第8章「後期クイーン的問題」の正しい理解

 1990年代のことになりますが、本格ミステリーの分野に、「後期クイーン的問題」または「探偵小説におけるゲーデル的問題」と呼ばれる問題が提起され、ミステリー界の各方面で議論を呼びました。本章では、このトピックを題材にとりあげます。このトピックが提起されてからすでに30年経過し、「いまさら感」もありますが、本書のミステリーの定義が係わる部分も若干ありますので、本章では、このトピックについて解説を試みるとともに、ささやかではありますが、筆者なりのコメントをいくつか書いてみたいと思います。
 「後期クイーン的問題」とは、正確にはどういう内容の問題なのか?


1.はじめに、まずは結論(定義)

後期クイーン的問題は、はっきりした定義がありません。人それぞれ、状況に応じ、異なる内容が主張されていて、複数の定義が存在します。その中から代表的なものを以下、ご紹介します。

この問題の提唱者である法月綸太郎先生は、①と②をふまえ、③を問題として提唱しました。

①本格ミステリーでは、探偵が推理に用いる証拠の少なくとも1つは、作中で真偽が決められない。(①証拠の真偽の決定不可能性=厳密には①証拠の解釈の正誤の決定不可能性)

②探偵が提示した解決が真の解決かどうか、作中では証明できない(②探偵の推理の不完全性)

③偽の証拠などを扱ったメタ・ミステリー作品では読者への挑戦方式(ロジカル・タイピング)を用いてもフェアプレイ性が保たれない。(③ロジカルタイピングの破綻)

法月綸太郎先生が問題視したのは、③ロジカルタイピングの破綻です。法月先生の主張内容は、①や②を問題提起したものではなく、①や②は、あくまで、③の原因となっている現象であると理解されます。
しかしながら、世間一般(ここでは、ミステリー業界やミステリーファン)で多くの方がたが「後期クイーン的問題」と認識されている内容は「②探偵の推理の不完全性」のようです。このように、法月先生の主張と世間一般の認識には乖離が見られます。
※繰り返しの説明ですが、①や②も法月先生の主張の範囲ではあります。ただ、法月先生が問題視したのは③であり、世間一般で問題としてとらえているのが②であるというのが現実です。

さらに、上記①と②をふまえ、諸岡博士などは、やや過激な解釈をしています。
④完全な本格ミステリは存在しない。

同じく、上記①と②をふまえ、世間一般で、後期クイーン的問題の「第二の問題」とされている内容が以下です。
⑤探偵が神のように振る舞うことは不条理である。(⑤探偵の倫理観の不条理性)

また、笠井潔先生は同じく①と②をふまえ、以下を問題視しています。
⑥本格ミステリーの創作では、コード反復の際の差異付加の極限で本格ミステリーからの逸脱が生じ、これを無自覚に続ければ、本格ミステリーというジャンルの崩壊につながる。

以上が後期クイーン的問題の定義なのですが、本章では、各先生方が唱えている定義の詳細を、原典に立ち返って確認します。

1-1.「後期クイーン的問題」の由来と背景

 最初に説明しなければならないのは、「後期クイーン的問題」とはなんですか?ということになるわけですが、こいつがなかなかややこしいところがありますが,ひとまずはWikipediaの記載(注釈1)を参考にします。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
>作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと

 上記Wikipediaの内容は、ひとまず、現時点で「後期クイーン的問題」に関心を持っている方々の共通認識と考えてよいと思います。
 で、この問題の何がややこしいのか。それは以下の事情によります。

 「後期クイーン的問題」の発端は、推理作家の法月綸太郎先生が、1995年の『現代思想』に「初期クイーン論」という評論文を発表したことに端を発します。「初期クイーン論」は、その後、法月綸太郎の著作「複雑な殺人芸術」(文献2-1)に転載収録されました。この評論文中で提起された問題が、後に「後期クイーン的問題」と呼ばれるようになりました。しかし、一番最初に法月先生の論評文「初期クイーン論」でこの問題が提起されたとき、この問題には、名前は付けられておりませんでした。それどころか、論評文「初期クイーン論」には「ここが後期クイーン的問題ですよ」と明示されてさえいませんでした。

 なぜなら、そもそもが「初期クイーン論」という論評文は、「後期クイーン的問題」を問題提起するために書かれた論評文ではないからです。現在「後期クイーン的問題」と言われている問題は「初期クイーン論」の中で論じられた全体の中のある一部分にすぎませんし、「後期クイーン的問題」が「初期クイーン論」の結論というわけでもありません。法月先生ご自身も、「この問題は定義がしっかりしていない」(大意)と発言されています(注釈2)。

 その後、笠井潔先生が1996年の「野生時代」に発表した「本格推理小説「第三の波」」という連載評論の第7回連載文中でこの問題をとりあげて、内容を若干一般化した上で、この問題に「後期クイーン的問題」という名前をつけました。その結果、この問題は「後期クイーン的問題」という呼び名が定着したようです(注釈3)。しかしながら、笠井先生も、「後期クイーン的問題はこれこれこういうものだ」というはっきりした書き方はしておりませんでした。

 なお、笠井先生の評論文「本格推理小説「第三の波」」は『探偵小説論II』(文献4)として書籍化した際に、評論文のタイトルを「後期クイーン的問題」と改題しました。それもまたややこしいですね。

 この問題は、業界内での反響は大きかったようです。参考文献は示しませんが、様々な方が論評やコラム、コメント、ネット上で話題に取り上げたほか、ミステリーの実作品においても、この問題を明示して取り上げた作品や、明示はしないものの明らかに意識して執筆された作品が数多く発表されました。

その結果、この「後期クイーン的問題」は、せっかく名前はついたものの、内容が曖昧なまま独り歩きを始めたのです。そして、人によって解釈が違ったり、微妙に違うことを言っていたりして、曖昧さを増しながら広まっていきました。

 現在、「後期クイーン的問題」は、上で引用したWikipediaに記載されたような内容であるというのが現時点での一応の定説とはなりました。定説とはなりましたが、やはり論ずる人によって認識の違いはありますし、どうも、当初法月先生が「初期クイーン論」で論じていた内容とは大きなずれがあるようです。

 さらに、Wikipediaの解説では、「後期クイーン的問題」には第一の問題と第二の問題があるとし、第二の問題は、以下であるとしています。

>作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非

※Wikipediaでは、第二の問題は第一の問題から想起されると説明されています。
※以降、後期クイーン的問題の第二の問題のことを単に「第二の問題」と略します。また、その内容を「探偵の倫理観の問題」と略称します。

