一行詩と自由律俳句、何が違う?③|自由律俳句には何が要る?
前回の「自由律俳句と詩の表現方法は、違うのか」は、こちら。
この記事は「※近代詩人から学ぶ」の、番外編である。
(※近代~昭和初期にかけて活動した文士の作品から、 “詩のどこが良いのか” “どう書けば詩なのか” を探していくシリーズ。
いずれも青空文庫で読めるものを取り扱っている)
前々回から数回に分けて、詩を書く側の人間として、詩と自由律俳句の違いを考えている。
前回は、以下のような思いを残して終わった。
一行詩は自由律俳句とも呼べるのだろうか。
それとも明確に区別できる何かがあるのだろうか。
どうも「誰かが俳句と言ったら俳句」「誰かが詩と言ったら詩」ということに納得がいかない。
判断基準が無いならば、フィーリング以外の面(句の流れ、句切れなどの手法の面)でどのように鑑賞するのだろう。
と。
そこで、ひとつ思ったことがある。
そもそも「俳」とは何なのか?
「俳」の字の意味
俳という字は、
・役者
・たわむれ、お道化
・うたう、うそぶく
などの意味を持つそうだ。
さらに
「俳諧」・・・「滑稽、おかしみ」
「俳諧の連歌」・・・「身近で普遍的な題材の連歌」
とあり、
俳句は、俳諧の連歌のうち、最初の五七五(発句)しかない形のものだそうだ。
ユーモアが鍵?
つまり連歌であろうと、発句のみであろうと、「普遍的な題材を、ユーモアを交えて描く」ものが俳句だそうだ。
全部が全部そうではない(しみじみした句もあるだろう、など)という話をすると、個人の感じ方の話になってきてキリが無いので、一旦置いておく
自由律俳句は、季語もリズムも俳人に委ねるという形だが、「俳」という字がつく以上、「普遍的な題材を、ユーモアを交えて描く」という要素は必須になるだろう。
つまり前回の答えは…
神様 あなたに会いたくなった
もし詩か自由律俳句か明らかでない場合、どのように、どちらだと考えるべきか。
この詩の場合は、滑稽に描かれていない。
八木重吉氏について少しでも知る身として、敬虔な信徒が信仰対象に呼びかける形式は、たわむれに書くには感情が重すぎると感じた。
そして、前回の記事で俳句の象徴性について触れたが、「神様」は何かの代替ではなく、彼の信仰する主であるので、象徴詩的なものとも違うと考えられる。
さて、「神様」自体は、言葉としては珍しくないと思う。
しかし今度は逆に、八木重吉氏のことを全く知らないつもりになってみる。
そうして、この一行のみで生活や日常を感じるかと考えると、首を縦に振りづらい。
従って、これは自由律俳句ではない、と思うことができた。
もし、「神様に会いたくなった夕暮れ」などと書かれていたら、もしかしたら自由律俳句とも受け取れたかも知れない。
次回は、以下のフェーズに入る。
実際に句を作ってみる
誰にも見せないせいで、誰も判定できないが、私の最近の個人作品を一行にしたら、きっと自由律俳句に近いのではないかと思う。
詩に対して個人的に改心してからというもの、私の詩は、生活から生まれることが増えたからだ。
しかし、自由律俳句とは定型の俳句があってこその存在。
定型から自由になろう、という心があってこそなのだそうだ。
なので、
➀定型で俳句を作る
➁できた句を、自由律で改めて作る
という形で作っていこうと思う。
どれだけ自由なのか、身を以て感じてみたい。

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