「“また同じこと言ってる”と言われたら、あなたはどうする?」 〜「薄い傷つき」と心理的安全性
このnoteは、「傷つき」をテーマにした三部作の一本目です。
はじめに:さらけ出せない違和感
「心理的安全性」という言葉は、今ではすっかり一般名詞になりました。
よく紹介される説明だと、たとえばこんなふうなものがあります。
チームの中で、「この発言をしたらバカだと思われるのではないか」「不利益を被るのではないか」といった不安が少なく、
ミスの報告や質問、意見表明などをしても、罰せられたり格下げされたりしないと感じられる状態。
もう少しくだくと、「ミスや弱さ、わからなさ、本音を出しても、人間的・職業的に大きく損をしないと思える状態」といったイメージでしょうか。
その延長で、
チェックインをしよう
自己開示が大事
本音で話そう
といったメッセージが、あちこちで語られるようになりました。
言っていること自体は、たしかに「そうだよな」と思います。
ただ、実際にそういう場に身を置いてみると、どこかでこんな感覚も顔を出してきます。
正直、そんなにさらけ出したくないんだけどな……。
「心理的安全性のためには自己開示が大事」と言われれば言われるほど、
どれだけ自己開示できているか、が一種のノルマや評価軸のようになっていく。
この小さな違和感を手がかりに、
チェックインや自己開示のこと、受容と許容のこと、コンプライアンスのこと、日本の文化のこと——
あれこれ考えを巡らせていった結果、
最後に「これが言いたかったのかもしれない」と思える一文がうっすらと見えてきました。
この記事では、その一文にたどり着くまでの道のりを、そのままエッセイとして辿ってみようと思います。
「さらけ出すこと」と「さらけ出せること」
一般的な説明では、心理的安全性は「弱みをさらけ出せる」「本音で話せる」状態として語られます。
ミスを認めたり、「わかりません」と言えたり、自分の不安や迷いを共有できることが大事なのだ、と。
この理解そのものは、まったく間違っていないと思います。
ただ、よくよく考えてみると、本当に重要なのは「さらけ出していること」そのものよりも、
さらけ出してもいいし、さらけ出さなくてもいい、と自分で選べること
なのではないか、という感覚が出てきます。
言いかえると、
いつも自己開示している状態そのものが心理的安全なのではなく
自己開示するかどうかを、その時々の自分のコンディションや関係性を見ながら、自分のペースで選べること
のほうに、本質があるのではないか、ということです。
ところが現場では、
「チェックインなんだから、何か一言は言わないといけない」
「自己開示しないと、ノリが悪いと思われるかもしれない」
「本音トークの場なんだから、多少はディープな話をしないとな」
みたいな空気が、生まれやすいところがあります。
そうなると、そこはもはや「安心して話せる場」ではなく、
「期待された役割をちゃんと演じないといけない場」や、
「ちゃんとさらけ出している感じを出さないといけない場」に変わっていきます。
「さらけ出せる場」をつくろうとしていたはずなのに、
いつの間にか「さらけ出さなければならない場」になってしまう。
このねじれが、多くの人にとってのモヤモヤの源泉になっているように感じます。
「受容」と「許容」が個人の中に閉じこもるとき
このあたりのことを考えていると、「受容」と「許容」という言葉に出会います。
一般的には、受容は「起きたことや相手を、そのまま受け止めること」、
許容は「それを許し、受け入れ、関係を続けること」といった意味で使われることが多いと思います。
多くの議論では、こんな問い方になります。
自分にとってマイナスな出来事が起きたとき、それを受容するのか、許容まで進むのか。
これは、基本的には「自分の内側の選択」の話として語られます。
ここでは構図がはっきりしていて、
傷つけた側は “判断される側”
傷ついた側は、「受容でとどめるか」「許容まで行くか」の決定権を持つ “裁く側”
として扱われます。
「受容はするが許容はしない」という言い方は、その典型例です。
これはつまり、「起きたことやあなたという存在は認めるけれど、許すつもりはない」という、静かな線引きの宣言でもあります。
もちろん現実には、こうした線引きが必要なケースもあります。
ただ、「心理的安全性」という観点からこの構図を見てみると、
この“裁きの非対称性”が強い場で、人は安心して自己開示できるだろうか?