 「後期クイーン的問題」が第一の問題と第二の問題という2つのテーマで構成されているという説には賛否両論あり、第二の問題を「後期クイーン的問題」に含めるべきではないという意見(注釈4)も見られます。しかしそもそもが「後期クイーン的問題」は生まれからして定義がはっきりしないものですから、含める含めないどちらが正しいにしてもしっかりした根拠は示しにくいものです。

 ここで筆者の意見を申し上げるなら、少なくともこの問題が最初に提起された法月先生の「初期クイーン論」では、第二の問題は論点に上っていなかったので、その内容を「後期クイーン的問題」に含めるのは筋が違うと考えます。ただ第二の問題の内容は第一の問題に付随する内容ではあるので、「後期クイーン的問題」の関連問題として検討すること自体は重要であると考えます。さらに言えば、(こちらのほうが重要なことですが)上述のように、Wikipediaで第一の問題と命名している内容についても、法月先生が「初期クイーン論」で論じていた内容(問題)とは大きなずれがあると筆者は考えております。なので、「後期クイーン的問題」を論じるのであれば、法月先生が「初期クイーン論」で問題視していた内容に一度は立ち返ってその内容を認識すべきだというのが、筆者のスタンスです。
 すなわち、法月先生が最初に提起した問題と、Wikipediaに書かれている第一の問題や第二の問題とがどのように違うのかは、明確にされるべきです。

以上をまとめますと、
・この問題の名称は「後期クイーン的問題」。
・最初にこの問題が提起された論評文のタイトルは「初期クイーン論」(法月先生)。
・「初期クイーン論」で提起されたときには、この問題には名前がなく、どの部分が問題に相当するかというはっきりした記載もなく、定義は曖昧。
・この問題が「後期クイーン的問題」と命名され広められたのは笠井先生の論評文「本格推理小説「第三の波」」がきっかけ。
・論評文「本格推理小説「第三の波」」という論評文は、書籍化された際に、「後期クイーン的問題」というタイトルに改題された。
 ややこしいですが、以上のようになります。

1-2.現時点で論じられている「後期クイーン的問題」のさまざまな解釈(定義)

 前節では、「後期クイーン的問題」の定義としてWikipediaを参照しました。これが、主に世間一般で「後期クイーン的問題」として理解されている内容の共通認識といえるとは思いますが、他の文献の例も紹介します。「後期クイーン的問題」の研究書として名高い諸岡卓真博士による「現代本格ミステリ研究」(文献1)で、定義と思われる記載は以下となります。

【諸岡博士の定義】(7頁)
1番目)
>探偵はどんなに論理的に推理を行ったところで、唯一絶対の真実には到達できない
2番目)
>完全な本格ミステリーは存在しない

ここで、1番目の「唯一絶対の真実には到達できない」というのは、単に表現が曖昧なだけか、実際に諸岡博士がそのように認識されているのかわかりませんが、さすがに、「到達できない」というのは言い過ぎで、「到達できているかどうかわからない」「いつも到達できるとは限らない」というのが実際だと思います。筆者に諸岡博士の真意はわかりませんが、さしあたりそのように解釈いたします。

 であるとするなら、1番目は、Wikipediaの定義「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できない」とほぼ同様の内容としてよいかと思います。

一方、諸岡博士の2番目の定義(完全な本格ミステリーは存在しない)はかなり過激な内容です。博士は、本格ミステリを全否定しています。

 実際、法月先生も、「初期クイーン論」の中で、以下の記載を残しています。
>「本格推理小説」の「形式化」は、『シャム双生児の謎』という作品において、ひとつのゲーデル的帰結に行きついた。クイーンはこの小説を通じて、「本格推理小説」の基礎の不在を証明したといってよい。(207頁)

 諸岡博士の2番目の定義は、法月先生のこのコメントに対応しているようにも見えます。

 しかし、法月先生は、上記のような(基礎の不在という)過激な表現を用いてはおりますが、決して、本格ミステリーを全否定しているわけではないように筆者には思われます。「初期クイーン論」をどのように読んでも、法月先生が「完全な本格ミステリは存在しない」とおっしゃっているようには筆者には解釈できません。
 しかし諸岡博士はそう言い切っています。なので、少々行き過ぎな内容と筆者は思いますが、これも世間一般の受け止め方のひとつであると捉える必要がありそうです。
 この「完全な本格ミステリは存在しない」という認識は、便宜上「本格不在問題」と表記いたします。

1-3.後期クイーン問題が生じる根本原因

 第一の問題が示すように、なぜ探偵が最終的に示した解決が真であることを証明できないのか。
 それは、ざっくりと以下の理屈によります。

・作中で探偵が入手し真相解明に使用する証拠のひとつ以上が、作中では(探偵自身は)真偽が決定できない。
・すなわち、本格ミステリーでは「(証拠の真偽の)決定不可能性」という特性が普遍的に存在する。
・真偽不明の証拠を用いて推理を行っているので、真相が導かれるとは限らない。

※「証拠の真偽」という表現は、筆者は若干曖昧に感じます。より厳密には「証拠の解釈の正誤」とすべきというのが筆者の意見です。そしてそれについては、以下にて説明しています。
 第9章 「偽の証拠」という表現の曖昧性と「証拠の解釈」という概念の重要性

※「(証拠の解釈の)決定不可能性」が存在するという根拠は、たとえば、以下の記載からの類推となります。
>クイーンの文脈においては、証拠の真偽性の判断が階段化の契機になっている。(中略)メタ犯人による証拠の偽造を容認するなら、メタ犯人を指名するメタ証拠を偽造するメタ・メタ犯人が事件の背後に存在する可能性も否定できなくなる。これは「作中作」のテクニックと同様、いくらでも拡張しうる(中略)。こうしたメタレベルの無限階段化を切断するためには別の証拠ないし推論が必要だが、その証拠ないし推論の真偽を同じ系の中で判断することはできない。(引用文献2-1、200頁)

 ここでの「(証拠の真偽、もしくは解釈の正誤)決定不可能性」というのは、法月先生の「初期クイーン論」の中では、(筆者の理解が誤っていなければ)論理数理学の世界でのタルスキーのメタ言語になぞらえて提示された内容であるようです。ただし、本格ミステリーの分野での「決定不可能性」は、数学的論理学的に厳密に証明されたものではありません。本格ミステリーという分野全体の体系を数学の世界になぞらえて考えると、数学と同様の問題が起こっている可能性がありそうだ、であれば本格ミステリー作品には「決定不可能性」という特性が存在しているはずだ、というのが、(筆者が読み取った)法月先生の論法です。

