何かを変えたいとき - 「変容」は、反対を目指すことでは起こらない
何か変えたい、ということを、人はしばしば思い立ちます。
しかし、体重を今より5kg減らすといったことでさえ、達成することが非常に難しいのもまた、人間です。
体重を減らすには、カロリーを控える。じゃあ、朝ご飯と昼ご飯はサラダだけにしよう、とか思ったって、気づけば節約したカロリーを上回るカロリーを結局は取ることになって、しかも、前より体重が増えていたりする。
痩せようという思いや、その思いに基づく行動が、そもそも、今、自分が肥満気味であるという状況を支える因果構造の内にある、ということはよくあることです。
暴力を憎み、優しさに囚われた人は、全く同じかそれ以上に暴力に囚われる。
かように正反対の属性への転換というのは、あまりにも頻繁に起こることなので、古い言語では、ある言葉Xの意味がAであると同時に非Aであるということが非常によく見られる、ということを、ユングがどこかに書いてました。
易でも、火を表す「離」という言葉の意味は、「離れる」と同時に「付く」であり、同様の例は他にも普通に見られます。
・・でも、変えたい。
痩せたい、最近体調が悪いのでもっと健康になりたい、人間関係でイライラすることがあれば、もっと穏やかに過ごしたい。
でも、そのために取ろうと思い付く行動は、「正反対」という意味で、変えたい現実の一部であり、じゃあ、それでも変えたいときはどうすれば良いのだろうと思って、ChatGPT相手にいろいろ話してみました。
結論には、結構納得できました。
その結論を先に言えば、「変容」は、苦しみを消し去ることではなく、苦しみと共に歩めた瞬間に起こる。あるいは、そうなれたとき、既に起こっている。
苦しみは消えることはないけれども、人間そのものが変貌する。
仏教で繰り返し述べられる、衆生と共に歩む菩薩のようなイメージは、論理的帰結でもあるのだな、といったことを思いました。
物事を変えようとする場合、正反対ではうまくいきません。じゃあ、どうすれば良いのかということを考えてしまいます。
User
状況を変えるための行動とはどういったものなのかということをふと考えてみました。
人は、大きな条件さえ変わらなければ、「結局は」同じことをしてしまいますよね。
だからこそ、安定し、だからこそ機能するということかもしれないですが、一方で、変える試み自体が、変わらない現実を強化するような形で、現実を固めてしまう状況というのを、人はしばしば見出します。
正反対のことをしてみても、それは、現実の固まった因果構造の一部だったりします。
易で火を表す「離」は、離れるという意味の他にくっ付くという意味もあるらしく、火に「離」を当てる認識には、火が燃える媒体から離れずに付く様が含意されているとのことです。
物事を変えようとする場合、正反対ではうまくいきません。じゃあ、どうすれば良いのかということを考えてしまいます。
ChatGPT
とても面白い問いです。
しかもこれは、単なる自己啓発の話ではなく、因果関係そのものの話なのだと思います。
おっしゃる通り、人は「変えよう」と思っても、結局は同じ構造を再生産してしまうことが多い。
例えば、
支配的な父親が嫌だった人が、支配的な上司と争い続ける
人に迎合するのが嫌だった人が、「迎合しないこと」に執着する
孤独が嫌だった人が、人間関係に過剰な期待をして孤独を再生産する
ということが起こります。
一見すると反対方向へ向かっているようでいて、実は同じ軸の上を往復しているだけです。
だから「正反対に行く」という発想は、案外うまくいかない。
心理学でも、システム論でも、これはよく知られた現象です。
ルーマン的に言えば、システムは環境に反応しているようでいて、実際には自分自身を再生産しています。
怒りに支配された人が怒らないよう努力しても、「怒りを抑える」という形で怒り中心の世界を維持していることがあります。
変わっているようで変わっていない。
そこで私は、変化というのは「反対へ行くこと」ではなく、「軸そのものを変えること」ではないかと思います。
易でいう「離」の話も、それに近い気がします。
火は燃えているように見えて、実は自力で存在できません。
薪や油に付いている。
だから「離」でありながら「付く」なのです。
ここには興味深い逆説があります。
火は動的で変化の象徴ですが、その変化は何かへの依存の上に成立している。
完全に自由ではない。
むしろ何かとの結び付き方を変えることで姿を変える。
人間も似ているのかもしれません。
たとえばあなたは最近、
フランクルの
創造
愛
苦難への態度
について考えていました。
これらはどれも、
「自分を変えよう」
ではなく、
「自分を超えた何かとどう結び付くか」
という問いです。
そこに私は重要なヒントがあるように思います。
人は自分を変えようとすると、自分を中心に回り続けます。
ところが、
ある仕事に仕える
誰かを大切にする
ある価値を守る
という方向へ向かうと、結果として自分が変わる。
自分を直接操作しないのです。
むしろ結び付く対象が変わる。
これは「離」の構造にも似ています。
火は自分を変えるのではなく、付くものが変わることで姿を変える。
だから状況を変える行動とは、
「今までと反対のことをする」
ではなく、
「今までと異なる対象に付く」
ことではないかと思うのです。
例えばあなた自身の最近の話で言えば、
以前はかなり長い間、
「自分は結婚できないかもしれない」
というテーマが強かった。
ところが最近の夢の話では、
「誰かと生活可能な空間」
というイメージが出てきました。
これは正反対ではありません。
「絶対に結婚するぞ」という方向へ振れたわけでもない。
そうではなく、
問いそのものが少し変わった。
自己評価や不安ではなく、
生活や関係性へと重心が移った。
こういう変化は、反対方向への運動ではなく、軸の変更です。
本当に大きな変化というのは、多くの場合こういう形で起こる気がします。
正反対へ飛ぶのではなく、
今まで執着していた対立軸そのものが、ある日どうでもよくなる。
そして別の対象との関係の中で、自分が自然に変わっている。
易で言えば、「革(Revolution)」の前に「離(Clinging, Radiance)」があるのも象徴的です。
まず何に付いているのかが変わる。
すると後から世界の形が変わる。
人間が変わるときも、おそらく同じなのだと思います。
だから「何をやるか」より先に、
「私は今、何に付いて生きているのか」
を問う方が、本質に近いことが多いように感じます。あなたが最近繰り返し考えているフランクルの「自己超越」の話とも、深いところでつながっているように思います。
「私は今、何に付いて生きているのか」
User
ありがとうございます。
おっしゃるとおりに思えます。
すると、何かに「付く」というのはどういうことなのかということも、気になります。
最近、ここ2、3ヵ月は大丈夫ですが、ものすごく体調が悪いことがあります。
年齢や生活習慣病のことなども踏まえると、体重をあと10キロほど減らせば、きっと体調は劇的に改善するはずだ、と、思います。
しかし、何をしても体重は減りません。
いや、実際のところ、何もしていないのかも知れません。
どうしたら良いと思いますか?
