禊をすませば
排便、それは明鏡止水。生涯において、人はこれほど無心になれる瞬間をいくつ持てるだろうか。耳をすませば、鳥のさえずりや川のせせらぎさえ聞こえてくるようだ。侘び、寂び、そして便意。この三つが揃ったとき、その個室はただの個室ではなくなる。
今日も仕事のついでに商業施設で排便をしている。こじんまりとしたモールは、客の入りも少ないおかげで、心穏やかに便を排することができる。
静かに一番奥の個室に入り、便座に座る。本来なら便器の上で座禅でも組みたいが、無理な姿勢でケツ流が滞るのは避けたい。通常の着座だ。
目を閉じながらぐっと背筋を伸ばす。
フゥゥ~…
長い一息を吐ききったあと、カッと目を見開く。下腹部にぐっと力を込め、今まさに放出せんとするその瞬間だった。
カシュッ
小気味いい音が、静かな個室に響いた。
あまりにも完璧なタイミングだったため、一瞬、自分のケツから鳴ったのかと思った。しかし、これまで長い間苦楽を共にしてきた我がケツから「カシュッ」などという軽快なサウンドを聴いた記憶はない。
まさか壊れたのか。
私は力んだ姿勢のまま、自分の身体に何か取り返しのつかない異変が起きたのではないかと絶望し始めた。この先何十年、まだまだ一緒に過ごすつもりだったのに。このケツとやりたいことがもっといっぱいあるのに。
今生の別れを覚悟したまさにそのとき、地鳴りかと疑うような重低音が響いた。
「ッハア゛ア゛ア゛ア゛~ァァ……」
今度は、はっきりと音の出どころがわかった。隣の個室だ。
恐竜がいたらこんな感じだろうか。トイレケラトプスか?ウォシュレックスか?新種の恐竜名を考えながら、万一に備え、私はそのまま息を潜めた。
続け様に、隣から喉の奥を鳴らすような爆音が響く。
グビグビ!!ゴキュゴキュ!!
そして間髪入れず、
「ッハァァァァ~…」
何かを噛み締めるような、妙に哀愁を帯びた吐息。そこでようやくすべてがつながった。
そうか、酒飲んでんのか。
隣にいるのは恐竜ではない、人間だ。人間がトイレの個室で晩酌している。ビールかチューハイか、おつまみはあるのだろうか。色々気になったけれど、とりあえず言いたい。多分、飲まないほうがいいんじゃないか。
清潔とか不潔とかそういう次元ではない。ここはトイレ。心を鎮めて排便と向き合う場所だぞ。
枯山水の庭園でドッチボールするか?図書館でタップダンスするか?鍾乳洞でお誕生日会するか?しないだろ。だったらトイレで酒飲むな。バーカウンターでケツ拭くぞ。
思わぬ宴会に、放出の勢いもすっかり引っ込んでしまった。おそらく、今このトイレには私と横の彼しかいない。トイレという荘厳な空間に、晩酌の音がこだましている。最悪すぎるASMR。
耳をすませていないのに、勝手に聞こえてくる。このままでは、雫が「嫌な奴!」と怒鳴り込み、聖司もバイオリンで殴り込みに行くことになる。
ていうか、何飲んでるんだろう。プレモルかな。いや、なんだっていい。この呪われた「耳をすませば」を終わらせるためには、私が先に出るしかない。早く済まさねば。帰りたい。帰れない。サヨナラ。サントリー・ロード。
メロディーに乗せてエイっ!と力んだ瞬間、デカい屁が出た。カシュッとは程遠い、爆発のような重たい破裂音。恐竜がいたらこんな感じだろうか。
ごめんねの気持ちで、壁越しに手を合わせた。私なりの禊である。
