ、その戦略の中にいるだけなのかもしれません。
でも、その決意は本物でした。

赤ちゃんの声が…聞こえた?

退院してしばらく経ったある日のこと。
私はまだ体力が戻りきらず、自宅療養中でした。

窓を開けて風に当たっていると、どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。
最初は気に留めていませんでしたが、泣き声はずっと止まりません。

田舎だからわかるんです。
どこの家に子どもがいて、どの車が誰の車か。

その時、その家には車がない。
◯◯さんいないんだな…

それでも聞こえ続ける鳴き声。
恐る恐る家に上がってみると、赤ちゃんがぽつり。
母親の姿はありませんでした。もちろん父親も。

後に聞いた話では、母親は育児ノイローゼになり、赤ちゃんを置いて家を出てしまったとのことでした。
いわゆる、ネグレクト(育児放棄)です。(父親は夜勤中でした。)

あの時の衝撃は、今でも忘れられません。
15歳の私にとって、それはあまりにもショッキングな光景でした。

そして、もっとショックだったのは、周囲の大人たちの反応でした。

「母親失格だ」
「子どもを置いたまま出かけるなんてありえない。」
「まったく、何考えとるんやろな。」

みんな、口々に母親を責めました。
でも、私はどうしてもその母親を憎む気になれませんでした。

もちろん、短時間とはいえ生まれたばかりの赤ちゃんを置き去りにしたことは許されません。
でも、そこまで追い詰められる前に、誰か助けてくれる人はいなかったの?
相談できる場所はなかったの?

もし、彼女がもっと早くSOSを出せていたら。
もし、誰かが「大丈夫?」と声をかけていたら。

この赤ちゃんは、こんな目に遭わずに済んだかもしれない。
あのお母さんも、非難の的ににならずに済んだかもしれない。

その時、私はハッとしました。

「医療だけじゃ、救えない命がある」

病気や怪我なら、お医者さんが治してくれます。
でも、育児の悩みや孤独、社会的な孤立は、病院で薬をもらっても治りません。

お医者さんは「マイナスをゼロにする」プロフェッショナルです。
でも、私がやりたいのは、マイナスになるのを防ぐことなんじゃないか。
本人も気づかないマイナスに気づき、そっと寄り添うことなんじゃないか。

あの時だれが助けられたんだろう。
女性は母親になるのが当たり前と思っていたけど、そうじゃないとしたら、その瞬間(出産)に居るのは誰なんだろう。

生活の中で、もっと身近に寄り添って、お母さんたちを支える存在。
命が生まれる瞬間だけでなく、その後の人生も含めて守る存在。

調べてみると、そんな職業がありました。
それが、「助産師」でした。

助産師なら、妊娠中から出産、産後まで、継続的に女性と関わることができる。
病院だけでなく、地域に出て活動することもできる。

「これだ!」と思いました。
私が目指すべきは、医師ではなく助産師だ。

父の手術室での涙。
自分の「産めない」という事実。
そして、放置された赤ちゃんの泣き声。

すべての点が線でつながった瞬間でした。
こうして私は、ついに助産師への道を歩き始めました。


戦略的回り道、1度目の起業と3つの国家資格


そこからというもの、ガリ勉を発揮し、中高と生徒会長を務め、成績も上位。海外留学や、英語の弁論大会で四国地区最優秀を取るなど、いわゆる優等生タイプを全うし、高校を卒業。
私は地元の香川大学医学部看護学科に進学しました。

大学では、看護師になるための勉強に加え、保健師になるための特別な課程も履修しました。
勉強はハードでしたが、目的が明確だったので苦にはなりませんでした。
今思えば、あの時男性の泌尿器も、老年や慢性疾患、精神看護も全部履修していたことが今に生きているなと実感します。
特に問題を起こすような看護学生ではなかったですが、ただ、私はちょっと変わった学生だったかもしれません。
「看護の勉強だけしていても視野が狭くなる」と思い、なんと在学中に起業をしてしまったのです。

業種はウェディング関連。
結婚式や1.5次会、2次会のプロデュースを行う事業を立ち上げました。

なぜウェディングかというと、もともと母が結婚式場で働いていて憧れていたから。ウェディングプランナーが病気が見つかる前までの夢でした。
また単純に「幸せな瞬間に立ち会いたい」という思いや、夫婦・家族になる前のカップルに関心があったのと、ビジネスの仕組みを知りたかったからです。すでにこの時には
助産師として病院で働くだけでは、解決できない課題がある。だから事を起こす=起業しないと、社会システムは作れない
と思っていました。だから事業作りを経験したかった。
結論から言うと、この経験が後の人生にめちゃくちゃ役立ちました。