という疑問が浮かんできます。
話す側は常に、「これは受容だけされて、許容はされないかもしれない」という不安と隣り合わせになります。
「いつどこで、静かにジャッジされるかわからない」という感覚が、じわっと居座り続けるわけです。
「厚い傷つき」と「薄い傷つき」
ここで、「傷つき」にもグラデーションがあることを、一度ちゃんと分けてみたいと思います。
ひとつは、明らかに「厚い傷つき」と呼ぶべきものです。
露骨なハラスメントや差別的な言動、権力を背景にした攻撃的なふるまいなど、
個人の尊厳を深く傷つける行為がこれにあたります。
こうした事態に対して、「当事者同士で話し合って仲直りしてください」と丸投げするのは、さすがに無理があります。
組織としてルールを明確に定め、違反があればしかるべき措置をとる。
いわば「厚い裁き」、強いコンプライアンスが必要な領域です。
一方で、私たちの日常には、もっと小さくて、それでも確かに刺さる「薄い傷つき」がたくさんあります。
たとえば、私自身にもこんなことがありました。
あるミーティングで、メンバーの一人が新しいアイデアを出してくれたとき、
私は「それ、前にも似たようなの出てた気がしますね」と、軽いノリのつもりで返したことがあります。
自分の中では「すでに出ている案とどう違うか整理したい」という意味だったのですが、
後からその人と話したときに、「あの一言で、“自分なりに考えたこと”を一瞬で雑に扱われた気がした」と言われました。
正直、そのときまで「そんなふうに聞こえる可能性」はほとんど意識していませんでした。
でも相手からすると、「また同じこと言ってるじゃん」と突き返されたように感じた、と。
逆に、自分が薄く傷ついた経験もあります。
忙しい時期に、あるプロジェクトの進め方について議論をしていたとき、
先輩から「その考え方って、ちょっと“学生ノリ”なんだよね」と言われたことがありました。
たぶん先輩としては、「現場の複雑さをもっと見たほうがいいよ」というニュアンスだったのだと思います。
頭ではそれもわかるのですが、「学生ノリ」という言葉が、自分のこれまでの経験や仕事へのスタンス全体を、
まとめて軽く見られたような感覚が残って、しばらくモヤモヤを引きずりました。
どちらのエピソードも、「明確な悪意があったか」と言われれば、たぶんそうではありません。
言った側にも、それなりの意図や文脈がありました。
でも、受け取る側にとっては、確かに小さな傷として残る。
こういう「薄い傷つき」は、多くの場合、文脈や価値観の違いから生まれます。
本来であれば、ここには大きな学びの余地があります。
なぜその言葉で相手は傷ついたのか。
自分はどんな前提でその言葉を「普通」だと思っていたのか。
相手の立場や経験から世界を見てみると、どんなふうに意味が変わるのか。
こうした問いを通じて、お互いの視野や認識は少しずつ広がっていきます。
ところが先ほどのように、「受容」と「許容」が個人の内側だけで完結してしまうと、この学びの回路はそこで途切れてしまいます。
傷ついた側は心の中で、「あの言い方は受け入れるけれど、許しはしない」と判断し、相手は静かに「そういう人」とラベリングされます。
傷つけた側は、「なぜそうなったのか」を知る機会を持てず、自分の前提や文脈を見直すチャンスも失います。
そうやって場には、「薄い裁き」が少しずつたまっていきます。
表面上は何も起きていないように見えても、水面下では、
「あの人にはあまり本音を言わないほうがいい」
「あの人の前でこの話題は出さないでおこう」
といった静かな線引きが増えていきます。
その結果、その場は「心理的に安全な場所」というより、
「波風を立てないようにやり過ごす場所」に近いものになってしまいます。
ここまで考えて、ようやく見えてきた一文
ここまで考えを辿ってきて、ようやく自分の中にしっくりくる一文が浮かんできました。
薄い傷つきが起きたときに、受容と許容が“個人の中”で終わるのではなく、その関係性の中で、双方向にやりとりされることそのものが心理的安全性である。
少しゆっくり解いてみます。
薄く傷ついた側は、まず「自分が傷ついた」という事実を、自分の中で否定せずに受け止めます。
そのうえで、「相手が悪意をもって攻撃した」という物語だけではなく、「価値観や文脈の違いの結果、たまたまそうなってしまった」という可能性にも、少しだけ開いてみる。
その状態から、「どの言葉が、どういう理由で自分には刺さったのか」「自分のどういう前提に触れたのか」を言葉にして、相手とのあいだにそっと差し出してみる。
一方で、薄く傷つけてしまった側は、「そんなつもりはなかったのに」という自己防衛をいったん横に置き、「相手はそう感じた」という現実をそのまま受け止めます。
そのうえで、「自分はどんな前提でその言葉を“普通”だと思っていたのか」「相手の経験からすると、どんな意味を帯びて届いたのか」という問いを、自分のほうにも向けてみる。
こうして、受容と許容がどちらか一方の内面だけで完結するのではなく、
双方のあいだを何往復もするような「対話」として立ち上がっている状態——
それこそが、心理的安全性のかなりリアルな姿なのではないか、と思うようになりました。
ここで描いているのは、「傷つきが一切起きない静かな場」ではありません。