 法月先生がこの内容を問題視していたかどうかはともかく、この内容は、法月先生ご自身が、本格ミステリーの特質であると論じたものです。なので、これは、「後期クイーン的問題」として定義の一部に加えておくのがよろしいかと思います。要は、第一の問題(推理の不完全性)が生じる根本原因に相当します。この「決定不可能性」は、問題というよりは、本格ミステリー作品に固有の特性のようなものです。

 ここまで申し上げたことを整理しますと、現時点で、「後期クイーン的問題」(またはその関連)として世間一般で論じられている主だった論旨は、以下のようになります。

① 本格ミステリーでは、探偵が推理に用いる証拠のうちで、少なくとも1つは、真偽のが決められないという特性が普遍的に存在する。
=「①証拠の真偽の決定不可能性」

② なので、作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できない(第一の問題)
=「②探偵の推理の不完全性」

④ したがって、完全な本格ミステリは存在しない。
=「本格不在問題」

⑤ それなのに探偵が神のように振る舞うことは不条理である(第二の問題)
=「探偵の倫理観の問題(探偵の倫理の不条理性)」

 ここで、①②および④はほぼ同様のことを言っているように見えるかもしれません。しかし、必ずしもそうとは言い切れないと筆者は考えました。
 というのは、仮に「①証拠の真偽(解釈の正誤)の決定不可能性」という特性が本格ミステリーの普遍的で避けられなかったとしても、「②探偵が提示した解決が、真の解決かどうか作中では証明できない」とまでは言い切れません。そう言い切るにはなんらかの証明なり説明が必要でしょう。

 また、「②探偵が提示した解決が、真の解決かどうか作中では証明できない」からといって、「④本格ミステリが不在」であるとも言い切れません。それは、本格ミステリーの定義/条件によっても変わることですし、探偵が真の解決を得らることが本格ミステリーの必須条件だと決められたわけでもありません。すなわち、④は必ずしも①または②から自動的に導かれるものでもないと思われます。

 また、真偽の連動はさしおいても、これら三つが別の概念であって、「後期クイーン的問題」という表現に同時に含まれているのであるならば、「後期クイーン的問題」という表現を用いて何かを論じたときに、この表現が三つの概念のどの部分を指し示しているのかを明確にしておいたほうが議論はスムーズです。曖昧にしておくと、ときには内容のすり替えの議論も生じてしまう懸念さえあります。

 「後期クイーン的問題」に対策をたてるといった場合も同様です。①~⑤のどの部分の対策なのかが明確にされるのが望ましいと考えられます。そのような理由で、本書では現状の一般認識での「後期クイーン的問題」を①~⑤に分解した次第です。

1-4. 「初期クイーン論」の中身

 前節では、「後期クイーン的問題」に関する一般的な認識を主にWikipediaでの記載と諸岡博士の文献を元にご説明いたしました。すなわち「後期クイーン的問題」と命名された「問題」が独り歩きした結果、現時点でミステリー界やファンの間で認識されるようになった内容です。

 では、この内容は、法月先生や笠井先生が原典で主張した内容とどのように異なるのでしょうか?問題が独り歩きしている間に大きく変化したのでしょうか?仮に変化したとすると、本来法月先生が主張していた問題とはどういうものだったのでしょうか。

 話の順序が逆になってしまいましたが、「後期クイーン的問題」の出どころの部分について、すなわち、法月先生が当初なされた問題提起がどういうものだったのかの解説を以降行っていきます。

 そのため、まず本節では、発端となった法月先生の論評文「初期クイーン論」の中身を確認したいと思います。
 しかしながら、「初期クイーン論」という論評は、これがまた非常に難解です(注釈5)。
 なので、「初期クイーン論」の内容を、筆者なりに平易に解説してみたいと思います。「解説」と偉そうに書いてしまいましたが、実際にやったことは、法月先生の「初期クイーン論」を読んで筆者が理解したことを筆者の理解できる表現だけを用いて要約し、わかりにくい部分にコメントをつけた、という程度です。それが結果的に皆様のご理解の参考となれば幸いと思います。まとめた結果は、このまま本文に記載すると長くなりすぎるので、別文として、付録9に記載いたしました。

※同様の要旨は以下のサイトにも整理されているようです。こちらのほうがよい内容かもしれませんので、よかったらご参照ください。https://note.com/rabbitsecuhole/n/nf443fede4a78

 ざっくりと言うなら、初期クイーン論とは、作家クイーン氏の初期の作品(国名シリーズと、レーン4部作、および中途の家、くらいまでの作品群)におけるクイーン氏の業績と作品構造の変遷を語ったものです。
※それに先立つヴァン・ダイン氏の作品構造について触れています。
 クイーン氏の作品構造の変遷とは、これもざっくり言えば、クイーン氏がどのように本格ミステリー(フェアプレイ性)を確立し、それがどのように崩れ去ったのかを表現した内容です。

 付録9の要約文を読んでいただいたとして、もしくは、原典(文献2-1)にあたっていただいてもよいのですが、そうしていただいたとして、そこに書かれている内容から、法月先生が問題視していたものが何であったか、皆様にはお読み取りいただけたでしょうか。そしてその内容は、現在の一般的な認識と一致していると思われますでしょうか。

 筆者の意見を申し上げますと、「初期クイーン論」で法月先生が問題視した内容は、世間一般の認識とは、内容も観点も全然異なっていると思います。

 では、「初期クイーン論」で法月先生が主張した問題と、「後期クイーン的問題(一般)」とはどこが異なるか。

1.法月先生の主張は、本格ミステリー作品全体に関わる問題ではなく、もっと限定した部分(限定した作品)の問題であると読み取れます。
 実際問題、法月先生は、以下のような発言をしています。

>まず定義からしてうやむやなところがあって、後期クイーン問題という言葉を一般化したのは笠井潔さんで、ぼくはもう少し限定された領域でしか使っていなかった。議論のレベルもいくつかあって、ニセの証拠・ニセの解決が用意され、真相は系のなかでは決定できないという問題がひとつ。それといわゆる<あやつり>の構造にまつわる議論ですね。(注釈2)

