大人食堂の椅子とフードコートというアジール(避難所)
一、 QRコードの先に見えた「生の能動性」と承認の拠点
子ども食堂ならぬ、高齢者の孤食問題への対応として始まる「大人食堂」のお手伝いをしています。その意義をあらためて実感することができたのが、ある日の大人食堂での出来事でした。
次回案内のために用意したQRコードを前に、一人の高齢の方が慣れない手つきでスマートフォンの画面と格闘しておられました。指先を震わせながら、周囲の手助けを得てようやく予約が取れた瞬間、その方は満面の笑みを浮かべて呟かれました。
「これで次も来れる」
その心からの喜びようを目にしたとき、胸を突かれる思いがしました。その方は、前回も前々回も早々にお越しになり、毎回決まった同じ席に座られています。大人の交流の場である「おとな食堂」でも、不特定多数との緊張感ある知的交流や高度な会話を求める前に、まず「私はここに来ていいのだ」という圧倒的な安心感と承認の拠点が必要なのだということを、その姿から教えられました。
その様子から、中世史家の網野善彦らが論じた「アジール(避難所・聖域)」という言葉が頭に浮かびました。それは単なる避難場所ではなく、既存の社会的役割や世間のしがらみから守られ、ただそこにいること自体が肯定される空間を意味しています。
高齢になり、社会的役割や肩書が減っていく中で、あの大人食堂の「いつもの椅子」は、自らの領土を確かめ、生の主導権を取り戻すための小さなアジールそのものだったのかもしれません。不慣れなQRコードに挑んでまで予約を確保しようとした行為は、自らの手でそのアジールを守り、未来の安心を獲得しようとする力強い「生の能動性」だったのではないでしょうか。
二、 フードコートの風景と「緩い固定性」というサードプレイス
思い返せば、私はこれと同じ情景を、都市の別の場所でも目にしていたことに気付きました。
近所の総合スーパー(GMS)のフードコートです。
異なる時間、異なる日に通りかかっても、特定のテーブルに高齢の方々が集まり、店内で買ったお菓子や総菜を広げて談笑しています。メンバーは毎回完全に一致しているわけではないのですが、はた目から見れば同じグループだとわかる程度の「緩い固定性」を保っています。
ガチガチの濃密なコミュニティでは「行かなければならない」という負担が生じてしまいます。一方で、完全な不特定多数の場では常に自己紹介や文脈の共有作業という緊張を強いられます。その中間に位置する「行けば誰か知っている人がいて、混ざってもいいし、黙っていてもいい」という緩い固定性こそが、高齢の方々にとって最も傷つかない、洗練されたサードプレイス(第3の居場所)の形なのだということなのでしょう。
しかし、高度に効率化された現在の都市部からは、こうした「茶飲み話」ができるゆとりや余白が徹底的に排除されつつあります。商業空間からは回転率を下げる「お金を払わない滞留」が排除され、公園のベンチには横になれないような仕切りが作られます。都市から「ただそこにいていい場所」が消えていく中で、フードコートのテーブルや大人食堂の椅子は、追い詰められた人々がたどり着く最後の防波堤となっているにちがいありません。
三、 理想の北極星と、足元にともる小さな灯り
「大人の談話」というと哲学者のカントが人間学の中で論じ、自身も実践していた「開かれた会話による人格的の高度化」というものが一つの理念型として存在し、それはそれで、たしかに美しく高潔な目標かもしれません。
とはいえ、現代都市の過酷な摩擦の中で生きる人々にとって、まず必要なのは「同じ人々が、同じ空間を共有し、美味しく廉価な食事をゆっくりと楽しめる」という、確かな再現性と安心感であるのはずです。
「ある程度固定されたお客様が多い」という現実は、理想からの遅れでも失敗でもありません。それは、都市の余白を失った時代において、人々が生き延びるために自然発生的に作り出した、ささやかで尊い防波堤の姿ということができるでしょう。
合理的で理性的な衣をまとう理想の北極星を遠くに仰ぎ見ながらも、いま目の前で灯っている小さなあかりを守ること。あの「いつもの椅子」に座り、「これで次も来れる」と笑ったその人の笑顔の中に、私は大人食堂が果たすべき、確かな存在意義を見出すことができたのです。