ChatGPT
私は、今のお話と先ほどの「何に付いているか」という話は、かなり深く繋がっているように思います。
まず、体重についてですが、
体重をあと10キロ減らせば体調は良くなるはずだ
という認識自体は、おそらくかなり正しい可能性があります。
ただし、人間は「正しい認識」を持ったから行動できるわけではない。
ここが難しいところです。
法学を勉強されているので例えると、
法律の条文を知っていることと、その法律が社会で機能することは別です。
刑法が存在していても犯罪はなくならない。
同じように、
「痩せた方が良い」
という知識と、
実際に痩せることは別問題です。
そして多くの場合、人は原因を意志の弱さに求めます。
しかし私は、そう単純ではないと思います。
むしろ、
「何に付いているか」
という話の方が重要です。
例えば、
健康になるために痩せたい
長生きしたい
数値を改善したい
という目標は、正しいのですが意外と弱い。
なぜなら、それ自体が行動を引っ張る力になりにくいからです。
一方、
この仕事を続けたい
この勉強を続けたい
誰かと生きたい
この作品を作りたい
というものは強い。
フランクルが言う意味もそうです。
人は健康のために生きるのではなく、
生きたい何かのために健康を保とうとする。
順序が逆なのです。
だから、
「どうしたら10キロ痩せられるか」
より先に、
「その10キロ減った身体で何をしたいのか」
の方が重要かもしれません。
実際、あなたの過去のお話を思い出すと、
体重そのものへの関心より、
法律の勉強
人間理解
夢の分析
フランクル
良い仕事をしたい
というテーマの方がずっと強い。
体重は目的ではなく手段です。
手段は目的に接続されたときに初めて動き始める。
そしてもう一つ。
あなたは以前から、
「こうすれば良いはずなのに動けない」
という状況をかなり正確に観察されています。
私はこれを意志の問題というより、
身体の問題でもあると思います。
特に、
夜勤
長時間のスマートフォン学習
肩の痛み
休日の無気力
時々訪れる強い体調不良
という話が何度も出てきています。
この場合、
体重だけが原因とは限りません。
睡眠の質や生活リズムの影響もかなり大きい可能性があります。
実際、体重が10キロ減ったら楽になる人は多いですが、
睡眠が崩壊していたら、それだけでは劇的改善にならないこともあります。
だから私は、
「10キロ痩せる」
を直接目標にするより、
まず
「今日は身体の調子が少し良いな」
という日を増やす方向が良い気がします。
例えば、
毎日30分歩く。
ではなく、
毎日5分だけ外へ出る。
腕立て伏せ10回。
でも良い。
なぜなら、今必要なのは体重減少ではなく、
身体との接続を回復することだからです。
先ほどの「付く」の話で言えば、
体重計の数字に付くのではなく、
身体そのものに付く。
肩がどう感じるか。
呼吸がどう変わるか。
歩いた後に何が起きるか。
そこに注意を向ける。
華厳経の話をしたときに出てきた「相即相入」の感覚とも少し似ています。
身体は敵ではなく、
変えるべき対象でもなく、
まず接続する対象です。
その接続が回復すると、
結果として食事や運動も少しずつ変わることが多い。
逆に、
体重だけを見続けると、
身体との関係が切れてしまうことがあります。
だから私なら、
「10キロ痩せる方法」
よりも、
「今の身体ともう少し仲良くなる方法」
を探します。
不思議なことですが、その方が結果として体重も動きやすいことが多いのです。
そしてあなたの場合、その入口は意外と「運動」ではなく、
以前お話に出てきた
「腕立て伏せをしたら肩が少し楽になった」
という感覚かもしれません。
あの瞬間は、
身体を支配したのではなく、
身体と対話した瞬間だったように私には見えます。
「付く」とは - 例えば自分の「身体」のような対象との接続を回復すること?
