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五感に訴える小説が書きたい、と思った本––遠藤周作「沈黙」|月野未知

長く連載している漫画家の絵柄が変化していくほどはわかりやすくなくても、小説家の文体も変化していくものだ。

自分を小説家、と呼ぶにはおこがましいけど、定期的に小説を書いている私の文体は、過去二回大きく変わっている、と自分では思っている。

いずれも、私にとって大きな意識改革ではあったが、当たり前といえば当たり前のことでもある。

しかも今現在、それを毎回意識できているものでもなし、結局外から見たらわからない程度の差かもしれない。

ただ、知る前と知った後では、多少なりとも変化があると自分で信じるために、今ここに敢えて書く。

直近の一回は、大学生のころに講義を受けて、面白い小説を書くためには構造の設計が必要だ、という考えをインストールした直後の変化だ。

そしてその前の一回は、ただただ思うがままに台詞と小説を書いていたころから、描写の重要性に気付いて、必要な描写を書き込むようになったことだ。

そしてそこまでの変化をもたらした本が、遠藤周作の『沈黙』だ。

そもそもこの本を読もうと思ったのは、確か高校一年生の夏休みの読書感想文の課題図書の一覧にあったからと記憶している。

学校がカトリック系で、ミサに参加したり神父やシスターの先生にキリスト教のことを教えてもらったりして、キリスト教を信じるということがどういうことなのか、興味があったのだ。

『沈黙』を読み進めていくうち、絶望的な展開に打ちひしがれるとともに、本から立ち上ってくる臭いを感じた。

キチジローが人間の皮脂の臭い。不潔で、甘ったるくて、むせかえりそうな臭い。特段、それに関する直接的な描写はないにもかかわらず、だ。気持ち悪くなって一度本を閉じたのを覚えている。

そして驚いた。小説から臭いがするなんて有り得ないと思っていたからだ。

小説は視覚で読むもので、視覚のほか、聴覚や触覚は近い感覚だからよく描写もされるし、想起させることも難しくないと思う。でも嗅覚が、それも今までに感じたこともない実感のない臭いを、こんなにまざまざと感じるのは、どうなっているのだろう。

これがうまい小説というものか、と感じ入ったし、私もこんな風に五感に訴える小説が書いてみたいと思った。

ちなみに、このころ私は歴史小説にハマっていて、平安~鎌倉時代の習俗を調べてそれを写実的に描くことを意識した創作をしていた。

つまり、調べて知ったことをそのまま書くばかりで、自分で五感の感覚的な描写を足すことはしていなかった。

調べてわかったことをただ並べて書くだけじゃ、こうはならないんだ。

それに気づいて、雷に打たれたようだった。

私が今まで書いていたのは、小説の体裁に落とし込んだ調べものであって、小説じゃなかったんだ、とすら思った。

今も自作の小説で五感に訴えかける描写ができているか、といえば疑問符が浮かぶが、この体験をしたことで、「こういう小説が書きたい」という指標を手に入れたことは、本当によかったと思う。

私は今日も、少しずつ、少しずつ、理想をつかむために、本を読み、小説を書いている。

調べてみると、『沈黙』の原題は『日向の匂い』であるらしく、私のもっとも印象に残ったものとは違えど、嗅覚についてもある程度意識して書かれた小説、というのは間違いない。

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