満ちては欠ける──『水辺のつつじ』ep.65
他人行儀な身体をベッドに横たえて、まばたきを繰り返す。
眠ろう、眠ろう……
そうやって目を閉じるのに、身体は思い出したように熱を持って疼き始める。
さながら、雨降りの朝に古傷が痛むように。
ここは紛れもなく僕の部屋なのに、どうにも「自分が招かれざる客」のように感じられてならないのは何故なのだろう。
横倒しに見る玄関ドア、届いたきり開けていないAmazonの箱、それに昨日の朝食べたクロワッサンの空袋。
可燃ごみの収集日を逃して溢れているごみ箱。
そして今、僕が潜り込んでいるこのベッド。
あのドアを開けたのも、あの箱の中身を注文したのも、クロワッサンを食べたのも、収集日を二回も忘れ、ごみ箱を溢れさせたのも全部、僕のはずだ。
だって、この間仕切りのない箱に暮らしているのは僕なのだから。
「まただ……」
ふらふらと身を起こす。
剥き出しの傷がじくじくと痛むのをやり過ごす。
頭の芯が冷えるのを待つ、ただそれだけ。
僕はこうして、その波を幾度となく超えてきた。
ベッドの縁を沈めたまま、今度はまっすぐに、それでいてぼんやりと目だけで部屋を行ったり来たりした。
すぐ目の前のローテーブルに、同じ形をしたコップがふたつ並んでいる。
引っ越した時に買った、透明なコップだ。
僕はそのうちのひとつに手を伸ばす。
コップの中に残っていた水を身体の中へ注いでいく。
もう片方には花が挿してある。
部屋で見るとずいぶんとはっきりとした青色をしている。
うしろの色を透かしてしまうような青色のそれは、花びらだとばかり思っていたけれど、本当は違うらしいことを一体、僕はどこで覚えたのだろう。
色を失くしたのは僕の方だろうか。
それとも──
アパートへ帰る道すがら、僕は花を買った。
初めて入る花屋だった。
曲がり角の、小さな花屋。
その壁には、棘だけになった薔薇が蔓をめぐらせている。
「贈り物ですか?」
「……はい。」
僕はまたひとつ、嘘をついた。
「素敵ですね。」
そう微笑んだその人は、花にセロファンを着せながら言った。
「この花は、夜になったら眠ります。」
僕にはその言葉の意味がわからなかった。
リボンの色を問われ、「白で」と答えた。
朝とも夜ともわからない、薄暗い店内は耳を澄ませば草花が水を吸い上げる音が聴こえてきそうなほど静かだった。
リボンを結ぶ手元を眺めながら、耳を澄ませる。
奥の方でぱちん、ぱちんと音がする。
入り口でからん、とベルが鳴る。
「わあ、綺麗……」
溜め息混じりの声が漏れる。
ただ、それだけだった。
一輪の花を抱くように持ち、店を出た。
空の眩しさに僕は俯く。
からりと乾いたアスファルトを見下ろす。
ぎこちなく前へ進む黒い革靴は、いい加減そろそろ磨いたほうが良さそうだ。
白と青のツートンカラーの車が僕の横を通り過ぎる。
塵芥収集車だ。
「ああ……」
僕は自分の部屋のことを思い出していた。
いよいよ見慣れたアパートの玄関の前に立った時、「ん?」と首を傾げてしまった。
いつもの癖でコートの右ポケットに手を突っ込む。
キーケースが入っていた。
その鍵で、扉は開いた。
光を拒むカーテンをすり抜けた陽射しが微かに部屋を照らしている。
壁にかけたコートも、脱いだままのシャツも、どれも僕のもののはずなのにどれも全部、別の誰かのもののように感じられた。
たかだか一日で、全て塗り変えられてしまったかのように。
まるで誰か別の、僕以外の誰かが暮らす部屋に、その人物が留守の隙に侵入してしまったような罪悪感を覚える。
僕は恐る恐る、中へと進む。
「誰か、いますか……?」
馬鹿げている。
そんなことはわかっている。
でも、問いかけずにはいられなかった。
──誰か、いますか。
その声だけがいつまでも頭蓋内で響いていた。
腕の中で花がぐったりしている。
セロファンと、薄青の透かし紙と、白いリボン。
美しく着飾った青い花は、より一層青さを増したようにも見える。
僕はまず、リボンを解いた。
長く垂れた端を指先で引くと、シュッと音がして花型に組まれていた飾り結びは跡形もなく崩れていった。
リボンが解かれると、透明なセロファンは光を弾きながら広がり、透かし紙だけが花を包んでいる。
僕はまず、セロファンをたたんだ。
端と端とを合わせ、一折り、二折り。
それからリボンを左手の親指と人差し指に掛け、八の字にまとめた。
最後、薄青の透かし紙を外した。
全てを脱ぎ去った花を、僕はしばらく眺めていた。
僕が今飲み干したのは、花に飲ませたのと同じ水だ。
消毒の匂いが鼻の付け根に溜まる。
まだ残っているのか、それともまた生まれたのか。
再び淀み始めた毒を薄めるにはちょうどいい。
そう思った。
でも、花の方はどうだろう。
ようやく立ち上がった。
全身の関節が緩い。
よろめきながら、二つのコップを台所へ運ぶ。
僕は毒味でもするみたいに、水を飲み続けた。
花に飲ませるのに相応しい味を求めて。
空っぽの身体は無尽蔵とも思えるほど水を欲していた。
僕たちの利害関係はきっと、完璧に成り立っていた。
今、また僕はベッドに身を横たえている。
どうにか眠ろうと、眼を閉じた。
シーツを握る。
繊維のひしゃげる音がした。
伸び切らない皺の陰影。
その先でぼやけている青い花はもう、すっかり閉じている。
まるで、毛布にくるまり眠っているように。
鍵を閉めたかどうか、それすらも定かではないけれど、今の僕にはそれを確かめに行くだけの気力がない。
かけ違いのボタンを直すこともなく、僕は誰かのベッドに──いや。
誰かが僕のふりをして、僕のベッドで不眠に喘いでいるのだった。
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「水辺のつつじ」、連載再開です。
いや、また潜る可能性大ですが、ひとまず全く書けない局面は超えました。
ただ、まだ見えたものが文字にできていない感は凄まじい。
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前話。
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息抜き習作の連載【井上と白石シリーズ】。
今回は高校二年の夏休み編です。
二人の二日間についてのお話。
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導入部分。
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高校一年の夏休み直前編、完結済みです。
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もはや私の親友、上原朔也の大正を生きる物語。
私は大正時代に生きていたことはないのでイメージです。
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【エッセイ】
「お前の小説、面白くないんじゃ!」の方へ。
これならいかがでしょうか。
去年はエッセイとか日記とか書いておりまして……
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ゆきお様・解説
わかりにくい章だからこそ、解説がありがたい……
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よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し