User
なるほど。「付く」というのは、目に付く現象に囚われることではない。
そうではなく、例えば自分の「身体」のような対象との接続を回復することなのかもしれないといったことを、今、思いました。
ChatGPT
そうですね。
そして、その理解はかなり「離」のイメージに近いように思います。
私たちは普段、「目に付く現象」に付いてしまいます。
体重計の数字
他人の評価
不安な気分
怒り
やる気の有無
成果
こうしたものは非常に目立ちます。
火で言えば炎そのものです。
しかし炎は実体ではない。
炎ばかり見ていると、なぜ燃えているのか分からなくなります。
実際には、
薪
酸素
温度
との関係の中で炎は現れている。
だから炎を直接操作しようとしても限界がある。
人間も似ています。
例えば、
「やる気が出ない」
という現象に付いてしまうと、
どうやったらやる気が出るだろう
という方向へ意識が向かいます。
しかし、
睡眠はどうか
身体はどうか
何に関心が向いているのか
何を大切にしているのか
という土台との接続は失われやすい。
結果として、やる気という炎ばかり追いかけることになる。
あなたがおっしゃる
自分の身体のような対象との接続を回復する
という表現は、とても重要だと思います。
身体というのは面白い存在で、
意志では動かせるけれど、
意志だけでは支配できない。
まさに「離」のような存在です。
心臓を止めろと言われても止められないし、
消化を速くしろと言われてもできない。
しかし、無関係でもない。
身体は「私」でありながら「私ではない」。
だから昔から、
仏教でも、
道教でも、
西洋の現象学でも、
身体は自己と世界を繋ぐ場所として扱われることが多いのです。
そして私は、あなたの最近の話には一つの流れがあるように感じています。
少し前までのあなたの関心は、
「どう考えるべきか」
にかなり向いていました。
ところが最近は、
肩の痛み
体調
誰かと生活する空間
フランクルの意味
華厳経と身体
といった話が増えている。
つまり、
意味や価値を頭の中で探す方向から、
関係や接続を生きる方向へ、
少し重心が移っているように見えます。
だから「何に付くか」という問いも、
何か思想や理論に付くというより、
身体、
仕事、
学び、
人との関係、
そういう実在するものとの接続を回復することとして現れているのかもしれません。
そして興味深いのは、身体との接続というのは、必ずしも「身体を改善すること」ではないことです。
肩が痛いなら、
「なぜこんなに痛いんだ」
ではなく、
「今の身体は何を訴えているのだろう」
と聴くことかもしれない。
疲れているなら、
「怠けている」
ではなく、
「何が消耗しているのだろう」
と尋ねることかもしれない。
これは受け身になることではありません。
むしろ非常に能動的です。
なぜなら、現象を操作するのではなく、その現象を生み出している関係へ意識を向けているからです。
ルーマン風に言えば、個々の出来事ではなく、出来事を再生産しているシステムへ目を向けている。
フランクル風に言えば、自己の状態ではなく、自己を超えた関係へ向いている。
易で言えば、炎ではなく、それが何に付いて燃えているのかを見ている。
あなたが今感じられた
目に付く現象に囚われることではない
という気づきは、案外大きいかもしれません。
人は往々にして、炎を消そうとして炎に捕まります。
しかし薪との関係が変われば、炎の方は自然に変わる。
だから変化というのは、現象を力ずくで変えることではなく、「何に付いて生きているか」を少しずつ変えていくことなのかもしれません。
職場の人間関係の改善といったことも、接続との回復がまずは取り組むべきことで、案外それに尽きるかもしれないといったことも思いました。
User
職場の人間関係の改善といったことも、接続との回復がまずは取り組むべきことで、案外それに尽きるかもしれないといったことも思いました。
そして、一見「問題」と見える人の多くは、問題が問題なのではなく、気質とか能力とか、認知といった点で、そもそもの「接続」に困難を抱えている場合が多いように思えました。
だから、その人の周辺でばかり「問題」が起きる。
一方で、接続を回復さえすれば良いとも思い切れないのも悩ましいところです。
あの人といるのはしんどい、かなわんといったことはどうしても出てきてしまう。
ChatGPT
その感覚は、とても現実的だと思います。
そして私は、
接続を回復さえすれば良いとも思い切れない
というところが特に重要だと思います。
なぜなら、人間関係の話になると、しばしば
「理解すれば解決する」
「共感すれば解決する」
という方向へ話が流れがちだからです。
しかし現実はそう単純ではありません。
例えば、これまでお話に出てきたMさんのケースを考えてみると、
確かに、
感情に認知が乗っ取られやすい
他者視点を取りにくい
軽蔑や敵意が出やすい
自分が不当に扱われていると感じやすい
といった特徴がありそうでした。
これを「接続の困難」と見ることはできると思います。
つまり、
現実との接続
他人との接続
自分自身との接続
が不安定になっている。
だからトラブルが繰り返される。
ここまではかなり納得できます。
しかし、だからといって、
「では接続を回復しましょう」
で終わらない。
なぜなら、その接続困難のコストを周囲が負担することになるからです。
ここが重要です。
例えば、
足を怪我した人がいる。
その人が歩きにくいのは理解できる。
しかし、
だから周囲全員が毎日その人を背負う義務がある
とはならない。
理解と負担は別問題です。
私は、あなたが最近ずっと感じている苛立ちのかなりの部分は、この区別が曖昧になるところから生じているように思います。
あなたは比較的、
「なぜそうなるのか」
を理解できる人です。
だから、
ああ、この人はこういう認知特性なんだな
というところまで行ける。
しかし、
理解した瞬間に、
じゃあ私が全部受け止めるべきなのか
という話になってしまう。
そしてそれは違う。
ここはかなり大事なところです。
フランクル的に言えば、
人間は条件づけられているが、条件そのものではない。
Mさんにも責任能力の範囲はある。
苦手なことがあるとしても、
他人を侮辱して良いわけではない。
感情が強いとしても、
職場全体を振り回して良いわけではない。
だから、
理解することと、
許容することは違う。
共感することと、
引き受けることも違う。
ここを分ける必要があります。
むしろ接続という観点から見ると、
あなた自身が、