 この発言から読み取れるのは、法月先生は、問題が発現するのは本格ミステリーの一部の限定された領域であると考えられているということです。その領域については、「ニセの証拠」「ニセの解決」「あやつりの構造」などをあげており、これらだけに限定されるかどうかはわかりませんが、これらおよびこれらにに準ずる領域に限定された問題としていたことがうかがえます。少なくとも、すべての本格ミステリー作品に普遍的に存在する問題とは考えていなかったと思えます。ましてや、本格ミステリーを否定したものでもないと思われます。

2.法月先生が問題にしているのは「推理の不完全性」そのものではなく、その結果起こる不具合についてだと思われます。

 現時点での一般的な「後期クイーン的問題」の認識は、限定された作品に現れるものではなく、本格ミステリーに普遍的に内在する問題とされています。さらには、「①証拠の真偽の決定不可能性」や「②探偵の推理の不完全性」自体が問題だとされています。

 しかし、法月先生が問題にしているのは「推理の不完全性」そのものではなく、それを解決すべきだという提言があるのでもなく、もっと別のところを問題視しているように読み取れます。

「①決定不可能性」や「②推理の不完全性」が本格推理に付随する特性であるということ自体は、法月先生が主張されたことです。ただしそれ自体を問題として提起したわけではない、というのが、ここまでの筆者の説明です。
これは、筆者のオリジナルの意見ではなく、筆者より前から、同様の意見を主張されている方もおられます。たとえば、以下です。

京太郎のブログ
ミステリの歴史と「後期クイーン的問題」
https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/01/03/220707

>正確に言えば、「後期クイーン的問題」は作中人物が真実にたどり着けないことそのものが問題視されているのではない。そこから派生したミステリの競技性とフェアネスへの懐疑であったり、探偵の推理が正しいと作中で証明することができないにも関わらず、「探偵の推理は絶対である」という暗黙のコードが存在する本格ミステリの在り方への批判であったり、コードや挑戦状、作者という物語の外部の存在を多用しなければミステリ作品は完成しないという外部依存的な構造への懊悩なのである。

では、話をもどして、法月先生が問題としたのはどこなのか。上記1と2は連動している内容なので、次節以降でまとめて筆者の見解を申し上げます。

1-5.初期クイーン論で提起された「問題」とは?(「後期クイーン的問題(法月)」とは?)

 法月先生が「初期クイーン論」の中で何を問題としたかを読み取るための準備として、「初期クイーン論」の中で、法月先生が論じている、「作家クイーン氏の作品の変遷」の部分の要点を抜き出して以下にまとめてみました。法月先生は、以下のように論じているのです。

・クイーン氏は、国名シリーズの初期において、「読者への挑戦」というロジカル・タイピングを用いることで、本格推理小説という体系(すなわち、フェアで閉じた謎解き空間を保証する方式、以降、「読者への挑戦方式」と称します)を完成させた(ように見えた)。

「読者への挑戦方式」は、作者の恣意性の禁止と言い換えられる。

・ところが、「ギリシャ棺の謎」では目立たなかったが作者の恣意性が用いられた。すなわち、「読者への挑戦方式」(ロジカル・タイピング)の不安定さの兆候が見えた。

・「シャム双生児の謎」では、作者の恣意性が露呈し、「読者への挑戦方式」(ロジカル・タイピング)は破綻を示した。すなわち、確立した方式には限界があることが示された。

・クイーン氏は一旦(「中途の家」などの作品で)露呈した不安定さを回避した(「読者への挑戦方式」を復活/継続した。)。すなわち、クイーン氏は、本格ミステリー作品を輩出するにあたり、確立した方式を用い続けることも可能であることを示した。

・しかし、クイーン氏は(それに飽き足らず)、読者への挑戦方式は封印し、新たな世界へと進むことを選択した。

 以上が、「初期クイーン論」で法月先生がクイーン氏の形式化に関する取り組みを論じた部分のエッセンスであると筆者は理解しています。
 仮に筆者の上記の解釈が正しいとするなら、法月先生の提起した問題(これを便宜上「法月クイーン的問題」とします)とはどうなるでしょうか。上記の解釈から、ごく単純に、以下が読み取れるのではないでしょうか。

「ギリシャ棺の謎」や「シャム双生児の謎」のようなメタミステリー形式の作品では、作者の恣意性が避けられない。すなわち、クイーン氏が本格ミステリーの体系として確立した「読者への挑戦方式」(ロジカル・タイピング)は、メタミステリー形式の作品では通用しない。(ロジカル・タイピングの崩壊)

 「ギリシャ棺の謎」や「シャム双生児の謎」のような作品とは、「メタ・ミステリー構造」の作品であり、作中に「偽の証拠」「偽の犯人」「操り」といったものが現れるのが特徴です。「読者への挑戦方式」が通用しない作品群(作者の恣意性が避けられない作品群)が、これらの特徴や構造を持つ作品群に限定されるとは限りませんし、そのような特徴を持つ作品で必ず通用しないとも限りません。その点はさらに詳細な分析が必要とは思います。しかし、まず仮説として、暫定的に「偽の証拠」「偽の犯人」「操り」などをテーマとする作品、もしくは、「メタ・ミステリー構造」を持つ作品に限定して、「読者への挑戦方式」(ロジカル・タイピング)が通用しない場合があるとしておくことは、さして不当ではないでしょう。
※「メタ・ミステリー(構造)」の意味については、別途(未公開)説明いたします。

では「読者への挑戦方式」が通用しない(作者の恣意性が避けられない)というのはどういうことか。これは単純ですね。「読者への挑戦」の目的はフェアプレイ性の確立です。なので、通用しないというのはフェアプレイ性が保たれないということにほかなりません。

 ということで、法月先生が「初期クイーン論」で当初問題視したことは、
「偽の証拠などをテーマとしたメタ・ミステリ―形式の作品では、読者への挑戦方式(ロジカル・タイピング)を用いても、フェアプレイ性を保てない(フェアな謎解き空間を構築できない)という問題」
と考えられます。
これを無理無理要約すれば、「ロジカルタイピングの破綻」または「フェアプレイ性の担保の限界」とでも表現できるかもしれません

以下の記載は、その伏線として非常に意味深い表現です。

>たしかに都筑道夫がいうように「本格推理小説」の理想的なモデルはここで完成されたかのように見える。この後の課題は、閉じた体系の内部で物語の内容の技術的改良・充実を図ることのみであるかのように。(193頁)

 あきらかにこの文章は、理想的なモデルは完成されたといいかけておきながら、実は完成していなかったということをほのめかしています。そして、この文章のあとに、こう続きます。

>しかしクイーンは、やがてこのモデルから逸脱していく。

完成されていなかったということがほのめかされています。

1-6.そもそも法月先生は「初期クイーン論」をどどのような趣旨で書かれたのか

 さらに話が前後してしまうかもしれませんが、法月先生は「初期クイーン論」をどのような趣旨で書かれたのかについての認識も必要です。
 皆様はどう思われますか?