お金を稼ぐことの難しさ、顧客満足とは何か、組織をどう動かすか。
看護学生でありながら、「経営」という視点を持てたことは、私にとって大きな財産になりました。

大学卒業後は、すぐに病院で働くのではなく、さらに専門性を高めるため、そして研究もしたい想いに駆られ、大学院へ進むことにしました。
選んだのは、京都大学大学院医学研究科。

ここで私は、「高度実践助産学」という分野を専攻しました。
臨床での実践能力を高めるだけでなく、組織管理や経営学など、マネジメントの視点も学ぶコースです。

京大での日々は刺激的でした。
周りは優秀な人ばかりで、議論のレベルが高い。先生方も超一流。
そして何より、同志を見つけた。地元の大学に進んでみて分かったのは、(当たり前だけど)私ほど熱い思いをもって、社会構造を変えよう!という仲間はいなかったということ。客観的に考えて、そんな人普通はいないし、レアだけど、そんな同士がいたらいいなと、少し熱量に飢えていたところもあった。
けれど、京大ではちょっと変わった(褒め言葉)そんな人たちがゴロゴロいた。それがとてもとても居心地がよかった。ちなみに、現在経営している株式会社With Midwifeの役員3名は同じ研究室の同期・先輩です。つまりそういうことです。

ここで私は、念願の助産師。
3つ目の国家資格を取得しました。

トリプルライセンスを持つことで、医療、地域保健、そして母子保健という3つの視点から物事を見ることができるようになりました。

そして、大学院では勝手に研究テーマを経営系に寄せることで、市場分析的な要素も学びました。
「助産師×経営学」。この珍しい組み合わせが、私の強みになっていきます。

正直、周りには「なんでそんなことに関心があるんだろう」と思われていたと思います。実際に言われたこともあります。
でも当時の私は、こう思ってたんです。

「ただ赤ちゃんを取り上げるだけの助産師にはなりたくない。
社会の仕組みを変えられる、新しい助産師になりたい」

若気の至りと言えばそれまでですが(笑)、本気でした。
実際に今でもこれをいうと、業界内ではハレーションを生む。
臨床の助産師を軽んじているんじゃないか。ううん、そうじゃない。
その力を留めないために、社会の仕組みを変える必要があり、私がそのリスクを負う。それだけ。
でも、この回り道が、全部つながる日が来るとあの頃から確信していたんです。そして今も信じています。

大学院を修了し、いよいよ臨床の現場へ。
私が就職先に選んだのは、関西でも最大規模を誇る、あの有名な産科病院でした。

年間2,500件の命と向き合う病棟で

就職した病院は、まさに「戦場」でした。

年間のお産件数は2,500件以上。
単純計算で、1日に6〜7人、多い時は1晩で10名人を超えるの赤ちゃんが生まれることもあります。

日勤も夜勤も関係なく、次から次へと病棟にくる妊婦さん。
陣痛の叫び声、赤ちゃんの産声、モニターのアラーム音。
時には、緊急手術や救急搬送。
まだシャリシャリの輸血を手を震えさせながらポンピングしたこともあります。双子の経膣分娩も、そこからのグレードA帝王切開も。
忙しい時は本当に、息つく暇もありません。
(1年目の時、業務用階段に出た瞬間に忙しすぎて無意識の「くそう!」を言ったことを今でも黒歴史として思い出します。笑)

私はここで、ありとあらゆるお産を経験しました。
感動的な安産もあれば、前述したような命がけの難産もありました。

夜勤の緊張感は独特です。
スタッフの数が少ない中、いつ何が起こるかわからない恐怖。
一つの判断ミスが、母子のふたつの命に関わるプレッシャー。
でも、長時間勤務の上、仮眠が取れないことも。

ただ、それ以上に私の心を削ったのは、「医療の限界」を感じる瞬間でした。

忘れられない患者さんが3人います。
※個人が特定されないように一部編集しています。

一人目は、40代の女性でした。
待望の妊娠でしたが、仕事が忙しく、なかなか検診に来られなかったそうです。
高齢出産ということもあり、出生前診断を受け、検査の結果、赤ちゃんに重い障害がある可能性が高いことがわかりました。すでに週数がかなり進んでおり、彼女は泣きながら、妊娠19週で中絶(人工妊娠中絶)を選択しました。