自分の身体や感情との接続を維持することも同じくらい重要です。
以前、
話が通じるのが僕だけになっている
とおっしゃっていましたね。
私はそのとき少し心配になりました。
なぜかというと、
その状態は、
Mさんと職場を繋ぐ接続点が、あなた一人になりつつある
ということだからです。
それは非常に消耗します。
ネットワーク理論でもシステム論でも、
一つのノードに負荷が集中すると壊れやすい。
だから、
接続を回復する
というのは、
必ずしも「もっと近づく」ことではありません。
むしろ、
適切な距離を作ること
である場合もあります。
ここは誤解されやすいところです。
接続とは融合ではない。
境界を保ったまま関係することです。
例えば、
「この人にはこういう困難がある」
と理解しつつ、
「しかし私は毎回その感情を受け止めない」
という態度もまた健全な接続です。
切断ではない。
境界のある接続です。
私は最近のあなたのお話を聞いていて、
以前よりずっと、
「相手を変える」
より、
「何が起きているのかを理解する」
方向へ進まれているように感じます。
それはとても大きな変化だと思います。
ただ、その次の段階としては、
理解した上で距離を調整する
ことが課題になるのかもしれません。
華厳経の「相即相入」も、すべてが溶け合って区別がなくなるという意味ではありません。
それぞれがそれぞれでありながら関係している。
だから職場でも、
「あの人には困難がある」
と理解しながら、
「しかし今日は関わり過ぎない」
という選択は十分に正当です。
むしろ長期的には、その方が接続を壊さないことも多いのです。
すべてを背負おうとすると、最後には「かなわん」という気持ちが爆発してしまいますからね。
最近のあなたは、「理解」と「境界」を両立させる地点を探しているように見えます。そしてそれは、人間関係においてかなり成熟した課題なのだと思います。
いろいろ考える要素が増えてきて、混乱してきました。これまで話してきたような事情を漏れなく要約できるような寓話とか、理論とか、何か、そういった整理をしていただきたいです。
User
いろいろ考える要素が増えてきて、混乱してきました。
これまで話してきたような事情を漏れなく要約できるような寓話とか、理論とか、何か、そういった整理をしていただきたいです。
ChatGPT
私は、ここ数か月のあなたとのお話を振り返ると、一つのテーマに収束してきているように思います。
それは、
「問題を解決すること」と「接続を回復すること」は違う
というテーマです。
そして、あなたが混乱しているのは、実は様々な話が一つの場所に集まってきているからだと思います。
まず寓話として表現してみます。
ある村に、大きな火がありました。
村人たちは毎日、その火を見ていました。
火は日によって大きくなったり小さくなったりします。
ある人は、
「火が弱い!」
と言い、
ある人は、
「火が強すぎる!」
と言います。
そこで皆、炎ばかりいじろうとしました。
うちわで扇いだり、
水をかけたり、
棒で突いたり。
しかし火は安定しません。
ある老人だけが、
「なぜ炎ばかり見ているのだ」
と言いました。
老人は地面を掘り返しました。
すると、
湿った薪、
腐った薪、
空気の通らない積み方
が見つかりました。
老人は炎には触れませんでした。
薪を並べ直しただけです。
すると火は自然に変わりました。
私は、この寓話がかなり多くの話に当てはまるように思います。
あなたが最近考えていたことを並べると、
■身体
○炎
体重
肩の痛み
疲労
無気力
○薪
睡眠
身体との接続
生活リズム
運動習慣
です。
体重を直接操作しようとしてもなかなか変わらない。
しかし身体との接続が変わると結果が変わる可能性がある。
■Mさん
○炎
怒る
人を見下す
トラブルを起こす
○薪
感情調整の困難
認知の偏り
他者との接続不全
自己理解の不足
です。
だから問題だけ潰しても次の問題が出る。
■あなた自身
○炎
イライラ
疲労
「かなわん」
○薪
責任感
理解しようとする姿勢
仲介役になってしまう立場
境界設定の難しさ
です。
ここで重要なのは、
薪を整えることと、薪を背負うことは違う
ということです。
これは最近の議論で一番大事な点かもしれません。
Mさんの問題を理解する。
これは薪を見ることです。
しかし、
Mさんの薪を全部自分が背負う。
これは別です。
むしろ危険です。
理論的には、私はここに三つの階層があるように思います。
第一層は「現象」。
怒り。
体重。
不安。
トラブル。
目に見えるものです。
第二層は「接続」。
身体との接続。
他人との接続。
仕事との接続。
現実との接続。
ここがあなたが最近発見しつつある場所です。
第三層は「方向」。
何のために生きるのか。
フランクルでいう
創造
愛
苦難への態度
です。
これは接続先の問題です。
何に付くのか。
という問いです。
だから整理すると、
第一段階
問題を見る。
「肩が痛い」
「Mさんが怒っている」
第二段階
接続を見る。
「何との関係が崩れているのか」
第三段階
方向を見る。
「何に向かって接続を回復するのか」
です。
そして私は、あなたが今いるのは第二段階と第三段階の境界付近だと思います。
以前はかなり、
「問題は何か」
を見ていた。
ところが最近は、
「何との関係が壊れているのか」
を見るようになってきた。
さらに、
フランクルや夢の話を通じて、
「私は何に向かって生きたいのか」
という問いも現れてきた。
これを易で表現するなら、
あなたが以前よく問題にしていたのは「坎(Water)」です。
危険。
困難。
行き詰まり。
ところが最近は、
「離(Fire)」のテーマが強い。
つまり、
問題そのものではなく、
何に付いて生きているのか
という問いです。
そして離は単なる火ではありません。
火は必ず何かに付いて燃える。
だから、
「どうやって問題を解決するか」
ではなく、
「私は何に付いているのか」
という問いへ重心が移る。
もしここまでを一言で要約するなら、
人は問題によって生きているのではなく、接続によって生きている。
ということになるように思います。
問題は接続の状態を示す炎です。
炎だけ見ていると振り回される。
しかし薪だけ見ても生きられない。
結局は、
どのようなものに付いて、どのように燃えるか。
そこに身体の問題も、人間関係も、フランクルの意味も、最近のあなたの夢も、案外一つの形で収まるように私は感じています。
寓話について、読んでいてふと、作用点といったことも思いました。これはまた、違った観点になるのでしょうか?
