【ファスト語学】AI時代に「効率的な学習法」を追求するとぶつかる矛盾
1、ファスト語学
次のようなフレーズに引っかかりを覚えたことはないだろうか。
1、「1日5分、スマホを見るだけでTOEIC 800点突破のロードマップ」
2、「文法は一切不要!学校でやった勉強法を今すぐ捨てるべき理由」
3、「注意!間違った単語学習で時間を無駄にしている人の特徴」
私は上のような文句に一貫する語学に対する姿勢を「ファスト語学」と呼びたい。ファスト語学とは、簡単に言えば「語学において、最小の労力で最大の学習効果を志向する姿勢」である。タイパ思考を徹底し(1日5分でTOEIC 800点)、従来の方法を無駄だと切り捨て(文法は不要)、「正しいやり方」が存在するとのたまう(間違った単語学習)スタンスである。
一見合理的だが、この発想を突き詰めると「もう全部AIでよくないか?」という気持ちにもなってくる。「いくら効率的な学習を追求しようが、なるべくコストをかけないで成果を得るのが目的ならAIに全部投げておけばよくない? そもそも語学学習そのものが非効率な時代なのでは?」と思ってしまう。
AIを駆使した方が、自分で外国語を勉強するよりも効率がいい。だとしたら、私たちはなぜ今も外国語を学んでいるのだろうか。今回は語学学習にもつきまとう「効率のよい勉強法」の価値を問い直しながら、その先にあるものについて考えてみたい。
ひとまず、フレーズを順に分析してみよう。
1は、典型的にタイパ思考に訴えかける文句だ。1日5分という投資とTOEIC 800点という効果を明確に打ち出し、最短距離で語学力を伸ばせると謳う。なるべく時間はかけたくないけど、得られるリターンは最大化したいという心理に付け込んでいる。
2は簡単に言うと「不要」という言葉で、「そんな泥臭いやり方はしなくていい」という気にさせて本丸のメソッドを提示する型だ。人間は楽をしたがる生き物なので、文法などというつまらないものをスキップして外国語を習得できるならそうしたいという人に響く。
3も火力が高い。だれでも自分の学習法に不安はつきもので、思うように上達しないときなどは、だれしも間違っているのかもしれないという気持ちになるものだ。向こうはその心理を利用して、「あなたのやり方は間違っていますよ」と囁き、教材を売りつけようとするわけだが、この場合、例えば、真面目に単語に取り組んでいる人にとっては自分が実践していることを否定される形になりやすいので、モチベーションに悪い影響が出てしまう。
ある程度真面目に語学に取り組んでいる人ほど、こういったファスト語学に違和感を覚えるのではないか。違和感というより、どことなく「こんなのはマーケティングでしかない」という気持ちを持つと思う。だが、宣伝文句のような効用は「有り得ない」と分かっているのに、どうしてこんな詐欺まがいの学習法が世間で幅を利かせているのかという気持ちになる。しかし、そう感じるのはあなたが熟達した学習者だからだ。私自身、この種の「ファスト語学学習法」に一度も飛びつかなかったとは言えない。思うに、昨日今日語学を始めた人なら、上のようなファスト学習法に飛びついてしまうと思う。これは責められない。私だってそうだったし、誰もが通る道だ。
このようなファスト語学に対して、どことなく嫌な気持ちになるのは、自分が築き上げてきた語学学習が否定されたような気持ちになるからだ。例えば、10年くらいかけて外国語をモノにした人は、「6カ月でペラペラ」という文言が自分の経験から言って嘘八百だと分かっていても、どうしても「自分がかけた10年間」の意味が揺らいでしまう。そして若干の劣等感を刺激されつつも「そんなの有り得ない」と反発したくなる。しかし、そういう記事に反応した時点で発信側の思う壺だ。アテンション・エコノミーでは、共感だろうが、反発だろうが、エンゲージメントを上げられれば、そのコンテンツは収益を上げられる。つまり、意図的にこちらを反発させているだけで、実際にどうかはあまり気にしていない可能性がある。
「この方法を30日続けて英語がペラペラになった」