お産自体はとても落ち着いた、彼女の言葉を借りれば「あたたかい」お産でした。この週数は、通常の出産のように(薬を使って)経膣分娩となり、陣痛中には少し時間があります。その時間を作って赤ちゃんの埋葬の準備をしたりしました。

残念ながら、退院には立ち会えず。気になっていたある日、偶然街中で出会った時、彼女は私を見つけた瞬間涙して、こう漏らしました。

「会社の産業医の先生に復職面談を受けました。『この歳で妊娠したのに、なんで中絶したの』『次の妊娠どう考えているの』って言われたんです……。
乗り越えたと思っていたのに罪悪感と後悔で押しつぶされそうで……」

私は言葉を失いました。
産業医は労働者の健康を守るはずなのに、なぜそんな残酷な言葉を?
彼女がもっと早く、適切な専門家に相談できていたら、違う未来があったかもしれない。
働く女性も、子育てする男性も増えた今、そんな専門職が職場にいたら…
いや、いるべきなんじゃないだろうか。

二人目は、30代の未婚の女性。
妊娠反応陽性、出血が主訴での来院でした。
すでにかなり妊娠週数は進んでおり、目視でわかるくらい。
妊娠の背景をきくと「妊娠したらパートナーが結婚してくれると言ってくれている。念願の妊娠だ。」とのこと。受診が遅れたのは、仕事が忙しかったから。
よかったですね、と言いながら出血のことが気になり、私もドキドキしながら診察介助につきました。

結果、母体の検査をすると、末期の子宮頸がんが見つかりました。
手の施しようがない状態でした。

「赤ちゃんを残して死ねない」

すぐに転院となり、詳細はわかりましせんが、彼女はそう言い続けていたようです。そして、数ヶ月後に亡くなりました。
もし、定期的に検診を受けていれば。もし、仕事の都合やお金の心配なく相談できる場所があれば。
もしかしたら、救えたはずの命でした。

三人目は、産後うつのお母さん。
家に返すのが心配だなと思いながら、スクリーニングではクリア。
しかし退院後、育児の疲れと孤独から精神的に追い詰められ、赤ちゃんを虐待してしまったと、泣きながら電話してきました。

「かわいいと思えないんです。死にたいです。」

病院にいる間は私たちがサポートできます。
でも、退院して家に帰ったら?
そこは密室の育児の現場。
誰も専門職は助けてくれない。

これらの経験を通じて、私は確信しました。

「病院で待っているだけじゃ、救えない。
自分たちが白い壁を超えて、歩み寄っていかないと。」

病院に来る時点で、もう手遅れなことがある。
もっと前の段階、生活の中にアプローチしないと、悲劇は繰り返される。

私は当初、臨床で10年は経験を積もうと思っていました。
一人前の助産師になるには、それくらいの時間が必要だと言われていたからです。

でも、そんな悠長なことは言っていられない。

「ここで10年待っているうちに、消えていく命がある」

その焦燥感が、私を突き動かしました。
3年目の夏、そう、27歳の誕生日に、起業する決意をしました。

周りには伝えずに創業準備。
そして、経済産業省・大阪産業局が提供するビジネスプラン発表会 LED関西 powered by 大阪信用金庫にエントリー、ファイナリストとなりました。

病院の外に出て、助産師の力を社会に届ける。
そのための仕組みを作る。

そのアイデアが社会にも認められた瞬間です。
まだ経営者としては何もなかった私ですが、15社のサポーター企業がつきました。

こうして2019年、私が助産師4年目の秋、株式会社With Midwife(ウィズ・ミッドワイフ)を設立しました。
28歳での挑戦でした。

ちなみに、LED関西のファイナルに残った時、科長に相談すると「起業するか、病院辞めるかどっちかにして。」と言われました。
なんで病院勤務も好きだし、まだ収入ができるわけではないのに、
創業するだけで助産師辞めなきゃいけないの。

理不尽なことが嫌いな私は、たまたま当時就職説明会のお手伝いにて一緒になった人事部長に直談判w
副院長にも話をつけにいき、
結果”パートならOK”をいただき、今でも勤めています。