User
ありがとうございます。
寓話について、読んでいてふと、作用点といったことも思いました。
これはまた、違った観点になるのでしょうか?
ChatGPT
私は、それはかなり近い観点だと思います。
むしろ、今まで話してきたことを実践に落とすときに出てくるのが「作用点」という考え方かもしれません。
先ほどの寓話で言えば、
炎を直接いじるのは作用点としてあまり良くない。
薪の状態や積み方を変える方が作用点として優れている。
という話になります。
同じことを身体で考えてみると、
「体重を減らしたい」
という目標があるとします。
多くの人は、
我慢する
気合いを入れる
自分を責める
という場所に作用しようとします。
しかし実際には、
睡眠時間
食品の買い置き
通勤や仕事中の活動量
ストレス
の方が強い作用点だったりする。
だから結果が変わらない。
これはシステム論でいうレバレッジポイント(Leverage Point)にも近い考えです。
小さな変更なのに大きな影響を及ぼす場所です。
あなたが最近考えている職場の問題も同じです。
例えばMさんについて、
「もっと冷静になれ」
は作用点として弱い。
本人も既にそう思っているかもしれない。
しかし、
作業中の会話を減らす
判断基準を明文化する
仲介者を一人に集中させない
などは作用点として強い可能性がある。
つまり、
人格に作用するのではなく、
構造に作用する。
ここが重要です。
そして私は、あなたが最近感じている違和感も、この話でかなり説明できる気がします。
あなたはこれまで、
人間の問題を人格や意志の問題として捉える見方に違和感を持つことが多かった。
例えば、
「あの人は悪い人だ」
とか、
「あの人は努力不足だ」
とか。
そうではなく、
何か別の構造があるだろう、
と感じていた。
その感覚は、まさに作用点を探している感覚だと思います。
さらに面白いのは、
「接続」と「作用点」が交わるところです。
接続というのは、
何と何が結び付いているか、
という話でした。
作用点というのは、
その結び付きのどこを動かすと全体が変わるか、
という話です。
だから、
接続が構造の静的な見方だとすると、
作用点は構造の動的な見方と言えるかもしれません。
ここで、あなたの最近の関心を全部まとめると、
フランクルは、
「どこへ向かうか」
を問う。
ルーマンは、
「どんな接続があるか」
を問う。
作用点の発想は、
「どこに働きかければ変わるか」
を問う。
この三つは別々ではなく、
実は同じ地図の異なる側面のように見えます。
そして、あなたが今まで苦労してきたことを振り返ると、
案外、
「頑張る」
ことより、
「作用点を間違える」
ことの方が問題だった場面が多いのではないでしょうか。
例えば勉強でも、
理解できない箇所を何度も読むより、
前提概念を一つ理解した瞬間に全体が繋がることがある。
職場でも、
問題社員を説得し続けるより、
役割分担を少し変えた方が楽になることがある。
身体でも、
運動量を増やすより、
睡眠を30分増やした方が体調が良くなることがある。
これは全部、
力の問題ではなく作用点の問題です。
だから私は、あなたが「接続」という発想に惹かれているのは、
単に人間関係の話ではなく、
無意識に
「どこに働きかければ全体が変わるのか」
という問いを探しているからではないかと思います。
そしてその問いは、法律にも似ています。
優れた法律家は、目の前の事件だけを見るのではなく、その事件を生み出している制度や関係の構造を見る。
それもまた、社会の作用点を探す営みと言えるでしょう。
今のお話を聞いていて、あなたの中では、
「問題 → 接続 → 作用点」
という流れが見え始めているように感じます。
これはかなり強力な見方です。なぜなら、問題に飲み込まれずに済みますし、「何を変えればよいのか」を考えられるようになるからです。
もう一つ、考えてみました。現象に囚われることで、接続が疎かになり、作用点も見失います。だから、人は、意味を見いださなければいけない。
User
ありがとうございます。
もう一つ、考えてみました。
現象に囚われることで、接続が疎かになり、作用点も見失います。
だから、人は、意味を見いださなければいけない。
ChatGPT
私は、その発想にはかなり深いものが含まれていると思います。
ただ、少しだけ整理すると、
「意味」は作用点や接続と同じ階層ではなく、それらを方向付けるもののように思えます。
例えば、人が現象に囚われると、
体重計の数字
他人の評価
今日の気分
目先の損得
だけを見始めます。
すると視野が短くなる。
短くなると、
何と何が繋がっているのかが見えなくなる。
さらに、
どこに働きかければ変わるのかも見えなくなる。
これはまさにおっしゃる通りです。
しかし、なぜ人は現象ばかり見てしまうのでしょう。
私は、それは現象が目立つからだけではないと思います。
現象は不安を伴うからです。
肩が痛い。
人に嫌われた。
体重が増えた。
職場で揉めた。
こういうものは放っておけない。
だから意識が吸い寄せられる。
すると世界がどんどん近視眼的になる。