「3か月でTOEIC 900点を取った」
いくら信じられないと思っても、こうした体験談は、語学を始めたばかりの人に希望を与える。読書で言えば自己啓発本のようなもので、「自分にもできるかもしれない」と思わせる力がある。だが、そのようなコンテンツに触れ続けていると期待値がバグり、やがてそれは失望に変わる。こうした文句を鵜呑みにした人が「あの人は30日で話せるようになったのに、自分は1年やっても大して話せない。なんで? 私が悪いの?」などという焦りを抱いてしまいがちだ。
本来、語学には相応の時間と労力が必要である。しかし「外国語は〇日で習得できる」という物語の方が注目を集めやすい。そのためSNSでは、現実的な学習論よりも、劇的な成功談の方が拡散されやすい。これはこれで興味深い現象で、SNSでバズる語学系のコンテンツはファスト語学と親和性があるのだが、今回は脇道にそれるので、別の記事でまとめることにする。
2、ファスト語学を突き詰めるとAIに負ける
考えれば考えるほど、ファスト語学的な価値観には行き止まりがあるように思える。冒頭で述べたように、この発想を突き詰めると、「もう全部AIでよくないか」という結論に行き着いてしまうからだ。海外旅行で意思疎通するだけなら翻訳アプリで事足りる。よって英会話教室に通うよりアプリを使った方が「効率がいい」。30日かけて本当に英語がペラペラになったところで、話したい日本語をAIに投げれば、よどみない英語で瞬時に翻訳してくれる。ならばこの30日すら「非効率」ということになり、数分程度を費やしてAIの使い方を覚えるだけで済んでしまう。
もし語学学習の価値が「成果を上げる」ことだけにあるのなら、AIは多くの場面で学習者を上回ってしまう。テクノロジーの発展によって語学学習をする意味は失われてしまったのだろうか。
それでも人は語学をする。AIで代用できると分かっていても、自分の力で外国語を使えるようになりたいと思う。できなかったことができるようになる。その上達の実感には確かに価値があるし、たとえ非効率であっても、その感覚はAIによって代替されるものでもない。
「成果」と「上達」は同じではない。「成果」は履歴書やプロフィール欄に書けるものだ。資格試験の点数や取得した級は「成果」だが、それらは「上達」を測るための指標に過ぎない。TOEICで900点を取ったという成果よりも、その900点を取る過程で得た知識や視野の広がりの方が、遥かに大事なはずだ。これは学校のテストで「点さえ取れればいい」と考えるのに少し似ている。高得点を取ることはもちろん大事だ。しかし、本来テストの点数は理解度を測るための指標に過ぎない。点数だけが目的になった瞬間、理解そのものへの関心は薄れてしまう。語学における成果と上達の関係もそれに近い。
ファスト語学は上達そのものを否定しているわけではない。問題なのは、上達を成果へと雑に還元してしまうことにある。そこでは「何ができるようになったか」よりも、「どのくらいのスピードで結果を出したか」が重視される。成果とは、数字で提示できるものであり、客観的な指標である。分かりやすいし、一定の説得力を持つ。しかし、本来の語学の実力は資格試験では測れない。これは真面目な学習者なら誰でも思い当たる点だろう。抽象的な「語学力」がテスト等によって数値化されるとき、間違いなくそこからこぼれ落ちる要素がある。ファスト語学は、そのこぼれ落ちた部分を切り捨て、数値化できる部分だけで語学を語ろうとする。だから学習者は違和感を覚えるし、数値目標を達成したところでAIには太刀打ちできなくないか、と虚しくなる。最短ルートを示すメソッドは、しばしばそこから外れたものを「不要なもの」として扱う。だが、語学を長く続けている人ほど、その「不要なもの」のなかにこそ語学の醍醐味を見出している。文法や語源、文化や歴史への関心は、場合によっては試験の点数には直結しないかもしれない。しかし、それらは本当に不要なのだろうか。ここには本好きが「読書はタイパが悪い」と言われたときにグサッとくるのと同じ構造がある。効率だけを基準にすれば、その主張は間違っていないのかもしれない。だが、その尺度では測れない価値があると知っている人ほど、その言葉に反発を覚えるのである。そして、その価値を(具体的な数値のような)誰にでも分かる客観的な指標で示せないからこそ、余計にモヤモヤしてしまう。
