芋と一緒に売られると思って泣いていた──母が洋裁を習っていたのは本当だった
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架空の仏壇屋、西野光照です。
皆さまは子どもの頃の記憶を覚えていらっしゃるでしょうか。今日は1960年から1970年頃のおぼろげな記憶を、AIに『思い出補正』してもらいました。
ここのところミシンの記事が続きましたが、たぶん、どこかに母の思い出があるのだと思います。28年前、私が38歳の時に61歳の母を亡くしましたが、今でも覚えているのは、母が馬車馬のようにいつも働いていた姿です。母が嫁入り道具として持ってきた黒ミシンも、壊れていたので、後に父が処分してしまいました。

母が黒ミシンで縫ったのだと思いますが、子どもの頃、我が家には肥料袋で作ったカーテンが掛かっていたのです。貧乏だったのは確かですね。
家は田舎造りの中古の平屋を移築した家でしたが、父は若い頃から二階建てに憧れていたので後に家を建て直します。

その頃、畑ではさつまいもを作っていました。冬の間は種芋をトタン葺きの納屋(バラック)で保管していましたが、ネズミ退治は猫の大切な仕事でした。

秋になると、父は耕運機に芋掘り用のプラウを取り付けて、さつまいもの収穫をしていました。掘り起こした芋は、母や祖母たちが泥を落として揃え、出荷されていたのです。

収穫したさつまいも(でん粉芋)を買いに来るおじさんがいました。怖そうな顔をしていたので、兄弟そろって泣いていました。
オート三輪に載せられて、でん粉芋と一緒にどこか遠くへ売られてしまうのではないかと、本気で思っていたのです。
私がヤフオクで古いシンガーミシンを買って自分で直したのは、そんな母の思い出を忘れたくなかったからなのかも知れません。
納屋兼車庫には、今でも母が使っていた錆びた裁ちばさみを捨てずに残しています。

母は父と結婚する前、小学校で洋裁を習っていたようです。これは母を知る古老から聞いた話なので詳細は分かりません。
調べてみると、昭和20年代後半から30年代前半は、まだ既製服が少なく、自分や家族の服を仕立てるために洋裁や和裁を身につける女性が多かった時代だったそうです。若い女性にとって裁縫は花嫁修業の一つでもあり、暮らしに欠かせない技術でした。
母がミシンを当たり前のように使えたのも、そんな時代背景があったからなのでしょう。
皆さまは、お母さんの思い出の品を大切にされていますか。
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