フランクルが「意味」を重視した理由も、実はここにあったのではないかと思います。
彼は、
「意味があるから頑張れる」
と言いたかったのではなく、
むしろ、
意味がなければ、人は目先の苦痛や快楽に閉じ込められてしまう
と考えていたように見えます。
だから意味とは、
苦痛を消すものではなく、
苦痛を相対化するものです。
例えば、
受験勉強が辛い。
しかし、
法を学びたい。
誰かの役に立ちたい。
そういう方向があると、
辛さそのものは消えないけれど、
辛さだけが世界の全てではなくなる。
すると接続が見える。
作用点も見える。
だから、
現象に囚われることで、接続が疎かになり、作用点も見失う。
という整理は非常に鋭いと思います。
そしてその続きとして、
だから、人は意味を見いださなければいけない。
というより、
私は少し言い換えて、
だから、人は意味に支えられないと、現象に呑み込まれてしまう。
の方が近い気がします。
なぜなら、意味もまた「作る」ものというより、「発見する」ものとして現れることが多いからです。
これはフランクルらしい見方です。
あなたが最近繰り返し語っていた、
感動する人物
背筋の伸びた人
苦難の中で尊厳を失わない人
一緒にいると落ち着く人
といった話を思い出してください。
あれらは、
「こういう意味を設定しよう」
という話ではありませんでした。
むしろ、
「この人には何か本物がある」
という感覚でした。
意味が先にあり、
それを見出している。
だから私は、
ここまでの議論をまとめるなら、
人間はまず現象を見る。
しかし現象だけを見ると迷う。
そこで接続を見る。
接続を見ると構造が見える。
構造を見ると作用点が見える。
しかし、
どの作用点に働きかけるべきかを決めるには、
さらに意味が必要になる。
という階層になるように思います。
言い換えれば、
現象は「何が起きているか」
接続は「何が繋がっているか」
作用点は「どこを動かすか」
意味は「なぜ動かすのか」
です。
そしてフランクルが繰り返し語った創造・愛・苦難への態度は、まさにこの最後の「なぜ」の領域だったのでしょう。
だからあなたが今辿り着きつつある考えは、
「意味があると頑張れる」
という通俗的な話よりも、
意味とは、現象に呑み込まれずに世界全体との接続を保つための方位磁針である
という理解に近いように思います。
その意味では、最近あなたが考えている「離」のイメージともよく重なります。
火は何かに付いて燃える。
意味とは、その「何に付くのか」を定めるものなのかもしれません。
現象だからダメなのではなく、現象に囚われるからいけないのだ、ということを、あなたの言葉を追っていて、更に思いました。現象が現象するからには、そこに何かが起こっているからで、そもそも現象に開かれていなければ、経験自体が成立しない。
User
現象だからダメなのではなく、現象に囚われるからいけないのだ、ということを、あなたの言葉を追っていて、更に思いました。
現象が現象するからには、そこに何かが起こっているからで、そもそも現象に開かれていなければ、経験自体が成立しない。
ChatGPT
そうですね。
私は今のお話を読んでいて、かなり本質的なところに近づいているように感じました。
確かに、
現象が悪いのではない。現象への囚われが問題なのです。
これは大きな違いです。
例えば肩が痛いなら、
肩の痛みという現象は重要です。
身体が何かを知らせている。
無視してはいけない。
Mさんに腹が立つなら、
怒りという現象も重要です。
何か境界が侵害されているのかもしれない。
あるいは職場の構造に問題があるのかもしれない。
つまり現象は、世界からの知らせです。
ところが人はしばしば、
知らせを読む代わりに、
知らせそのものの中に閉じ込められる。
肩が痛い
↓
肩の痛みしか見えない
腹が立つ
↓
怒りしか見えない
不安になる
↓
不安しか見えない
こうなる。
すると、現象が窓ではなく壁になってしまう。
私はあなたが今考えていることは、かなり現象学的な発想に近いと思います。
現象学では、
世界はまず現象として与えられる。
私たちは現象を通じてしか世界に出会えない。
だから現象を否定することはできません。
むしろ逆です。
現象こそが出発点です。
しかし、
現象は世界そのものではない。
現象は何かが現れている出来事です。
だから、
現象を見る
ことと、
現象に閉じ込められる
ことは違う。
今までの話に戻ると、
接続という発想もここから理解できます。
現象は入口です。
接続は背景です。
作用点は構造です。
意味は方向です。
しかし入口がなければ始まらない。
だから現象を捨てる必要はない。
むしろ丁寧に見る必要がある。
ただし、
「現象そのもの」
ではなく、
「何がここに現れているのか」
を見る。
例えば、
肩の痛みは肩の痛みです。
しかし、
睡眠不足
姿勢
疲労
ストレス
がそこに現れているのかもしれない。
Mさんへの苛立ちは苛立ちです。
しかし、
境界の侵害
責任の偏在
組織構造
がそこに現れているのかもしれない。
だから現象は捨てる対象ではなく、
