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SNSで“正義”を振りかざすと、誰かが死ぬという構造について

このnoteは、「傷つき」をテーマにした三部作の二本目です。



先日、ある芸能人が生配信の中で、「最近の若者は〜」みたいなニュアンスのことを口にして炎上していました。
特定の誰かを攻撃したわけではなく、よくある世代論の延長のような話です。それでもその部分だけが切り取られて拡散され、タイムラインはいっきに荒れはじめました。

その芸能人のファンとアンチの軽めのいざこざからはじまり、やがてはまったくその芸能人と関係のない一般ユーザー同士が、「だから今の世代はダメなんだ」だの、「そうやって一括りにする大人のほうが問題だ」だの、どんどんヒートアップしていきます。
気づけば話題は「教育」「政治」「経済」などに飛び火し、もはや元の発言とはほとんど関係のない地獄のような殴り合いへと変わっていました。

タイムラインを見ていると感覚が麻痺するのか、その殴り合いにいっちょ噛みしてやろうかなどという不埒な思いが頭をめぐり、ふと我に返ってそっとアプリを閉じるみたいなことを何度か経験しました。

「なんでSNSではこんなふうになってしまうんだろうか」
そんな問いから自分なりの考察をしてみました。


「言葉に従う」とはどういうことか

信仰とは、突きつめると「言葉の力に従うこと」です。
教祖の言葉を疑わず、そのまま受け取れば受け取るほど、信仰は強くなっていきます。

そこには、「話す側」と「聞く側」のはっきりした上下関係があります。
この差があるからこそ、信仰は成り立ってきました。

しかしSNSの時代、その関係は大きく変わりました。
今は誰もが発信者であり、同時に受信者でもあります。
言葉は権威ある誰かから降ってくるのではなく、無数のふつうの人から一気にあふれ出します。

同じ一文でも、「刺さる」と感じる人もいれば、「ムカつく」と感じる人もいます。
読む人の経験や、その日の気分しだいで、まったく違う意味に見えてしまうのです。

こうして生まれたのが、「信じる」と「疑う」が同時に存在する場所です。
SNSは、信仰のあり方そのものを作り変える「心の中の教会」になりつつあります。


タイムラインという名の「教会」

SNSは、一種の「宗教の場」のように働いています。
カリスマ性のある発信者は、教祖のように言葉を放ち、フォロワーがそれに反応します。
共感、怒り、賞賛、嘲笑——さまざまな感情が拡散されていきます。

ただ、従来の宗教と決定的に違うのは、「異論」や「批判」が同じ場所に存在できることです。

SNSは、信者も批判者も同じ空間で、称賛と罵倒を同時にくり返すひとつの教会です。
批判は外からの攻撃ではなく、内部で回り続けるエネルギーになります。
炎上という火事そのものが、この教会を動かす燃料になってしまうのです。

信じる人も、嘲笑する人も、結局は同じ構造に参加しています。
みんな、タイムラインという祭壇の前に集まっているだけなのです。


つながるほど、分かれていく

人類はこれまで、宗教・国家・文化といった「共通の物語」を通じて、一体感を保ってきました。
「みんながなんとなく信じている話」があったから、社会はまとまっていました。

その物語は、ときには「違い」を生むことで平和も維持していました。
「あなたの神」と「私の神」が違うからこそ、互いの世界を侵さずに済んだのです。

しかしSNSは、その境界線をほとんど溶かしてしまいました。
まったく異なる価値観や背景をもつ人たちが、同じ画面の上に並びます。
本来なら出会わなかったはずの世界が、スマホの中でぶつかるようになりました。

たとえば、別の国で暮らす見知らぬ誰かとも、リプライ一つで殴り合いが始まってしまいます。

SNSは、別々の世界観どうしを、無理やり近づけてしまう装置です。

だから、分断や対立は偶発的な事故ではありません。
つながりが深まるほど、分断も強くなる。
接続そのものが、すでに分断のスイッチを押しているのです。


承認欲求とお金の「魔融合」

この構造をさらに複雑にしているのが、「承認されたい気持ち」と「お金になる仕組み」が結びついたことです。
これは、意図せず進んでしまった**“くっつき事故のような魔融合”**です。

