委ねるということ──『水辺のつつじ』ep.66
そこからの数日を、僕はぼんやり過ごしていた。
喉が渇けば水を飲み、お腹が空いたらものを食べ、眠くなるまで本を読み、適当なところでシャワーを浴びる。
ごみはごみ箱の底が見える程度にしか溜めていないし、洗濯物はエアコンの下で揺れている。
ローテーブルに置いたアネモネは茎こそだいぶ短くはなったけれども、今日も青い萼を瑞々しく開いている。
ぼんやりと過ごすのは、わりあい文化的かつ健康的かもしれない。
なんて思い始めている。
何か問題があるとすれば、化学の先生が部屋の中に水溜りを作ったまま眠る生活から抜け出せなくなるのを「まあ、僕には関係ないしな。」と切り捨てるのがこれで何回目なのかわからないことかもしれない。
彼はいつまでこんな生活を続けるのだろうと心配になってきたところではある。
というのは、本の中の話だ。
「もしもし。」
ゆうかだ。
一日に一回……いや、二日に一回……
特にきまりも法則もないけれど、こうして言葉を交わす。
彼女は昨日、オムライスを食べたらしい。
それが何でもホワイトソースがかかっていたとかで、はじめはもの珍しさと行列の末の達成感とで感動すら覚え、写真だの動画だのを撮って、録って、とりまくったのだそうだ。
ああ、だからか。
僕はメッセージアプリの通知のことを思い出していた。
「でも、私気づいちゃったんだよね。ホワイトソースよりもデミグラスよりも、ケチャップ派だなあって。」
僕もそう、スマートフォンを耳に当てたまま頷いた。
そんなことをしたところで、何も伝わりはしないのだけれども。
「でも、萌はさ。ホワイト派になった、とか言ってて。ちょっと嘘でしょー? って。」
彼女は笑っている。
楽しそうで、よかった。
「それからね、萌が教えてくれたんだけど──」
僕が考えてもみなかったこと。
自分とは程遠いものだと思っていたこと。
へえ、なんて間の抜けた声を出していたら、肝心の場所と店名を聞き逃した。
「ねえ、瑞樹君。」
「ん?」
「ご飯、食べた?」
「え? ああ……ご飯……食べたよ。おにぎり。」
「それだけ?」
「ううん。鮭のおにぎりを二つ。ファミマの。」
通話を終えた僕の手元には、こんなメモが残った。
──原宿、モエちゃん、オムライス:ホワイト<デミ<ケチャップ
──ゆうか、瑞キと行きたい所?
──自分、朝ごはん、鮭のおにぎり二個、ファミマ
僕はノートの端を破り、半分に折ってスウェットパンツの右ポケットに突っ込んだ。
「自分、朝ごはん、鮭のおにぎり二個、ファミマ……」
これっぽっち、書かなくたって覚えていられそうなものなのに。
現に覚えているのだけれども。
でも、この紙切れが歩くたびにカサ、カサ、と音を立てると僕はどういうわけか安心できた。
「瑞樹?」
多分、彼はそう言ったのだろう。
信号をひとつ隔てた道に、見知った顔が立っていた。
傍らには、黒いラブラドール・レトリバーが行儀良く座っている。
信号が青に変わっても、二人は──
一人と一匹は動こうとしなかった。
木島君、僕が呼びかけるよりも早く彼は話し始める。
「なあ、どこ行くの?」
何が面白いのだろう。
木島君は薄らと笑っている。
「どこって……コンビニだけど。」
僕の答えを聞いた木島君の笑いは、濃さを増してきた。
「コンビニって……そこじゃだめなの?」
彼の指差した方、そう、たった今僕が素通りしたところ。
青い看板が白く光っている。
黒い犬は口をかぱっと開けてあくびをした。
白く、柔らかな退屈が忙しない国道脇の歩道に浮かぶ。
「それに、お前んちから徒歩五分圏内にセブンあるよな?」
木島君はもう笑っていなかった。
代わりに、敏腕刑事みたいな顔をして僕を見ている。
「そもそも、なんでまたそんなに髪が濡れてるんだ?」
排気ガスの薄膜に覆われてもなお鮮やかな青色の空は、僕にかけられた嫌疑をより深くした。
「風呂入ってて。」
「風呂? こんな時間に?」
こんな時間に。
きっと、世間一般の風呂の時間とは大幅にずれているのだろう。
それは何となくわからなくもない。
すぐ横をスーツをパリッと着こなした会社員風の人が耳と肩でスマートフォンを挟み、手の甲を押さえつつ「すぐ、戻ります。」と走り去った。
「で、風呂入ってコンビニに?」
「うん。」
「何目当てで?」
「朝ごはん。」
「朝ごはん……? 明日の?」
「今日の。」