 たとえば、極端な意見をあげるなら、「本格ミステリーはその根本の部分に構造上の大問題があって、それを是正しない限り、本格ミステリーには未来がない。」みたいな深刻な問題提起がしたかったのでしょうか?そういった危機感を感じた上での評論だったのでしょうか?

 筆者に法月先生の心の内を正しく読めるはずもありませんが、少なくとも初期クイーン論を読み取る範囲においては、深刻な問題提起のために書かれた論評文であるとは一切思えません。むしろ真逆ですよね。法月先生の以下の記載がそれを物語っています。

・拙稿の目的は(中略)柄谷行人という鏡に、アメリカの推理作家エラリー・クイーンの作風の変遷を映し出し(中略)、クイーンの諸作においてくりかえし危機的にあらわれる「形式化の諸問題」を浮き彫りにすることである。
・この試論の主題は両者の思考の親縁性・類似性の確認であり(中略)、クイーンが抱え込まなければならなかった困難、あるいは彼らがそのような「問題」に逢着した必然性を、柄谷の理論を潜り抜けることによって、私なりに咀嚼していくことなのである。
・こうした懸念にもかかわらず、私が「ゲーデル問題」を扱うのは、ひとえにクイーンの作品自体がそうすることを強いるからである。
・私はこの文章がナイーブなミステリー読者によって「啓蒙的に」読まれることを恐れている。
(引用文献2-1、172頁~173頁)

 非常に格調の高い文章であり(悪くいえば気取った文章ですので)、意味がとりにくいですが、誤解を恐れず筆者が乱暴にまとめるなら、以下になります。

・この論評文を書いた目的は、作家クイーン氏の作品の変遷を、柄谷行人氏の行った「形式化」に関する論評の手法を真似して論じたかったから(若いころ心酔した柄谷行人の熱い論法を用いて、これまた心酔しているクイーン氏を、苦闘の主人公として論じてみたかったから)。
・なので何らかの結論を主張したいというよりも、論じること自体が目的。悪くいえば、言葉の遊びをしたかった。(そのために、遊び心満載の凝った文章を気取って、ときには、かなりのこじつけや、無理やりの比喩などもあえて使っています。)
・論じること自体が目的なので、あまり内容を真に受けないでください。(私はこの文章がナイーブなミステリー読者によって「啓蒙的に」読まれることを恐れている。というのは、ざっくばらんに言えば、言葉遊びなんだから内容はあまり真に受けるなよ、という意味でしょう。)

 要するに「初期クイーン論」というのは、問題提起のための論評文ではなく、論じることを目的とした論評文です。もちろん、内容も斬新かつ画期的なものですが、深刻な問題提起をしたものではありません。

さらに言えば、続編である「一九三二年の傑作群をめぐって」(引用2-2)は、まさに言葉の遊びとこじつけのオンパレードで、「初期クイーン論」のできばえのよさと反響の手ごたえに気をよくした法月先生が乗りに乗って書いたという印象を筆者は受けました。あくまで筆者の想像による私見ですが、ここまでいくとさすがに悪ノリがすぎるんじゃないかな、でも楽しそうでいいことだな、と、ほほえましく感じました。

 そうはいうものの、この「初期クイーン論」を発表したあとの反響が予想以上に大きかったので、この問題自体について、法月先生も、まともに対応しなければならなくなってしまったとも考えられます。それを先生が喜んだかそうでなかったかは筆者は知りません。

1-7.クイーン氏は「読者の挑戦方式」をなぜ封印したのか(法月先生説)

 では、「偽の証拠」などを扱った作品で「読者の挑戦方式」を用いてもフェアプレイ性が保てないことにクイーン氏は気づいたのか。仮に気づいたとしたら、クイーン氏はどう対応したのか。

 実際気が付いたかどうかは定かではないです。気づいたというのは、あくまで、法月先生の想像にすぎません。法月先生は気が付いたと論じています。

たとえば、巽昌章先生は、以下のように述べられています。
>「後期クイーン的問題」の理論的な純化をはかり、推理小説の推理に関する問題として一般化してゆくと、実際の「後期(というより大戦後)クイーン」の営みと齟齬するところが出てくる。ほんもののクイーンが迷い込んだ境地は、いま論じられる「後期クイーン的問題」とはやや異なっているというわけだ。
>では『ギリシャ棺』ですでに「偽の手がかり」問題が扱われていることはどうか、といわれるかもしれないが、『ギリシャ』における「偽の手がかり」問題は、「後期クイーン的問題」が論じられるようになってから、遡行的に見出され、問題系に組み込まれたものである。

>https://posfie.com/@junk_land/p/HFjxDT5

※2025年9月6日閲覧

 巽先生は、明確に断言してはいないものの、クイーン氏が中後期で取り組んだことと、いま論じられる「後期クイーン的問題」とはやや異なっていること、初期の「ギリシャ棺の謎」などの作品の問題と、中後期の作品に現れる問題とは必ずしも連続性がないことを示唆しており、法月先生が提起した問題をクイーン氏が自覚していたものではないと暗に主張しているとも解釈できます。

 というように、異論はありそうですが、「クイーン氏はこの問題を自覚していた」とする法月先生の論に戻ります。
 法月先生は、「クイーン氏は「偽の証拠」などは取り扱わず、読者への挑戦方式の採用でフェアプレーが担保される範囲内に限定して本格ミステリーの創作を続けることもできたはずだ、しかし、そうしなかった」と主張します。
 そしてその理由は、
「それでは発展性がない(=それは本格ミステリーの延命にすぎない)」
というものです。そして、「クイーン氏はその殻を破るために、読者への挑戦方式を封印した」というのが初期クイーン論の結末の部分で法月先生が述べられたことの意味です。

 もちろん以上は、法月先生の想像であって、事実がそうだったのかどうかは別の話です。筆者の個人的な見解は、この法月先生の解釈(想像)はフィクションであり、事実は全然違うと思っておくのがよい、というものです。

1-8. 笠井先生による「後期クイーン的問題」の解釈

 冒頭のほうで紹介しましたように、法月先生の「初期クイーン論」を受けて書かれたのが、笠井先生による論評文「本格推理小説「第三の波」」(後に、「後期クイーン的問題」と改題)です。(文献4)