3、上達の先にあるもの
成果を最重要視するファスト語学を突き詰めるとAIとの効率競争に敗れてしまう。だから、語学を通して得た成果ではなく、上達の方にフォーカスすべきだという話をしてきた。しかし、ここでさらに一歩踏み込んで考えてみると、その上達は何のためにあるのだろうか、という問いが出てくる。「できないことができるようになる」瞬間のために語学をしている、それ自体は理解できるし、今の時代でも通用する理由になると思う。しかし、その先には何があるのだろうか。従来なら自分の成長を実感できる上に、それを様々な形で生かせるという二段になった価値があったのだが、AIという上位互換によって後者の価値は揺らいでいる。結局、上達して得られるものは「上達した」という快感だけなのだろうか。
「上達」という分かりやすい価値をいったんカッコに入れて考えたとき、私が思い浮かべる語学の価値は「発見」である。「発見」と書くと語弊があるかもしれない。英語の discover に近い。新しいものを発見するのではなく、もともとそこにあったものに出会うという意味だ。語学を学ぶと世界が広がる、という言い方はよくされる。しかし私は、それを単なる視野の拡大という陳腐な効用に留めたくない。むしろ、それはその言語を学ばなければ一生出会うことのなかったものに出会うことにある。それらは翻訳やAIによって部分的に代替できても、自分の興味に導かれて未知の世界へ迷い込む経験そのものは代えられない。その意味で語学は発見のための道具なのだ。
例えば私はドストエフスキーがきっかけでロシア語を始めた。そんななかで『ドストエフスキーと愛に生きる』(原題:Die Frau mit den 5 Elefanten)という映画を見る機会があった。これはドストエフスキーの五大長編をドイツ語に翻訳したスヴェトラーナ・ガイヤーを追ったドキュメンタリー映画で、ナチス占領下のウクライナで戦時を生き抜いた一人の女性の人生と翻訳という営みについて描いている。
この動画の最後の言葉は、とても印象的だ。
人はなぜ翻訳をする? 逃れ去っていくものへの憧れかもしれない
この謎めいた言葉は私の心に沁みた。ここの部分が原語で何て言っているのかを知りたくて、後年になってドイツ語を学ぶようになったときは、ディクテーションにひたすら励んだこともあった。(今回改めて聞き直したけど、相変わらず正確に書き起こせない。”Das ist ihre Sehnsucht nach etwas, das sich immer wieder entzieht” のように聞こえる)それでも、分からなくてもいいのかもしれないとすら思う。このフレーズが与えてくれた印象が、語学をする目的のヒントとして私のなかでひっかかっている。これは少しメタな例だが、映画を通してこの一文に触れたことで語学をする意味を「発見」する糸口になったと私は認識している。
あるいは、2003年にリリースされたLuka という歌手の Tô nem Aí というブラジリアン・ポップスがある。直訳すると「私はそっちにいない」だが、慣用的には「全然気にしない」「知ったこっちゃない」という意味で、失恋を力強く乗り越える前向きな女性の気持ちを歌っている。私がこの曲を知ったのは、ポルトガル語の学習として視聴していた「15歳、アゲイン!」というドラマで使用されていたからだ。ドラマの文脈では2000年代の「懐かしの曲」として扱われており、音楽に封じ込まれた時代の空気を味わう曲として、私のプレイリストに加わっている。
この曲は私がポルトガル語に触れていなかったら、知らないままだっただろうし、私の人生には決して出現しなかったとも言える。ポルトガル語によってこのブラジリアン・ポップスを「発見」したわけだ。