ちなみに、これにより今では当院でも副業OKとなりました。
前例は誰かが作った過去。私の好きな言葉です。

産婆を「会社」に連れて行く

起業してまず考えたのは、「どこに助産師を置けば、一番効果的か」ということでした。

昔の日本には、「産婆(さんば)さん」がいました。
地域に住んでいて、出産だけでなく、育児相談や夫婦喧嘩の仲裁までしてくれる、頼れるおばちゃん。
それが、戦後のGHQの政策などで出産が病院化され、助産師は病院の中に閉じ込められてしまったんです。

その結果、何が起きたか。
地域から、生活から、日常から、「ケアの専門家」がいなくなりました。
核家族化が進み、隣近所の付き合いも希薄になり、お母さんたちは孤立しました。

だったら、
「地域コミュニティを復活させよう」

言うのは簡単ですが、一度壊れたものを元に戻すのは至難の業です。
自治会や婦人会も機能していない今、人が集まる場所はどこにあるのか。
現代社会で機能していると言える、コミュニティはどこにあるのか。

そこで私が目をつけたのが、「企業」でした。

現代人にとって、一番長い時間を過ごし、帰属意識を持っているコミュニティは「会社」です。
ならば、会社の中に助産師を常駐させればいいんじゃないか?

「えっ、会社に助産師?」
LED関西のプレゼンでも、最初はみんなにポカンとされていました。

でも、よく考えてみてください。
働く世代の悩みは、仕事のことだけじゃありません。
不妊治療、妊娠中の体調不良、保活、産後うつ、更年期障害、親の介護……。
これらはすべて、仕事のパフォーマンスに直結します。

なのに、会社には産業医や保健師はいても、助産師はいません。
産業医の先生は内科や精神科が専門のことが多く、そして男性で年配の方が多い。
女性特有の悩みや、家庭のデリケートな問題、最新の女性の健康や周産期事情には詳しくないことも多いんです。

だからこそ、企業に「顧問助産師」を置く。
従業員がいつでもLINEで相談できるようにする。
そうすれば、病院に行く前の「ちょっとした不安」の段階でケアできる。

この今の「THE CARE」の前進となる構想を受け入れてくれたのが、THE CAREのローンチカスタマーでもある大阪信用金庫さんです。前述したサポーター企業の1社で、”保健師”として当時の共同経営者のさっこ(助産師)を雇ってくれました。妊娠された方の全数面談を皮切りに、各支店を回って健康支援をしたり、セミナーをしたり。
結果的に切迫早産率の改善など、産業衛生学会で発表する成果にもつながりました。

さて、株式会社With Midwifeに話を戻します。
私は、With Midwifeをひとつの”プロダクト(製品・サービス)”と捉えています。その全体イメージはナースコール。
病院のナースコールのように、いつでも押せて、対面でも非対面でも繋がれて、その先には自分のことをある程度知っている専門家がいる。
そんな社会を事業を通じて実現したい。その先に、ビジョンである「生まれることのできなかった、たったひとつの命でさえも取り残されない未来」の実現があると思っています。

この構想を後押ししてくれたのが、2023年に訪れたフィンランドでの経験でした。

フィンランドは幸福度ランキング世界一の国。
そこでは「ネウボラ」という切れ目のない子育て支援制度が有名ですが、私が注目したのは「ユース指導員」という存在でした。

彼らは学校や地域に入り込んで、若者の悩み相談に乗ったり、居場所を作ったりしています。もともとは自身が不登校だったり、少し課題がある子ども時代を過ごしていたり。ユース指導員に助けられた子供達が、また資格を取得してユース指導員になっていく。
そのある意味街のお兄ちゃんお姉ちゃんが学校を周り、「決して孤独な人をつくらないぞ!」という気概で声をかけ、もし不登校の子がいたらユース指導員の拠点に誘い、関係性を構築する。
ケアが社会に、生活の中に溶け込んでいるんです。

「これだ! 私がやりたいのは日本版のこれだ!」

企業というコミュニティに、助産師という専門家を溶け込ませる。
そうすることで、働く人とその家族を守るセーフティネットを作る。
決して孤独を作らない。

このアイデアを形にしたのが、顧問助産師改め、伴走型従業員支援サービス「THE CARE(ザ・ケア)」です。人事の両立支援担当者として、専属のウェルネスコーディネーターが受け持ち企業の福利厚生や社則も理解しながら、個々の従業員やその家族に365日寄り添います。

