【祖父の形見】『(永岡書店)ことわざ小辞典』と振り返ってみるわたしの人生 part.12
前回のことわざ
「明き家で声嗄らす」
諦めは心の養生
意味:
過ちや失敗などをいつまでも気にして思いなやんでいても、
どうしようもない。
(気持ちがはればれしないと健康によくないし、精神的に参ってしまう。)
こんなときは、しかたがないと思い切ることが大切で、
つとめて精神衛生に心がけるに越したことはない。
まさに、仰る通りです。
過ちがあれば反省して改善点を見つけたら
さっさと次に行くのが良いに決まっております。
意味通りに精神的のみならず、
時間的にもそうですね。
一時一時に巻き起こる出来事で動く感情、
思うことがこの人生は多過ぎます。
まぁわたしもそれらを処理しきれず、
取りこぼしたものもたくさんありますが、
今こうして処理できる心も、
日々何かを書くことによって鍛錬することができております。
大切なのは「自分には無理だ」と決めつけないことでしたね。
最初は億劫であっても、
一週間も投稿を続ければ内容はなんであれ自然と習慣になるものです。
もしも今後わたしが記事を書き続けることよりも
面白い趣味を見つけたとして、
「やっぱり記事を書き続けた方が実りがあった~😢」
などと思うようなことがあったとしても、
その時はそれが面白いと感じていたのだから
全てが失敗だとは思いません。
むしろ後悔が感情の先に立つというのなら、
それは前の趣味の良さが際立つため、
次はより一層実りある時間にできると思います。
「失敗は回り道」だと考えれば、
どんなことでも最後に笑うための種蒔きになるのです。
しかし、自分の行為が失敗や過ちと気付く、
あるいはそうだと意識しなければ
改めることもできません。
結局のところ、
自分の行動の良し悪しを判断する価値観や
感覚を持ち合わせていなければ
それを実行することもできないのです。
故にそれを自分で知識を身に付けるか、
他者と自分を照らし合わせてみて己を顧みるかでしか
案外知りえないことなのです。
そういった意味ではわたしの祖父の存在は風刺画や故事の体現であり、
周りの人間を戒める存在でもあったと思えます。
最も、本人は顧みることはなかったようですが、
好きに人生を過ごせたようで幸せそうではありました。
それでもわたしは、
周囲の人間のことを考えた言動でいた方が
より幸せになれるとは思いましたね。
わたしこそ一時の気の迷いで行動したこと、発言したことを
後悔する時もあります。
しかしその度に何一つ無駄な時間はなかったと、
前向きに捉えるようにもなりました。
人間の心は肉体に備え付けられている器官ではないため目視できません。
それ故にどれだけ鍛えられているのかは分かりません。
目に見えぬが故に大きさも感じ方も人それぞれ。
ただし、人生で体験する一つ一つの出来事は
次に起こることへの布石になり、
それをどう処理するかによっていかようにもできるものです。
それを試練や修行と例えることもできますが、
どんな生き方をしようと
人生が遊戯であるという感覚を持ち合わせているのならば
何でも良いと思います。
そこには何人も否定も干渉できない。
ただ、人理や道徳さえ守っていれば
人目を気にして縮こまる必要はないのです。
いかがでしたでしょうか?
今回もまた書き方を変えてみました。
本当は「諦念」など、
仏教の言葉による私見も語りたかったのですが、
どうしても普段の半分程度に抑えてみたかったので、
自分が語りたいことだけを記述してみました。
感想等あれば是非ともコメントして頂けると嬉しいです。
貴重なお時間を割いて
最後までご拝読して下さってありがとうございました。
少しでも皆様の人生の助けとなれたら幸いです。
次回
