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邦画『シン・ウルトラマン』レビュー|なぜ私は、この不器用なヒーローに惹かれたのか

この作品を視聴した後に私の中に残ったのは派手な戦闘よりも、妙に静かな感情でした。

巨大な怪獣が出てくる。宇宙人が現れる。国家レベルの危機が起きる。

それなのに、観終わってから考えていたのは、
「なぜウルトラマンは、そこまで人間に肩入れするのだろう」
ということでした。

私はこの映画を、単なる特撮ヒーロー作品ではなく、
人間を理解できなかった存在が人間に興味を持ち、少しずつ距離を縮めていく物語として観ています。

人間社会の中に、ひとりだけ異物がいる

『シン・ウルトラマン』の主人公・神永新二には、どこか不思議な雰囲気があります。

人間らしい見た目をしているのに、周囲とわずかにズレている。
会話も感情表現も淡々としていて、仲間と同じ空間にいても完全には馴染んでいません。

私はこの違和感が結構好きでした。

彼は人間社会の中心にいるようで、ずっと外側から人間を見ています。

人はなぜ怒るのか。
なぜ誰かを信頼するのか。
なぜ自分の利益にならないことをするのか。

普段なら当然すぎて考えない行動が、外部の視点から見ると妙に不可解に映る。

この映画には、そんな「人間を初めて見る目」があります。

怪獣映画なのに、会話のほうが面白い

巨大生物との戦闘はもちろんあります。

ただ、私が特に面白かったのは、むしろ人間と外星人が話している場面でした。

この映画に登場する外星人たちは、単純な侵略者ではありません。

暴力だけで押してくるわけでもない。
人間の社会制度を理解し、政府と接触し、交渉し、情報を利用する。

つまり地球侵略が、かなり現代的。

兵器を持って都市を破壊するよりも、契約や信用、外交を利用したほうが効率的なのかもしれない。

そう考える外星人たちの存在によって、怪獣映画でありながら、奇妙な政治劇にもなっています。

メフィラスという妙に魅力的な存在

私がこの映画でもっとも印象に残ったキャラクターの一人が、メフィラスです。

彼は人間社会に驚くほど自然に入り込みます。

言葉を理解し、文化を覚え、人間の欲望までよく知っている。
しかも、いかにも悪役らしい態度を取るわけでもありません。
穏やかで、礼儀正しく、話も通じる。

だからこそとても不気味。

メフィラスは、人間のことをかなり理解しています。
ただし、その理解は人間を尊重するためのものではありません。

どうすれば人間を動かせるかを知っている。
その意味での理解です。

私はここに、この映画の重要な対比があると思いました。

人間を知ることと、人間を大切にすることは同じではありません。
理解は、支配のためにも使える。
その冷たさをかなり上手く描いています。

「合理的であること」が正しいとは限らない

物語が進むにつれて、人類そのものの危うさも見えてきます。

人間は高度な技術を欲しがる。
国家は国益を考える。
力を手に入れれば、それをどう使うかという問題が生まれる。
外星人から見れば、人類は決して無害な存在ではありません。

だからこの映画では、
「人間を守ることは、本当に正しいのか」
という問いが浮かび上がってきます。

これが私としては、良かった。

人類は素晴らしい。
人類は善良だ。
だから守るべきだ。
そんな単純な人間賛歌にはなっていません。
むしろ欠点だらけです。

それでもなお、人間に価値があると考えられるのか。
ウルトラマンという存在を通して、その問題が描かれています。

「そんなに人間が好きになったのか」

『シン・ウルトラマン』を象徴する言葉として、
「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」という台詞があります。

公開前から印象的に使われていた言葉ですが、映画を観ると意味が少し変わって聞こえました。

これは単に、「人間が好きなんだね」という話ではありません。

むしろ、
「なぜそこまで非合理的な選択をするのか」という問いに近いと思います。

人間は完璧ではない。
危険でもある。
裏切る可能性もあります。
それでも関わろうとする。

私は、その非合理さこそがウルトラマンのヒーロー性なのだと思いました。

人間を「種族」ではなく「誰か」として見る

遠くから人類だけを眺めれば、かなり変な生き物です。

争い、欲望を持ち、感情に振り回される。
統計や歴史だけを見れば、悲観的な評価を下すことも簡単でしょう。

ところが、一人の人間として知ってしまうと話が変わります。

一緒に働く人がいる。
信頼してくれる人がいる。
誰かのために危険を引き受ける人もいる。

この映画の面白さは、「人類」という大きな存在を語りながら、最後にはかなり個人的な関係へ戻ってくるところにあります。

私は、人間への愛着というものは、最初から人類全体へ向くものではないと思っています。

具体的な誰かを知る。

そこから世界の見え方が少し変わる。

ウルトラマンも、そんな順序で人間に近づいていったように見えました。

『シン・ゴジラ』とは似ていて、かなり違う

政府。
会議。
専門用語。
組織的な対応。

こうした要素を見ると、『シン・ゴジラ』を思い出します。

ただ、私には両者はかなり違う作品に感じられました。

『シン・ゴジラ』では、人間は理解不能な巨大災害にどう対処するかを考えます。
一方、『シン・ウルトラマン』では、異なる存在同士がどう関係を築くかが中心です。

だから戦闘だけではなく、会話が重要になります。

理解できないものを排除するのか。
利用するのか。
それとも関わり続けるのか。

私はこの映画を怪獣映画というよりも、かなり不器用な異文化交流の映画として観ました。

初代『ウルトラマン』を知らなくても楽しめるのか

私は、初代『ウルトラマン』への知識があるほど楽しめる作品だと思います。

怪獣や外星人の登場、映像表現、構図、音楽など、原典への目配せがかなり多いからです。

ただ、それを知らなければ成立しない映画ではありません。
むしろ初見でも、「異星人が人間を知っていく物語」という一本の軸は追いやすい。

一方で、かなり情報量が多く、展開も速い。
怪獣、外星人、政府、科学技術、外交、仲間との関係が次々に登場するため、感情面をもっとじっくり見たかったという不満は残りました。

私は特に、神永と禍特対のメンバーが親しくなっていく時間をもう少し見たかったです。

不器用だからこそ、ウルトラマンらしい

『シン・ウルトラマン』は、すべてがきれいにつながった映画ではありません。

展開は忙しい。
説明も多い。
人物描写が駆け足に感じるところもある。

それでも私は、この映画が好きです。

その理由は、ウルトラマンが「完全な正義の存在」として描かれていないから。

人間のことを最初から理解しているわけではない。
正解を知っているわけでもありません。
観察し、迷い、他者と関わりながら少しずつ考え方を変えていく。

その姿が妙に人間臭いのです。

終わりに|私が『シン・ウルトラマン』で好きだったもの

私がこの映画で一番印象に残ったのは、結局のところ「人間への距離感」でした。

人間はすばらしい、と無条件に持ち上げる映画ではありません。

むしろ、
面倒くさい。
危なっかしい。
欲深い。
理解しづらい。
それでも、なぜか見捨てられない。

そんな視線で人間を眺めています。

私は、そのくらいの人間賛歌のほうが信用できます。
欠点を消したうえで愛するのではなく、欠点を知ったあとでも関わろうとする。
『シン・ウルトラマン』にあるのは、そんな不器用な肯定です。

だから私には、巨大ヒーローが地球を救う映画というより、
「よく分からなかった人間を、いつの間にか好きになってしまった存在の物語」として残りました。

「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」
私はこの言葉こそ、『シン・ウルトラマン』のすべてを表していると思います。

ぜひ視聴してみてください!


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