「応援」が人を追い詰める時――ほどよい距離感について考える
少し前に、荻上チキsessionのレギュラーゲストである永井玲衣さん登場時に実施される「哲学対話」コーナーで、「応援するって何だろう」というテーマが扱われていた。
放送されたのは5/13なので2週間ほど前になるが、ちょうど自分の中でも考えていたテーマだったので、とても興味深く聞いた。
「応援する」という立場で自分がいちばん怖いと感じるのは、「応援」が、応援される側にとってプレッシャーや支配になってしまうことだ。
特にSNSでは、その危うさが強くなる気がする。
社会問題に取り組む人や、被害回復のために声を上げた人が、多くの人から応援されること自体は悪いことではない。
むしろ、孤立しやすい問題であればあるほど、「見ている人がいる」「支えてくれる人がいる」という感覚は重要だと思う。
ただ、その応援が、いつの間にか「止まれなくなる空気」を作ってしまうことがある。
「認められたい」「応援されたい」という気持ちは、多かれ少なかれ、多くの人が持っていると思う。それが「応援してもらうために○○しなければ」と義務感になってしまうと危うい。
差別被害を受けた人が加害者を訴える裁判。
ハラスメント被害者が加害者を告発する裁判。
そうした裁判をいくつか応援してきた。
その中で、ずっと考えていたことがある。
「応援」が、本人を休めなくしてしまうことへの恐怖だ。
「期待しています」
「頑張ってください」
「あなたが希望です」
そういう言葉は、善意として発せられる。
しかし、被害当事者にとっては、それが「弱音を吐けない」「途中で止まれない」という圧力になることもある。
特にSNSでは、応援が可視化される。
「こんなに応援されているのだから、自分が頑張らないといけない」
「ここで止まったら期待を裏切る」
「疲れたと言ってはいけない」
そういう感覚に追い込まれてしまうこともあるのではないか。
そして時には、社会問題に取り組む人自身が、応援の熱量の中で暴走していくような場面を見ることもある。
もちろん、それは本人個人の問題だけではない。
周囲が「正しさ」をどんどん求め、「象徴」として担ぎ上げてしまう構造もあるのだと思う。
自分は、応援する時に、その距離感にいつも悩む。
必要な時には休みながら続けてほしい。
(もちろん現実には「休みたくても休めない」局面があることも重々承知ではある)
でも、「守ってあげる」というような、相手を弱い存在として扱う態度にもなりたくない。
さらに、必要以上に英雄化したり、「社会正義の象徴」のように祭り上げたりすることは避けたいと思っている。
応援する側は、気を抜くと、「応援している自分」に酔ってしまう危険がある。
応援される側だって、疲れるし、迷うし、時には逃げたくなる。
それでも前に出ざるを得ない、普通の人間である。
「頑張れ」だけではなく、「休んでも大丈夫」ということも含めて支える必要があるのではないか。
ただ、それをどうやって実現するのかは、簡単ではない。
距離を取りすぎれば無関心になる。
近づきすぎれば支配になる。
その間の、「ほどよい距離感」がどこにあるのか。
自分は今でも、悩みながら応援している。
そして明日、そんな裁判のひとつを応援に行く。