THE CAREを作った理由

THE CAREは、ただの相談窓口ではありません。
私たちのこだわりが詰まった、魂のサービスです。

最大の特徴は、「AIではなく、必ず人間が答える」こと。

最近はチャットボットやAI相談も増えていますが、私たちはあえて有人対応にこだわっています。なぜなら、悩みを持つ人が本当に求めているのは、「正解」ではなく「共感」だからです。

「つらいですよね」「よく頑張ってますね」
その一言があるだけで、人は救われます。
画面の向こうに血の通った人間がいる、という安心感。
それが信頼関係を生み、深刻な相談(虐待や自殺念慮など)を引き出すことにつながるのです。

また、相談のハードルを下げるために、NASUの前田さんにもチームに加わってもらいデザインも工夫しています。
「助産師に相談」というと、「指導的」「意識高い系」と思われがちです。

そこで、サービスやアプリのアイコンには猫と犬のキャラクターを採用しました。ゆるくて可愛いキャラが「最近どう?」って聞いてくる。
これなら気軽に返信できますよね。

この戦略は当たり、THE CAREは多くの企業に導入していただきました。
伊藤忠商事、ロート製薬、オートバックスセブンなど、名だたる大企業が「従業員のウェルビーイングのために」と採用してくれたのです。

驚いたのは、利用者のデータです。
なんと、相談者の約30%が男性です。

「妻が妊娠中なんですが、どう接したらいいですか?」
「更年期障害でイライラしてしまって……」
「育休を取りたいけど、上司に言い出せなくて」

男性もたくさん悩んでいました。
でも、男性が弱音を吐ける場所は、不妊やプライベートな健康の悩みを吐き出せる場所は、社会にはもっと少なかった。

THE CAREは、そんな男性たちの「駆け込み寺」にもなっています。

そして、経営者の方々に響くのは、やはり数字です。
私たちの試算では、これらの悩みは個人の問題だけにとどまらず、望まない離職や生産性の低下につながり、出社しても生産性が低い状況をそのままにすることで、従業員1人あたり年間約56万円もの損失を企業にもたらしています。
また、社会全体では育児離職による年間6,300億円もの経済損失推計や、女性管理職比率の引き上げ、男性育休取得率の向上が採用競争力に直結要因にもなっています。

メンタル不調による休職や離職を防ぐ。
プレゼンティズム(出勤しているけど体調が悪くて生産性が落ちている状態)を改善する。

ケアはコストではなく、投資である
これを証明できたことや社会全体での認知が進んだことは、事業拡大の大きな鍵になりました。

また、今With Midwifeには全国500名超もの助産師が登録してくれています。
そして、働く人の側面、病院の外の知識をより深く知るためのLicense saysを受講してくれた人は、200名を超えました。
彼女たちの中には「潜在助産師」と呼ばれる、資格はあるけど現場を離れていた人たちも多いです。

彼女たちが、自宅にいながらスマホ一つで誰かの相談に乗り、命を救う。
そして報酬を得て、自分のキャリアも輝かせる。

私たちのミッションである
助産師があなたの世界を明るくする
これは、相談者だけでなく、助産師自身に対しても向けられた言葉なんです。

せっかくスキルがあるのに活かせていない、
なのにその先にその専門性があれば救えたはずがいるのって”もったいない”じゃないですか。

情報や支援があれば、もっとパフォーマンスを発揮できるのに、
それに出会わないだけで人生がかげってしまう、
それって”もったいない”じゃないですか。

最初のウェディング事業も同じ。
せっかく親友と祝いたいのに、ただ通例で親友に幹事を依頼して、一生に一度の時間を親友と共に楽しめないなんて、”もったいない”じゃないですか。

もったいない、は正義

今も夜勤に立つ理由


経営者として多忙な(笑)日々を送る私ですが、実は今でも月1〜2回は病院で夜勤をしています。

「社長がそこまでする必要ある?」とよく聞かれます。
でも、私にとってはこれは生命線です。

現場を離れてしまったら、私はただの「元・助産師の経営者」になってしまう。今の妊婦さんが何に悩み、現場のスタッフが何に苦しんでいるのか。
その肌感覚を失ったら、本当に良いサービスなんて作れないと思っています。

けどこれは3%くらいかもしれません。笑

やっぱりお産が好きなんです。赤ちゃんが好きなんです。
赤ちゃんが生まれる瞬間の、あの神々しさ。
お母さんが女性から母親の顔になる瞬間の、あの美しさ。強さ。しなやかさ。