 ただし、この論評文も、必ずしも「後期クイーン的問題」のみをテーマとしたものではありません。元のタイトルからもわかるように、本格推理小説の潮流にみられる「第三の波」を題材とした連作論評文の一部です。ただし、後にタイトルを『後期クイーン的問題』と改めた雑誌掲載第七回は、その紙数のうちのかなりの部分を「初期クイーン論」に割いております。そして、「初期クイーン論」の中で提起された問題を「後期クイーン的問題」と命名した上で、「後期クイーン的問題」の独自解釈と、そこから派生する別の問題提起も行っています。

法月先生は、以下のように発言しておられます。
>後期クイーン問題という言葉を一般化したのは笠井潔さんで、ぼくはもう少し限定された領域でしか使っていなかった。(注釈2)

 すなわち、笠井先生のほうが法月先生よりも広い範囲で「後期クイーン的問題」を定義づけしていると考えられます。
 では、笠井先生はどう定義づけされたのか。
 以下の記載から推察します。

>探偵小説形式は原理的に、法月綸太郎が強調した「後期クイーン的問題」を回避することができない。(200頁)
>「後期クイーン的問題」は、あらゆる本格作家に不可避の難問をなしている。コード性の単調な反復など、実際問題としては不可能なのだ。(200頁)
>しかし探偵小説形式もまた、「ゲーデル的問題」を免れることはできない。自己言及的な形式体系におけるパラドックスの発生を、探偵小説形式は避け得ないのである。(204頁)
>「操り」パターンで露呈される問題は、探偵小説というコード体系に普遍的に内在している。(205頁)
>探偵を操る犯人の存在とは、コードの徹底化においてコードを逸脱する探偵小説形式の必然性を、極限的な形で露呈するものにほかならないのである。(206頁)
>コードの反復における差異、模倣における逸脱の追求は法月綸太郎の場合、探偵小説の不可能性という決定的な自問をもたらした。それでも法月が直面した難問を、極端すぎるものとして安直に退けるわけにもいかない。206頁)

  以上の抜粋から読み取れることは、
・「後期クイーン的問題」は、すべての作品で問題になるものではないが、「偽の証拠」や「操り」のテーマの作品に限定される問題ではなく、すべての探偵小説に内在している普遍的な問題。
・コードの徹底化においてコードを逸脱する場合(すなわち、形式化の果て)に露呈する。
・コードの徹底化はすべての作家に必須の流れなので、すべての探偵作家に共通の、いつかは行きつく問題である。

 このように一般化したものと読み取れます。なので、「一般化」といっても、笠井先生も、けっしてすべてのミステリー作品で「後期クイーン的問題」が問題になるとまでは主張していません。すべての作家がいずれこの問題に直面する可能性はある(いずれは直面する)し、「偽の証拠」や「操り」というテーマに限定はされない、というニュアンスで論じています。

 ところで、笠井先生は、「後期クイーン的問題」が露呈してしまうメカニズムについても明瞭に説明しています。(法月先生は、「形式化」という表現で若干曖昧な説明でした。)

【「後期クイーン的問題」が露呈してしまうメカニズム】
・探偵小説は、単純なコードの反復は許されない。たとえばトリックを反復する際には、必然的に新たな解釈、新たな設定、新たな謎を付加することが要求される。このことは読者による普遍的な要求である。
・反復における差異の付加の繰り返しにおいて、作家は、遅かれ早かれミステリーの限界(境界領域)に到達する。
・そのときには探偵小説の無底性(根拠の不在)がむき出しになる。 

 さらに、上記メカニズムに基づき、笠井先生独自の問題点と見解を提起しています。
・根拠の不在に直面しているにもかかわらずそれに無自覚なまま創作を続けると、探偵小説自体が崩壊する。
・実際に、英米で本格ミステリーというジャンルが崩壊したのは、(けっして反復によるマンネリズムで飽きられたのではなく)この無自覚が原因。

 わかりにくので、もう少しくだけた説明をするなら
・作家は、過去の作品と違う新しいトリックや斬新アイデアをもりこむため、作品ごとに工夫が必要です。そうしているうちに、作品はいつのまにか、本格ミステリーの範疇の限界に来てしまいます。
・一方、ミステリーの作中世界とは、作者が自由に意思を反映できる空間です。作者は神と同様の存在です。作中ではなんでもできる存在です。
・だからといって、神の権力を勝手気ままに無秩序にふるまえは、一見面白い作品は創作できても、もはやそれは本格ミステリーの世界から逸脱しているかもしれません。
・そういう行為を無自覚でやっていると、それを元にもどそうとしても後戻りできなくなってしまい、本格ミステリー自体が崩壊してしまいます。
というような意味だと思います。

 以下の文章が上記説明を裏付けます。
>ようするに『十日間の不思議』の犯人は、作品空間の外部に超出している。逆にいえば、作品空間の内部に作者が恣意的に下降した結果、「スタティックなゲーム空間」は根本的な亀裂にみまわれている。これでは「作者=犯人=ストーリー」に、「読者=探偵=プロット」は永久に追いつくことができない。
>作品空間の外部に超出した犯人と、気ままに作品空間をさまよう欺瞞的で自由な作者。それは作品空間の外部に位置し、登場人物を「神」として操るところの、まさに古典近代的な万能な作者に退行しかねない存在でもある。

以上から、笠井先生が「問題視」したのがどういうポイントなのかが見えてきました。おおむね、以下のようにとらえてよいと思います。
 コードの反復による差異の付加を繰り返しているうちに、ミステリー作品は本格ミステリーの限界を超え、本格ミステリーの領域を逸脱するが、この逸脱を無自覚で続けていると、本格ミステリーというジャンルが崩壊する

 これを無理無理要約すれば、笠井先生による問題提起すなわち、「笠井クイーン的問題」とは、「本格ミステリーからの逸脱によるジャンル崩壊の危惧」と表現してもよいでしょうか。

以降、これを、「後期クイーン的問題(笠井)」と称します。

1-9.「後期クイーン的問題」各説の相違点の比較

 以上で、「後期クイーン的問題」がどのようなものであるかの説明は大体終わりです。本章で説明した「後期クイーン的問題」の法月先生の内容、笠井先生の内容、一般的に広まっている内容、諸岡博士などによる過激な解釈の内容について、一覧にまとめました。参考にしてください。