SNSは「つながりの道具」から、「目立ち合う市場」へと変わりました。
自己表現は心の発露ではなく、数字と結びついた経済行為になっています。

クリックは通貨になり、注目は資源になり、感情はデータとして流通します。

一晩でフォロワーが何万人も増える“バズ”の裏側では、
いいねや再生回数がそのまま収益や仕事につながります。
「たまたま受けた一言」が、「もっと数字を取らなきゃ」というプレッシャーに変わってしまうのです。

こうして、人間の欲望そのものがアルゴリズムに組み込まれ、
欲望→数字→承認→欲望……というループが止まらなくなります。

もはや、理性だけでは制御できません。
SNSとは、承認欲求と資本主義が危ういかたちで手を組んでしまった場所なのです。


政治もタイムラインに流れていく

かつて政治は、社会の価値観を調整するための装置でした。
国家、議会、テレビといったメディアは、「公共性」という舞台をつくっていました。

しかしSNS時代、政治そのものがこの構造に吸収されました。
政治家はSNSを使うのではなく、SNSによって存在を維持されているとも言えます。

言葉は政策ではなく、コンテンツになり、
政治は外部ではなく、タイムラインの内部で演じられる存在になりました。

国家でさえ、構造の外側には立てず、
SNSという巨大な流れの一部として消費されつつあります。


この仕組みは、本当に「終点」なのか

それでも、人類の歴史を眺めると、完全に固定化された仕組みは一度もありませんでした。
宗教も、封建も、資本主義も、永遠に見えて何度も形を変えてきました。

資本主義もSNSも、「最終形」ではなく、ただの変異の一段階にすぎません。

どれほど大きく見える構造も、人間の意識や倫理によって書き換えられます。
人間は常に何かに縛られながら、その縛りを超えてきました。

仕組みは人間を縛りますが、
人間はその仕組みのストーリーを書き換えることで、自由を取り戻してきたのです。


まだ名前のない時代を生きる

今、私たちはとてもわかりにくい時代を生きています。
古いルールは崩れ、新しいルールはまだ見えていません。
この混乱は、壊れていく時間であると同時に、何かが始まる準備期間でもあります。

SNSという神殿は「共感」を燃料に動き、
ときにその熱量が分断を加速させます。
炎上とは、ひとつの感情が巨大な力となり、違う感情を押しつぶしてしまう現象です。

だからこそ必要なのは、なんでも共感することではなく、
わからないまま理解しようとしてみる態度なのだと思います。

相手の痛みや怒りを、自分も同じように感じる必要はありません。
「そう感じている人がいる」という事実をいったん受け止めること。
そこから、分断を前提とした共存が始まります。

また、SNSでは言葉がすぐ「コンテンツ」に変わり、
いいねやリポストという通貨に溶けていきます。

その流れを少し変えるには、言葉を対話の入口として使うことが必要です。
反射的なクリックではなく、一拍おいて関わり方を選ぶこと。
「何を発信するか」ではなく、「どう関わるか」を選び直すこと。

これから生まれる公共性は、
“みんなが同じ意見”というシンプルな形には戻らないでしょう。
意見の違いを前提にしながら、どう共存するかを探る——
そんな、少しタフで複雑な公共性になっていくはずです。

私たちは「つながるほど、分かれていく」というSNS特有の逆説を背負いながら、それでも理解しようとする態度を選び直しているのだと思います。

と、希望が見えるようなことを書いてきましたが、現状のSNSはやはり、薄い傷をあっという間に厚い傷へと増幅させてしまう仕組みを抱えた場所でもあります。冒頭に書いたように、すでに燃え上がっているタイムラインにはいっちょ噛みせず、そっとアプリを閉じる——いまのところの現実的な処方箋は、そのあたりが限界なのかもしれません。



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