朝井リョウさんのエッセイを読んで胸に来るものがあったので、感想を書いてみる。
朝井リョウさんのエッセイ、「時をかけるゆとり」を読んだ。
何を隠そう、私も朝井リョウさんと同じくゆとり世代。
そして朝井リョウさんと同郷である。
同じような年代に同じ県で過ごしていたため、エッセイに出てくる描写がいちいち懐かしい。
特に地元長良川の花火大会に行っていた話なんて、私も同じような年代に行っていたわけで。
もしかしたら、あの日同じ河原で、同じ花火を朝井リョウさんもみていたのかも知れない。なーんて思うと胸アツでますます好きになってしまった。
ちなみに朝井リョウさんの長良川花火大会は素敵な夏の1ページだったのに対し、私の思い出と言えば知らないおじさんに浴衣の上からお尻をなでられたことが筆頭だ。なんてこと。
生まれて初めてのセクハラだったので、「これがセクハラか…。」と若干感慨に耽ってしまったことを白状する。そして自分が、セクハラしたくなるようなお尻をしていたことに若干安心してしまった。
そう、大尻でも需要はあったのだ。
エッセイを読んでしみじみ思ったのは、
作家は自分とは別次元の存在ではなく、ライフステージに合わせて同じような経験をし、日々成長していること。
作家も同じ人間で、同じように笑い、同じように悔しかったり焦るときがあること。
これは朝井リョウさん自身が幼少期を振り返るエッセイで綴っておられるが、この本自体、読者と同じ目線でしゃがんでくださっているようだった。
歳が近いので同じような時代を過ごし、同じような社会現象や流行りものを経験してきている。
著名な作家さんなんて、社会という大河にドンブラコと流され続ける自分のような体験なんてせず、読書・執筆の繰り返しだと思っていた。
私と同じように受験をして、
1ルームのアパートで生活して、
大学生らしい若気の至りな旅行をして、バイトをして、ピンクな体験をして、ニコニコ動画を見て、
若年故の失敗もたくさんして、
昔大流行りしたリアル脱出ゲームだって朝井リョウさんはやっていて、
同じように大人になっていったのだ。
著名な作家さんでも人生を大いに楽しみ、失敗もしていた。
作家さんも、私と同じ時代を生きていたのだ。
エッセイは、朝井リョウさんが大学時代~社会人1年目に経験した面白おかしい経験を、素顔に近い言葉でまとめたものだ。同じゆとり世代のため、使用される言葉がいちいちエモくて読みやすい。とにかく読みやすい。声を出して笑ってしまうこと必須で、あっという間に読み終えることができた。
でもさすがは史上最年少で直木賞を受賞された文才の持ち主。
公的に書かれるものとそうでないものの温度差が激しく、さっきまでキャッチボールをしていたのに急に150キロの豪速球をぶん投げられたような気分になってしまった。
特に直木賞受賞直後に書かれた自伝的エッセイは胸が熱くなる内容で、文章が上手くなりたい人間は一読することをお勧めする。
全ての物書きのモチベーションを上げる文章だった。
あとは朝井リョウさんが友人の親戚のお宅にお世話になる話。
初めて会ったにもかかわらず大層もてなしてもらい、一泊後は周辺観光までしてもらったそうだ。
その時の自分の想いと感謝を丁寧に綴られている。
私も、子どもの頃にお世話になったお宅のこと、20代の頃にしてもらった忘れられないご恩のエピソードは何個もある。忘れられない思い出になるか否かは、本人次第だ。
そういったご縁の思い出は個人の胸に刻まれ続け、一生ものの想い出になる。
いつか子どもの友人が作家になったとして、子どもの頃お世話になったお尻の大きな友人のお母さんの話をするかもしれない。
その時のためにも、今後出会う若い子や子どもの友人など、若人たちには大層もてなそうと心に誓った素敵なエピソードだった。