最近で言うと、フランスのインディーゲーム、 Aëdemphiaもいい例だ。このゲームは、たった一人のクリエイターが昔のゲーム制作ソフトで20年以上かけて作り続けているという、この説明だけでは「ちょっと意味が分からない」フリーゲームだ。グラフィックや音楽もほとんどすべて自作というこだわり、早くても45時間はかかるシナリオ、数百に及ぶサブクエスト、綿密に練り上げられた世界観と、「イカれてやがる」としかいいようのない超大作で、その作り込みにプレイするこっちが圧倒される。当然、今の時代では当たり前にある親切な言語設定などあるはずもなく、全編フランス語でプレイすることになるので、単純にフランス語学習として適しているのだが、「こんなものが出てくるフランスのクリエイター文化っていったいなんなんだ」という気持ちになってくる。その膨大なデータ量とフリーゲームという商業的な展開が望めない制作事情から、いまだに英語にすら翻訳されていない。フランスのフリーゲーム界隈では紛れもない神ゲーとしての扱いを受けているに違いないのだが、言葉の壁のせいでフランスのネット社会に埋もれているわけだ。もし、私がフランス語を学習することがなかったら、フランスの土壌が生んだこんなどんでもないゲームを体験することはなかった。これもまた語学学習が「発見」したもののひとつである。
4、語学の旅は終わらない
もっとも、私は最初から「発見」を目的に語学をしていたわけではない。語学を始める理由はたいていもっと素朴なものだ。読めるようになりたい、話せるようになりたい、その意味では、私も上達を求めて語学を続けてきた。しかし振り返ってみると、本当に印象に残っているのは「上達した瞬間」よりも、その過程で偶然出会ったものの方だった。ロシア語を始めたときに、翻訳家を題材にしたドキュメンタリー映画に感銘を受けるとは思ってなかったし、ポルトガル語を始めたときに、2000年代のブラジル音楽を狂ったように聴くようになるとは思わなかったし、フランス語を始めたときに、電子版のサグラダ・ファミリアみたいなゲームに圧倒されるとは、考えてもみなかった。結果的に言えば、これらの出会いのために語学をしていると言えそうだが、厳密には違う。始めたときには予測すらつかなかったものに出会えるからこそ、語学をしていると言えるかもしれない。
ファスト語学が問題なのは「上達を目指すこと」ではなく、「上達を数値化された成果に還元してしまうこと」である。この尺度だけで捉えると、AI時代おける語学をやる意味はほとんど消滅する。生成AIの登場は、効率一辺倒に傾きがちだった語学の大義名分を問い直しているとも言える。「効率」という観点から考えたとき、数値化されないものは無駄として切り捨てられる。しかし、私が感じる「発見」という語学を通して得る意味は、まさしくこの切り捨てられたところに由来している。語学学習を通して何を発見するのかは、最初は分からない。つまり予測不可能なのだ。そしてファスト語学は予測可能なものしか指標として取り入れない。何かを得られることが最初から保証されているものだけを価値として認める。しかし、私が語学を通して得てきたものの多くは、最初から予測できるものではなかった。「読書がタイパ悪い」の記事で、読書はタイパというものさしが当たらないと主張したように、語学もまた、効率という基準では測れないところがあり、私はむしろそのような部分にどうしようもなく惹かれてしまうからこそ、語学を続けているのだと思う。
語学を続けていて、よく自分に問いかける疑問がある。
いつになったら自分が満足できるレベルに到達するのだろう?
だが今は、この問い自体が少し違うように思う。
外国語を学ぶ意味の一つが発見にあるなら、目的地は未来のどこかにあるのではない。知らない言葉に出会ったとき、知らない作品を味わったとき、知らない文化に触れたとき… そのたびごとに、私はもうすでにそこにたどり着いているのだ。
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