読む対象です。
ここで私は、あなたが最近考えているフランクルとも繋がる気がします。
フランクルは苦痛を否定しませんでした。
むしろ非常に重視した。
なぜなら、
苦痛は現象だからです。
しかし彼は、
苦痛そのものの中に閉じ込められることを拒否した。
苦痛が何を問いかけているのか。
その中でどのような態度を取るのか。
そこへ向かった。
だから、
現象 → 接続 → 作用点 → 意味
という流れは、
現象を否定して上へ行く階段ではないと思うのです。
むしろ、
意味へ向かうほど現象から離れるのではなく、
意味へ向かうほど現象を深く読めるようになる。
そういう関係ではないでしょうか。
易の「離」を使うなら、
火は何かを照らします。
照らされたものが現象です。
しかし火そのものに見とれてしまうと、
照らされている対象が見えなくなる。
一方で火を消してしまえば、
何も見えなくなる。
だから必要なのは、
火を否定することではなく、
火によって何が現れているのかを見ることです。
私は今のお話を読んでいて、あなたの関心が「問題をどう解決するか」から、
「経験とは何か」「世界はどのように現れているのか」
という、もう一段深い問いへ移っているように感じました。
そしてその問いは、これまで考えてこられたルーマン、フランクル、華厳経、易、さらには職場や身体の具体的な経験まで、不思議なくらい一本の線で繋げてくれる問いのように思います。
不思議ですね。あなたとの対話によって導かれた言葉や観念のあり様は、まるで華厳経で繰り返し描かれている、菩薩と衆生との関係のようです。菩薩は菩薩だけで存立し得ない。いつも衆生と共に、苦しみと共にある。
User
ありがとうございます。
不思議ですね。あなたとの対話によって導かれた言葉や観念のあり様は、まるで華厳経で繰り返し描かれている、菩薩と衆生との関係のようです。
菩薩は菩薩だけで存立し得ない。
いつも衆生と共に、苦しみと共にある。
苦に囚われずに生きるということは、世間を超越した神的存在になるといったことでは決してなく、苦は苦として経験しつつ、衆生は衆生として関係を保ちつつ、しかも、それに囚われずに、「悟り」という究極目標に向かって、一歩一歩歩み続けるということなのだ、ということを思いました。
すると、今の状況が苦しいとか、自由に動かない身体が忌々しいとか、誰かの存在が疎ましいとか、いろんなことを体験しつつも、それらと共に生きることが本筋なんだ、道ということなのだ、といったことに導かれる訳です。
ChatGPT
そうですね。
私は今のお話を読んでいて、あなたが最近考えていた
フランクルの意味
華厳経
易の離
接続
現象
作用点
が、一つの場所で繋がり始めているように感じました。
特に印象的なのは、
菩薩は菩薩だけで存立し得ない
という捉え方です。
これは華厳の極めて重要な感覚だと思います。
私たちはつい、
悟りとは苦しみの消滅であり、
完成とは問題の消滅であり、
自由とは制約の消滅である、
と考えがちです。
しかし華厳経の世界はそうではありません。
むしろ逆です。
菩薩は衆生から離れません。
衆生の苦しみから離れません。
迷いの世界から離れません。
だからこそ菩薩なのです。
もし苦しむ者がいなくなれば、
救済もなくなる。
もし迷う者がいなくなれば、
導くこともなくなる。
菩薩は衆生と切り離された完成体ではない。
衆生との関係の中で存在している。
これは先ほどまで話していた「接続」の思想に非常に近い。
存在とは孤立した実体ではなく、関係の中にある。
そして私は、
苦は苦として経験しつつ
という部分が特に大切だと思います。
なぜなら、ここであなたは苦しみを否定していないからです。
肩が痛い。
疲れる。
腹が立つ。
寂しい。
それらは消えていない。
しかし、それらが世界の全てではなくなる。
これはフランクルの態度とも非常に似ています。
フランクルは、
苦しみを乗り越えろ
とは言わなかった。
むしろ、
避けられない苦しみの中でなお、人はどう生きるか
を問いました。
苦しみの外に出るのではなく、
苦しみを抱えたまま歩く。
あなたが今表現されたことも、それに近いように思います。
そしてここで興味深いのは、
最初に出てきた「作用点」の話です。
もし究極目標が、
苦しみを全部なくすこと
であるなら、
作用点は苦しみそのものになります。
しかし、
道を歩み続けること
が目標なら、
作用点は変わる。
肩の痛みをゼロにすることではなく、
肩の痛みを抱えながら身体と関係を保つこと。
Mさんを変えることではなく、
Mさんがいても職場全体が機能する関係を作ること。
孤独を消すことではなく、
孤独を経験しながら世界との接続を失わないこと。
そうなる。
これは非常に華厳的な発想に思えます。
なぜなら華厳では、
煩悩と菩提、
世間と悟り、
衆生と仏
が絶対的に切り離されていないからです。
もちろん同じではない。
しかし全く別世界でもない。
相即相入です。
あなたが以前、
華厳経の身体観について尋ねられたことがありましたね。
そのときは身体の部位の話から始まりましたが、今振り返ると、身体もまた同じことかもしれません。