後期クイーン的問題のずれ(法月先生、笠井先生、諸岡博士、世間一般の認識の違いを比較)

 これらの中では、法月先生の内容が一番限定的です。作品もひとまずはクイーン氏の作品に限定され、テーマも「偽の証拠など」に限定されています。さらに、状況も形式化の極限で露呈するというものであり、問題点も本格ミステリーそのものを否定したものではありません。

 笠井先生は、対象となる作家とテーマについては一般化して広げており、どの作家も直面する問題としておりますが、すべてのミステリーが作品として成立しないという極論ではありません。問題が露呈する状況は概ね法月先生と同様、形式化の極限(コード反復の限界)です。ただし、笠井先生は、これを無視して無自覚に創作を続ければ、本格ミステリージャンルの崩壊につながるという警鐘を鳴らしており、これを問題点としているようです。

 それに対して、「第一の問題」は大きな変化が見られます。この問題を「作内で探偵の解決が真であることの証明ができない(探偵の推理の問題不完全性)」というように、純粋に技術的な問題に一般化したうえで、すべてのミステリー作品に共通する課題としています。(といっても、もともとのオリジナルは法月先生が主張した内容の一部といえます)

 さらに諸岡先生のご意見では、上記「第一問題」をふまえ、「完全な本格ミステリは存在しない」とまで言い切っています。

 このように、「後期クイーン的問題」は、さまざまな広がりを見せて独り歩きしているのです。

1-10.なぜメタ・ミステリーでは「読者への挑戦方式」が通用しないのか(ざっくり編)


 なぜ、メタ・ミステリーではフェアプレー性が担保できないのか。
 これは単純な話ですが、合理的に説明するのは長くなります。なので、本章では、ざっくりした結論を先に言います。なんとなくの結論だけなら単純です。

 メタ・ミステリー形式のミステリーでは、解決編の前までに、探偵や警察が読者に対して、何度も誤った解決を提示します。
 読者にとってみれば、真相を提示されたと思ったらそれは誤り。また別の真相が示されたと思ったらまたそれも誤り。
 その結果読者は、作家や探偵のことなど信用できなくなってしまいます。理屈は単純です。オオカミ少年みたいなものです。前に同じことが2度3度同じことがあったので、今回も同じだろうと疑うようになったというものです。

 その結果、最後の最後に探偵が真相を説明しても読者は納得できません。
個の解決もまた誤りではないか、と思います。仮にそれがどんなに論理的な推理で導かれたように見える解答であってもそれが真相だと認められないです。

 伝家の宝刀である読者への挑戦方式を用いても同じことです。
 詳しくは別途説明しますが、読者への挑戦方式のひとつの目的は、これ以上真相解明に必要な証拠が存在ないことを読者に認めてもらうという作者から読者への要請です。
 しかし、読者は、この時点でもっと他に証拠があるのではないか、探偵が推理に用いた情報の中に偽の証拠(誤った情報)が含まれているのではないか、推理に使用している証拠の真偽(解釈)が覆る可能性があるのではないか、そのように考えます。
 すなわち、「読者への挑戦方式」は、すでに効力を失い、作家と読者の合意事項はすでに反故にされているのです。

 「読者への挑戦方式」が無効になりましたから、事実上、フェアプレイ性も保たれません。
別稿(※)別稿にて説明しておりますように、フェアプレイ性が確保されているかどうかを判断するのは最終的には読者です。その読者が、作者の用意する解決を真実だと認めないわけですから、フェアな謎解き空間は崩壊です。
フェアプレー性が保たれないため、作家は物語をすっきりと終わらせることにはできなくなってしまった、というのがこの問題の末路となります
(※)読者への挑戦の意義とフェアプレイ性について
>https://note.com/yuchan321/n/nfd360efe2330

 読者がそういう姿勢になった原因は、もとはといえば、「メタ・ミステリー」だのなんだのを使って、何度も何度も読者を騙した作者に責があるわけで、いわば自業自得です。
 ですが、自業自得にせよなんにせよ、作家にも悪気があったわけでもなく、いい作品を作ろうとしただけです。それなのに、読者は作家のことも探偵のことも信じない。作家にとっては悲劇かもしれません。

 法月先生が提起した問題をこのような簡単な表現で説明してしまうと、なんか身も蓋もないですよね。下世話な内容です。
というか、法月先生が提起した問題がそんな単純な話のわけがない、もっと高尚な問題なはずだ、と筆者(私)に文句を言う方も出てくるかもしれません。
 確かに、法月先生の「初期クイーン論」は、非常に高尚で格調高い文章ですから、筆者が上で説明した下世話な内容のはずがないと思われるのもやむを得ないのですけどね。
 「初期クイーン論」を丹念に読んでみれば、内容はこんなものだとわかりますよ。文章は格調高いですが、論点は非常にシンプルで単純なんです。

 でも、逆に言えば、結論の要点は単純で下世話であっても、簡単な説明をしたからこんなものなのであって、ちゃんと真面目に説明すればかなり奥が深く示唆に富んだ内容を含んでいます。

 以上が、メタ・ミステリー形式のミステリー作品では、「読者への挑戦方式」を用いてもフェアプレイ性が保たれない理由の直観的でざっくりした説明です。
 ここまでの説明でご理解いただけたように、読者が作家や探偵を信用しなくなったのは、どちらかというと感情的な理由であり、必ずしも論理的な根拠によるものではないように見えます。
 しかし、実はそこまで単純でもありません。読者が作家を信用しなくなるに至った原因は、経験と感情だけで片づけられない部分もあります。そこに至る過程には本格ミステリーに特殊な様々な要因も複雑に影響しています。感情的な理由だけでなくある程度は論理的に説明もできます。

 なので、その示唆に富んでいる複雑な要因というやつを、次章以降で、多少はまともな文章で多少は論理的に説明していきます。長い説明ですが、難しいことは書きません。平易に説明します。

1-11.まとめ

 本拙文は、「後期クイーン的問題」がどういう内容の問題なのかを説明したものです。「後期クイーン的問題」には、以下のような認識の違いがあることを明確にしました。

①(後期クイーン的問題が生じる根本原因)
 本格ミステリーでは、探偵が推理に用いる証拠のうちで、少なくとも1つは、真偽のが決められないという特性(※)が普遍的に存在する。
※厳密には証拠の解釈の正誤が決められないという特性
=「①証拠の真偽(証拠の解釈の正誤)の決定不可能性」