そして夜勤明けの朝、病院を出た時の清々しい空気もすき。
ちょっと目はしょぼしょぼして、太陽の光が眩しいけど
生まれてはじめて光をみた赤ちゃんこんな感じかなって考えたり「ああ、今日も命をつないだぞ」という充実感もすき。
それが私のエネルギーの源になっています。

また2026年3月には、初めての本『働く親のためのサバイバルガイド』も出版することになりました。

これもまた、「もったいない」精神から生まれたものです。

現場で培ったノウハウや、先輩ママパパたちの知恵。
それを自分たちだけのものにしておくのはもったいない。
せっかく私は働くと育てる両面知っているのに、
これを留めておくなんて、もったいない。
本という形で広く届けることで、もっと多くの人を救いたい。

(でも、NASU前田さんに「note書け!」って言われて数ヶ月寝かしてしまうくらい、文字を紡ぐの苦手なんですが……(この文章も読みにくくてすいません)。)

本を書くの、めちゃくちゃ大変でした。
何回も「無理かも」って思いました。夜中に書いて、朝また仕事して、休日も書いて、そんな中引っ越しやプライベートもあって、家族に頼りまくって、それでも締切が近づいてきて焦って、もう心折れそうで(涙)。

でもそのたびに、THE CAREを通じて相談を受けてきたはた親の顔が浮かんで、「今まさにしんどい人がいるのに、ここでやめたら、手を抜いたら一生この本は世の中にないままや」って思って、なんとか戻ってきました。

そして実ははた親本は全国の図書館に配置されることも決まり、所蔵されています。話が逸れますが、この本もはた親のみなさんの今の、そして未来の航海が少しでも楽になる一助になれたら嬉しいです。

知らないと、もったいないですからね!笑

「もったいない」の奥にあったもの


私がなぜここまで「ケア」にこだわるのか。

最近、その理由を言葉にしようとすると、いつも最後に残るのは「もったいない」という感情です。

せっかく助産師という専門性があるのに、それが病院の中だけに閉じ込められているのが、”もったいない”。

せっかく誰かに相談できていれば、少し違う未来があったかもしれないのに、その入り口に出会えないまま人生が影っていくのが、”もったいない”。

せっかく本人の中に力があるのに、孤独や不安や制度の隙間によって、その人らしさが発揮されないままになってしまうのが、”もったいない”。

そして何より、救えるはずだった命が、誰にも気づかれないまま失われていくことが、どうしようもなく、”もったいない”。

でも、この「もったいない」の奥には、たぶん怒りもあります

なぜ、痛みが見えているのに放っておかれるのだろう。
なぜ、助けてと言うまで、限界まで頑張らなければならないのだろう。
なぜ、命を守る専門家がいるのに、必要な人の生活の中には届いていないのだろう。

病院で見た命。
家の中で泣いていた赤ちゃん。
仕事と妊娠のあいだで押しつぶされそうになっていた女性。
産後の孤独の中で、自分を責め続けていた母親。
そして、14歳の手術台の上で、まだ自分の喪失の意味もわからなかった私。

その全部が、今の私の中でつながっています。

私がつくりたいのは、特別な人だけが支援につながれる社会ではありません。困った人だけが、最後の最後に助けを求める社会でもありません。もっと手前で、もっと日常の中で、もっと自然に、専門家に出会える社会です。

体調が悪くなってから病院に行くように、心が限界になってから相談するのではなく、まだ言葉にならない不安の段階で、誰かに話せること。

「これくらいで相談していいのかな」と思うことを、ちゃんと相談していいと思えること。

自分ひとりで抱え込む前に、そっとナースコールを押せること。

私にとってWith Midwifeは、そのための社会のナースコールです。

病院のベッドサイドにあるナースコールは、患者さんが「助けて」と言葉にできなくても押せるようにそこにあります。それと同じように、働く人やその家族の生活の中にも、いつでも押せるボタンが必要だと思うのです。

妊娠したとき。
育児がつらいとき。
パートナーとの関係に悩むとき。
親の介護が始まったとき。
更年期で自分の体がわからなくなったとき。
仕事に行けるけれど、本当は心が限界に近いとき。