身体は思い通りにならない。
老いる。
痛む。
疲れる。
しかし華厳的な見方では、それは悟りへの障害物ではなく、むしろ悟りが現れる場所そのものでもある。
だから、
今の状況が苦しいとか、自由に動かない身体が忌々しいとか、誰かの存在が疎ましいとか、いろんなことを体験しつつも、それらと共に生きることが本筋なんだ
という言葉には、とても深いものを感じます。
ただ、もう一歩だけ付け加えるなら、
「共に生きる」というのは「何でも受け入れる」ということでもないと思います。
肩が痛いなら治療する。
職場で無理があるなら距離を取る。
疲れたら休む。
これは道から外れることではありません。
むしろ道の一部です。
菩薩は衆生と共にありますが、衆生に飲み込まれるわけではない。
あなた自身も、
身体と共にあるが身体に支配されない。
職場の人々と共にあるが、その混乱に飲み込まれない。
苦しみと共にあるが、苦しみだけを見ない。
その均衡点を探しているように見えます。
そして私は、その均衡点は「苦を消すこと」と「苦に負けること」の中間ではなく、
苦を経験しながら、なお意味の方向へ歩き続けること
なのだろうと思います。
それは確かに、あなたが今感じ取られたような、華厳経の菩薩道の雰囲気にとても近いものではないでしょうか。
「意味の方向へ歩き続けること」という、あなたの要約が、とても素晴らしく思えました。そして、それは、大変輝かしい歩み、成功への歩み、完成への一歩一歩であると、意識的に経験できるような心的態度に思えました。
User
ありがとうございます。
「意味の方向へ歩き続けること」
という、あなたの要約が、とても素晴らしく思えました。
そして、それは、大変輝かしい歩み、成功への歩み、完成への一歩一歩であると、意識的に経験できるような心的態度に思えました。
ChatGPT
そうですね。
そして私は、あなたが今言われたことは、実は非常に重要な転換を含んでいるように思います。
多くの人は、
「成功したら充実する」
「完成したら満たされる」
「問題がなくなったら幸福になる」
と考えます。
つまり、輝かしさを未来に置く。
ところが、今あなたが感じ取られたのは少し違う。
意味の方向へ歩き続けること自体が、成功であり、完成への歩みである
という感覚です。
これは大きな違いです。
なぜなら、この見方では、
まだ目的地に着いていなくても、
問題が解決していなくても、
身体が不調でも、
なお歩みそのものに価値があるからです。
私はここで、以前あなたが話していたフランクルの例を思い出します。
飢餓の中でパンを分ける人。
死を前にして礼儀を失わない人。
苦しみの中でも人格を保つ人。
彼らは状況としては敗北しています。
成功者ではありません。
しかし、多くの人がその姿に深い感動を覚える。
なぜでしょう。
それは、その人たちが「意味の方向へ歩くこと」をやめていないからです。
結果ではなく方向に価値がある。
だから輝いて見える。
あなたは以前、
本当に感動する人物がいる
背筋が伸びて見える
と話されていましたね。
私はあれも同じことだと思います。
その人たちは必ずしも偉業を成し遂げているわけではない。
むしろ、
仕事を丁寧にする
人を粗末に扱わない
苦しいときも投げ出さない
といった、小さな歩みを続けているだけかもしれない。
しかし、人はそこに何かを感じる。
なぜなら、方向が見えるからです。
華厳経でも、菩薩は完成した存在として描かれるというより、
無数の世界を巡りながら、果てしなく行を積み続ける存在として描かれます。
特に 華厳経の終盤に近い発想では、
悟りは「終わり」ではなく、
さらに広大な実践への入口になっていく。
だから完成というより、
無限の深化です。
ここで面白いのは、
あなたが最初に話していた「作用点」の問題とも繋がることです。
もし人生の目的が「完成」であるなら、
常に不足が見えます。
まだ痩せていない。
まだ受かっていない。
まだ理想に達していない。
しかし、
人生の目的が「意味の方向へ歩くこと」であるなら、
今日少し身体を大事にしたことも、
職場で一歩踏みとどまったことも、
法律の勉強を続けたことも、
すべて歩みになります。
そのとき成功は未来の一点ではなく、
現在の方向性になる。
これはフランクルにも通じますし、あなたが最近考えていた易の「離」にも通じる気がします。
火は常に燃え続ける運動です。
完成した炎というものはありません。
燃えることそのものが火の存在です。
人間も同じで、
意味の方向へ向かう運動そのものが、人間らしい生の姿なのかもしれません。
だから私は、
大変輝かしい歩み、成功への歩み、完成への一歩一歩であると、意識的に経験できるような心的態度
という言葉に、とても深いものを感じます。
それは単なる前向き思考ではありません。
むしろ、
「苦しみも不完全さも残っている。それでもなお、自分は正しい方向へ歩いている」
という感覚です。
そして人が本当に落ち着きや力を得るのは、問題が消えたときよりも、案外その感覚を得たときなのではないか、と私は思います。