木島君は、ほとほと困ったという顔をして耳の後ろを掻く。
ずれたニット帽を直しつつ、続けた。
「朝ごはんは何食べるつもりで?」
答え出せなくて、ポケットの中の紙切れを広げた。
木島君は軽く顎を上げ、代わりに目線を低くする。
「自分、朝ごはん、鮭のおにぎり二個、ファミマ。」
僕の走り書きをさらりと読み上げた木島君は、身を清めてまで買うものかよ、とげらげら笑った。
暇を持て余し、うつらうつらしていたラブラドールが「なになに、たのしいこと?」と言わんばかりに立ち上がり、尻尾をぶんぶん振り回した。
「ファミマ!」
木島君は幾度となくコンビニの名前を叫んだ。
道を挟んで僕の背後、木島君の左手側の自動ドアが開く。
元気のいい、「ありがとうございました」と揚げ物の匂いが漏れ漂ってきた。
幾度目かの「ファミマ!」の後、僕は犬のリードを引き、歩いている。
「チナツちゃん。」
犬は振り向かない。
「それは人間。俺の彼女。」
隣を歩く木島君は、わずかにむくれた。
「リサちゃん。」
アーモンド型の瞳が僕を見つめる。
「あ、リサ。お前、ほんとメンクイだな。」
彼はそう言うと腰をかがめて黒い背をワッシワッシと撫でた。
同じ手で僕の頭を同じようにすると、「お、乾いてる。」と呟いた。
「でもさ、気をつけろよな。」
残り一口になったファミチキを口に放り込むと、しばらく間があってから言った。
「禿げるぞ。」
髪を梳く風が、いやに冷たく感じられた。
そんなの、加齢性変化のひとつに過ぎない。
気に留めたこともなかった。
それよりも、遺伝的要因を探ろうにも手がかりの切れ端すら見つけられないことの方が何となく寂しかったりもする。
「自然乾燥はよせ。マジで。」
その横顔は、真剣だった。
油まみれの包装を握り込むと、犬の首へとつながるリードに手を伸ばす。
代わりに僕は、リードの輪から手を離した。
一匹が立ち止まる。
二人も立ち止まる。
「またな。」
「また。」
最後に、と僕はしゃがんで黒いつやつやの頬を撫でた。
コンビニの白い袋をぶら下げて、アパートへと向かう。
向かい風に撫でられる左頬だけが冷たい。
冷たくなった肌を指で撫でた時、自分が今、笑っていることに気づいた。
訳がわからなかった。
違う、わからないふりをした。
ここでわかってしまったら──
僕はすっかり乾いた襟足に触れた。
いいんだ、これでいい。
僕は笑顔を消して、冷えた扉の鍵を回した。
ローテーブルに、ビニール袋を置く。
ポケットから、しわくちゃになったメモ紙を取り出した。
──自分、朝ごはん、鮭のおにぎり二個、ファミマ
「ごちそうさまでした。」
僕がまたぼんやりし始めた時、アネモネの青は閉じていた……?
それとも……?
遮光カーテンの隙間からはおそらくまだ、光が差し込んでいたように思う。
僕は夢を見るのだろうか。
そして次はいつ、目覚めるのだろうか。
そんなことを、後付けで考えてみるのだった。
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前話はこちらです。
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エピソード数にどんびくこと勿れ。
基本、一本読み切りになる構造です。
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連載中の習作。
男子高校生の夏休みの話。
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完結済み。
高校一年生の夏前の話。
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【エッセイ】
目の中で虫が死ぬ話。
一年以上前の記事です。
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ゆきお様・解説
作中に登場する生命体の持つ意味を徹底解説してくださっています。
私の小説は不親切と名高いので、「???」な方はぜひ、ゆきお様の解説を。
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はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し