そんなときに、ひとりで耐えなくていい。
誰かの人生が、取り返しのつかないところまで沈んでからではなく、その手前で支えられる社会をつくりたい。

そして、その先にちゃんと自分のことがわかってくれていて、安心できる存在にいてほしい。

受援力は個人の努力なんだろうか


「助けて」と言える力のことを、受援力と言います。

でも私は、この受援力を個人の努力だけにしてはいけないと思っています。

助けてと言える人になりましょう。
相談できる人になりましょう。
弱音を吐ける人になりましょう。

それはもちろん大切です。けれど、本当に必要なのは、「助けて」と言える場所が、ちゃんと社会に実装されていることです。

助けてと言ったときに、責められないこと。
相談したときに、たらい回しにされないこと。
弱音を吐いたときに、弱い人だと扱われないこと。
その一手を必ず掬い上げ、決して手放されないこと。

受援力は、個人の力であると同時に、社会の受け止める力でもある。

だから私は、ケアを事業にしたかったのだと思います。

でも、優しさだけでは続かない。
善意だけでは広がらない。
制度だけでは届かない。
だから事業にすれば、必要としている人に、継続して、何度でも届けられるかもしれない。

ケアを、特別なものではなく、社会のインフラにしたい。

それが、14歳の私が言葉にできなかった願いの、今のかたちなのだと思います。そして、ずっと35歳までここにある思いです。

あの手術台から今日まで

14歳のあの日、父は泣いていました。

産める身体に産んであげられなくて、ごめん

あの言葉は、今でも私の中に残っています。

でも、35歳になった今、私は少し違う受け止め方をしています。

あの時の父の涙は、私の人生を閉じるものではありませんでした。
むしろ、私の人生がどこへ向かうのかを、今あるこの仲間たちへの道筋を、静かに照らした最初の光だったのかもしれません。

産むことができないと知った私は、命を守る側になろうと決めました。

赤ちゃんの泣き声を聞いた私は、医療だけでは救えない命があると知りました。

病院で働いた私は、白い壁の内側で待っているだけでは届かない痛みがあると知りました。

起業した私は、助産師の力を社会に届けるためには、助産師自身が変わり続けることが必要だと知りました。

そして今、私はようやく思います。

私の人生は、失ったものを取り戻すためだけのものではなかったのだと。

喪失は、たしかに私の原点です。
でも、喪失だけが私を動かしてきたわけではありません。

そこには、父の愛がありました。
母の自由さがありました。
ままちゃんがくれた自己効力感がありました。
香川の山奥で、みんなに育てられた記憶がありました。
塩田先生の優しい言葉がありました。
病院で出会った母子の命がありました。
一緒に会社をつくってくれる仲間がいました。
そして、何度も何度も、私に相談してくれ、苦しさを届けてくれた人たちの声がありました。

私は、たったひとりでここまで来たわけではありません。

たくさんの人に支えられ、たくさんの命に教えられながら、今日まで歩いてきました。

35歳の誕生日に、この文章を書いている今も、私の中には14歳の私がいます。

病室のベッドで、痛いと泣いていた私。
家族を悲しませまいと涙を引っ込めた私。
それでも、何かを守る側になりたいと、必死に前を向いた私。

あの子に、今なら言ってあげたいです。

大丈夫。
あなたの人生は、終わっていないよ。

あなたが失ったと思ったものは、いつか、誰かを守る力に変わるよ。

あなたが産めなかった命のかわりに、あなたはたくさんの命のそばに立つことになるよ。

そして、あなたがひとりで抱えた痛みは、いつか「もう誰もひとりにしない社会」をつくるための、灯火になるよ。

私は、産めない身体になったから、命の尊さを知ったのかもしれません。
産めない身体になったから、産む人の孤独に敏感になったのかもしれません。
産めない身体になったから、生まれる前の命も、生まれた後の命も、まだ形にならない願う気持ちも、その周りにいる家族も、働く人も、全部つながっているのだと知ったのかもしれません。

だから私は、これからもケアに執着します。

きれいごとだと言われても。
事業として難しいと言われても。
助産師が会社にいるなんて不思議だと言われても。
そこまでやる必要があるのかと言われても。

それでも、私は続けます。

生まれることのできなかった、たったひとつの命でさえも取り残されない未来を、本気で信じているからです。

助産師が、あなたの世界を明るくする。

この言葉を、ただのミッションではなく、社会の現実にしていきたい。

14歳のあの日、手術台の上で失ったものがありました。
でも、その日から手の中にあるものが今、確かにあります。

今日、35歳になった私は、これからもその続きを生きています。

そしてこれからも、誰かがひとりで泣かなくていい社会をつくるために、ずっと命のそばに立ち続けます。

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