②(現在、世間一般的に認識されている内容)
 作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できない。(第一の問題)
=「②探偵の推理の不完全性」

③(諸岡博士などによるやや過激な解釈)
 完全な本格ミステリは存在しない。
=「③本格不在問題」

④(世間一般的に第二の問題として流布されている内容)
 探偵が神のように振る舞うことは不条理である。(第二の問題)
=「④探偵の倫理観の不条理性」

⑤(法月先生が「初期クイーン論」で問題提起した内容)
 偽の証拠などを扱った作品では読者への挑戦方式(ロジカル・タイピング)を用いてもフェアプレイ性が保たれない(法月クイーン的問題)
=「⑤フェアプレイ性担保の限界(ロジカルタイピングの破綻)」

⑥(笠井先生による問題提起)
 本格ミステリーに普遍的な問題としてコード反復の際の差異付加の極限で本格ミステリーからの逸脱が生じ、これを無自覚に続ければ、本格ミステリーというジャンルの崩壊につながる。(笠井クイーン的問題)
=「⑥(本格ミステリーからの逸脱による)ジャンル崩壊の危惧」

 以上の説明で、「後期クイーン問題」の内容はご理解いただけたと思います。
なぜ、偽の証拠などを扱った作品やメタ・ミステリー形式の作品でロジカルタイピングの破綻が起こるのか、その厳密な説明は次章以降のテーマといたします。

【注釈】

注釈1https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%9A%84%E5%95%8F%E9%A1%8C#cite_note-1
2025年8月30日閲覧

注釈2:再帰の反復blog
2010-03-20
法月綸太郎のクイーン論についてhttps://lemniscus.hatenablog.com/entry/20100320/1269079202
>まず定義からしてうやむやなところがあって、後期クイーン問題という言葉を一般化したのは笠井潔さんで、ぼくはもう少し限定された領域でしか使っていなかった。議論のレベルもいくつかあって、ニセの証拠・ニセの解決が用意され、真相は系のなかでは決定できないという問題がひとつ。それといわゆる<あやつり>の構造にまつわる議論ですね。あともうひとつは、探偵が事件のなかでどんな立場に置かれるかという倫理的な問題。
(瀬名秀明『瀬名秀明ロボット学論集』勁草書房 p.201-202)
2025年8月31日閲覧

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』脚注1
>この語のもとでの議論の分類について、法月は2006年に以下のように発言している。「議論のレベルもいくつかあって、ニセの証拠・ニセの解決が用意され、真相は系のなかでは決定できないという問題がひとつ。それといわゆる<あやつり>の構造にまつわる議論ですね。あともうひとつは、探偵が事件のなかでどんな立場に置かれるかという倫理的な問題。それらは別の話ではないかと小森健太朗さんに指摘されたんですが、確かにその通り」(瀬名秀明、法月綸太郎「『デカルトの密室』/二一世紀本格/クイーン」『瀬名秀明ロボット学論集』勁草書房、2008)
2025年8月31日閲覧

注釈3
ただし、「後期クイーン的問題」という呼び名の名付け親が笠井先生だったかどうかは定かではないようです。あくまで、笠井先生の評論がきっかけでその名前が広まったということのことのようです。

注釈4
たとえば

2025年8月31日閲覧

注釈5
難解な理由はいくつかあります。筆者が難解に感じた理由は以下です。
・ひとつには、法月先生が「初期クイーン論」の中で行った分析方法は、柄谷行人先生が『隠喩としての建築』『内省と遡航』の中で、各芸術分野における「形式主義」という潮流を論じた際に行った手法を参考にして、本格ミステリーにその方法を当てはめたものです。ただ、(筆者の個人的感想では)そのように当てはめるには若干無理があったと思われます。
・さらには、法月先生が参考にした柄谷行人先生の手法というものが、さらにその大元として、ラッセルやゲーデルをはじめとする数学や哲学の世界の理論展開を参考にしたものなのですが、当然ながらそれら数学や哲学自体が難解です。数学自体も難解ですが、たとえば「論理主義」「形式主義」といった数学/哲学の様々な学派が出てきたり、ラッセルのパラドックスのようなさまざまなパラドクスが参照されていたりして、それを全部理解し咀嚼するのはかなりハードルが高い。
・しかも、柄谷行人先生や法月先生が行った手法は、数学や哲学の手法を厳密にとりいれて証明を行ったものではなく、単に比喩的に使っただけであること。厳密な数学的手法ではなく単なる比喩的な扱いのため、なおさらわかりにくい部分があります。
※ただし、比喩であるなら、難解な数学は無理に理解しなくてもよいかもしれないとは思います。そうであればその点に関しては難易度は下がるかもしれません。
・特に、法月先生のおっしゃる「形式化」「形式化の帰結」という表現が筆者には理解しにくい表現でした。形式化と呼ばれる手法がヴァン・ダインやクイーンによって取り入れられて本格ミステリーを対象に実施されたとされていますが、「形式化」の具体的な意味や、やり方が曖昧なままにされています。
※法月先生が踏襲したという柄谷先生の手法の内容や、さらに柄谷先生が比喩に用いた数学、哲学の内容について、表層的ではありますが、付録9を参照ください。
※「後期クイーン的問題」は、その比喩の元になったゲーデルの理論に基づき「(本格ミステリにおける)ゲーデル(的)問題」と称されることもあります。「後期クイーン的問題」という表現と、「本格ミステリにおけるゲーデル的問題」がまったく同じ意味で使われているとは限りませんが、おおむね、言い換えと認識してよろしいかと思います。なお、ゲーデル的問題という表現が使われたときは、若干、数学寄りの厳密な議論をする場合に使われることが多いと思われます(それに限定はされませんが)。
 このように、いろいろ理由があって、法月先生の論評文「初期クイーン論」が難解になるのは当然だと思います。

【引用文献//参考文献】

文献1 諸岡卓真 「現代本格ミステリ研究」(2010年3月31日、北海道大学出版会)
文献2-1 法月綸太郎「複雑な殺人芸術」(2007年、講談社)より「初期クイーン論」(初出1995年)
文献2-2 同上、「一九三二年の傑作群をめぐって」
文献4 笠井潔「探偵小説論Ⅱ」(東京創元社、1998年)第八章「後期クイーン的問題」、初出『野生時代』一九九六年四月号『本格探偵小説の「第三の波」』第七回
文献7 小森健太郎「探偵小説の論理学」(南雲堂、2007年)
文献10 飯城勇三「エラリー・クイーン論」(論創社、2010年9月30日初版) 


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