むしろ、「薄い傷つきや小さな揺れが起きても、それを沈黙で飲み込むのではなく、対話と学びの素材として扱い直せる場」です。
これは、「静的な安全」というより、「動的な安全」と呼びたくなるような状態です。
コンプライアンスが「薄い学び」を奪うとき
この「動的な安全」の話をしていくと、自然とコンプライアンスの話題にぶつかります。
コンプライアンスが大事なのは、言うまでもありません。
深刻なハラスメントや差別的な言動があったときに、「当事者同士の問題」として片付けてはいけないのは明らかです。
ただ、現場で実際に起きているのは、もう少し複雑なことです。
誰かが傷ついたことが表に出ると、組織は「再発防止策」を求められます。
すると、「次からはこの言い方は禁止」「この振る舞いもNG」といった形で、細かな禁止事項や手続きがどんどん増えていきます。
本来であれば、
厚い傷つき(構造的・悪意的なもの)には、ルールと処分という「厚い裁き」をはっきり適用し
薄い傷つき(文脈のズレや言い方の問題)には、対話と学びという「関係のアップデート」で向き合う
という二層構造が必要です。
ところが現実には、その二つがきれいに分けられないまま、
「とりあえず全部ルールの対象にしておけば安全だろう」という発想に寄っていきがちです。
そうなると、人は「考えて話す」「対話する」前に、「黙る」「避ける」「触れない」を選びはじめます。
コンプライアンスは本来、「守られるための仕組み」であるはずなのに、
いつの間にか「怒られないための沈黙」を生み出す仕掛けになってしまう。
先ほど書いた、「薄い傷つきを関係の中で扱い直す」という回路は、
こうしたコンプライアンスの運用によって、じわじわと細くなっていきます。
日本という土壌と、マイクロルール化の構造
このコンプライアンス偏重の背景には、日本という土壌の特徴も関係していそうだな、と感じています。
欧米の多くの社会には、歴史的にキリスト教的な倫理観や、
近代市民社会が育ててきた「個人」や「人権」といった枠組みがありました。
「人は神の前では平等である」「個人の自由と権利は守られるべきものだ」といった、
比較的太い共通規範が長く存在してきたと言えます。
その上に、「差別をしてはいけない」「性的なハラスメントは許されない」といった原則が乗り、
さらにその具体的な運用として、コンプライアンスが設計されてきた——
ざっくり言うと、そんな筋道です。
一方で日本には、一神教的に社会全体を貫く強い宗教規範はありません。
善悪や可不可は、「相手との関係」「その場の文脈」「空気」の組み合わせによって、
微妙に変わるものとして体感されていることが多い。
ある人には冗談として通じることが、別の人には失礼になる。
ある部署では許容されることが、別の部署ではアウトになる。
そうした「関係ごとのローカルルール」が、ごく自然に存在している社会です。
このような「関係主義」の文化では、
「上にドンとある太い共通規範に従う」という発想より、
「その場その場で調整する」という発想のほうがしっくりきます。
ただ、企業としてコンプライアンスを強化しようとするときには、
どうしても「社内で共通する基準」が求められます。
でも、規範を関係の外側に固定することに慣れていない社会では、
「何が絶対にアウトなのか」をスパッと定義するのが難しい。
その結果、「過去に問題になった事例」を一つひとつ拾い上げ、
それに対する対処としての細かいルールを積み重ねていく、という動きになりがちです。
いわば、「マイクロルール」の束こそがコンプライアンス、という構図が生まれます。
この過程で、「なぜそれがダメなのか」という根っこの原理は共有されにくく、
「やめておいたほうがいいことリスト」だけが肥大化していきます。
そしてその射程が「薄い傷つき」の領域まで広がるとき、
本来であれば対話と学びに回せるはずの余白が、どんどん失われていきます。
おわりに:静かな安全より、「揺れながら学べる安全」へ
最初に触れた一般的な説明に照らすと、心理的安全性とは
「ミスや本音を出しても罰せられないこと」だと言えます。
ただ、ここまで辿ってきた流れを振り返ると、その奥にはもう一段深い層があるようにも感じます。
私たちは、言葉の不完全さや、文脈の違いから逃れることはできません。
意図せずに相手を傷つけてしまうこともあれば、自分が思いがけないところで傷つくこともあります。
そうした「薄い傷つき」を完全になくすことは、おそらく不可能です。
むしろ大事なのは、そのとき何が起きるか、です。
傷つきが起きないように極端に言葉を選び、
触れない話題を増やし、マイクロルールでがんじがらめにすることで、
「静かな安全」をつくることはできるかもしれません。
けれど、その静けさの裏側で、「学び」や「関係の更新」もまた、じわじわと凍っていきます。
それよりも、多少の揺れや薄い傷つきが起きても、
それを沈黙で飲み込むのではなく、受容と許容を持ち寄りながら、
関係の中で双方向に扱い直していける「揺れながら学べる安全」をどうつくるか。
心理的安全性という言葉を、自分なりにもう一度考え直してみたとき、
今のところ自分は、その方向に一番ピンときています。
そして、
そんな風に学びを交換し合えることが未来の当たり前になればいいなと思います。
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