「科学的である」とは、「科学っぽい」ことではない(科学と科学的について)
あるところで、「科学的に再現性がある」という表現を見かけた。これは口語であれば「頭痛が痛い」と同じことであるので大した問題ではないが、やはり厳密には注意が必要なのではないか、と思うところがあった。そもそも「科学的である」ということに「再現性がある」が基本的に含まれているので、「科学的に再現性がある」と言うと、まるで「科学的再現性」という、特殊な再現性があるかのように誤解されるおそれがあるからである。
そもそも「再現性」とは、特定の条件が一致していれば、いつ誰が何度行なっても同じ結果が得られる、というような意味である。これは自分磨き(いわゆる自己啓発や体作り、あらゆる学習など)の方法論についても使われることがあるが、「再現性がない方法である」と言えば、「そのやり方は誰がやっても同じになるとは限らない」という意味である。つまり、「その人の場合にはそうであった」だけかもしれないので、他の人や場合にとって参考になるかは、相応に検討する余地があることになる。
他方、だからこそ「この方法は科学的です」と言えば、むしろセールスポイントにもなるわけだが、しかし一般的に「科学的です」と言われている際は、単にある科学的事実を、それもごく表面的に参照しているだけであることも多いので、そこで「科学的」とはむしろ、「科学っぽい」の意味だと言ったほうが明らかに適切ではないか、と思うこともある。要するに主観的であって再現性もないのであり、つまりそれこそ「科学的な態度」とは正反対だと言えるのである(ただしこれは実態としては「言えば効く」ようなものでもあるので、そこはマーケティング倫理の問題だと言えるだろう)。
あるいは、一般的に言う「科学的」はまた、「ある科学者がそう言っている」というだけの場合もある。しかし、たとえ専門の科学者であっても、それがその社会や時代において「科学的」とみなされるかどうかは、基本的には、相応に公表した上で他の専門家に同意されるかによっているので(だからこそ逆に突出しすぎた業績であればあるほど理解されるのは遅れるのであり、本人が生きている間は「科学的」だとはされなかったりもするわけだが)、いずれにしてもただちに「科学的」と言えるかというのは、かなり慎重な判断が必要だと言える。専門家の発言をきちんと理解できていたとしてもなお、専門家の間でも意見が分かれることなどいくらでもあるからである。特に社会的に関心が深い問題、つまり何らかの直近の問題への対応に関わっていたり、未来に関する予測が含まれる場合はなおさらそう言えるだろう。
コロナ禍下では特にそうだったと言えるが、近年、「フェイクニュース」や「ポストトゥルース」などとともに、「科学的であるかどうか」ということは、頻繁に話題になっているわりには、「そもそも科学的とは何か」ということは、あまりにも話題にされていないのではないかと思う。たとえ科学的かどうかを気にしていても、各自が言う「科学的とは何か」の理解が食い違っているのであれば、全く意味がないのであって、その意味ではこの言葉はむしろ、諸々の誤解を蔓延させるひとつの元凶だとすら言えるのではないか。
ここから少々、トーンを変えて解説的に書いてみたいが、そもそも「科学的とは何か」以前に、「科学とは何か」という問題がある。まずこれについてみてみたい。
「科学とは何か」というのは、「科学哲学」という分野があるように、どちらかと言えば科学者ではなく哲学者がより深く考えていることである。そして、その主要な業績のひとつに「反証可能性」という基準の発見がある。もちろんこれもひとつの見方にすぎないが、すなわち「反証可能性がある」ことが「科学的である」ことの条件だという考え方である。「反証可能性」とは、まさに「反証が可能である」という意味だが、要は、「間違っているものとして否定される可能性があるものしか科学的だとは言えない」ということである。これは一般的な、「科学的とは、間違いがないと証明されているということである」という感覚とは、ある意味で正反対のものだとも言える。
たとえば、「死後の世界はある」という主張をみてみると、これはそもそも「死後の世界」(あるとすれば)を観察するということが、少なくとも今のところ生きている人にはできないとされている以上、「反証」もできないし、またそう言っている側が「証明」もできない。すなわち研究する方法がない、あるいは主張が議論可能な形をしていないということだが、それゆえにこれは「科学的な主張」にはなりえない、ということである。あるいはそこで「死後の世界の人と通信できます」と言ったとしても、それはそれでやはり「本当にそうなのか」を第三者に証明する必要があるのであり、言いかえれば、間違っていると言えないからと言って、それをもって正しいと言えるわけではない、ということである。
逆に言えば、「それについて研究する方法が相応に共有されている」ならば、何についてであれ科学的研究が少なくとも「行える」のであり(だからこそしばしば「科学的かどうかは対象ではなく方法による」とされるわけだが)、また、それでこそ「今のところは科学的に反証することができない」ことは、「(今のところ)科学的な見解」と呼ばれるわけである。一般的には、こうした判断をすっ飛ばして、すなわち「今のところは科学的な方法に従えばこうではないかと考えられる」を、容易に「科学的に正しい(絶対に間違いがない)」に変換してしまうために、大いに問題となるのだと言えるだろう。
あるいはもうひとつ科学哲学で特に有名なものとして、上記のように、そのようにしてある分野で研究を進めていく上で準拠するところのものである、その時々で広く共有されている基本的な視点と方法論のワンセットが、有名な「パラダイム」と呼ばれているものである。これは「枠組み」と同じ意味で一般的にはものすごく気軽に使われている言葉でもあるが、本当はこれくらい「複雑かつ便利」な言葉である。たとえば「天動説」が支配的なところでは誰もが他の物事についても「天動説的に」説明するが、これが「地動説」に切り替わると、むしろ誰もが全てを地動説と整合性をつけるべく説明する、ということである。
もう少し言えば、その時々で、あるパラダイムに則って行われる研究が「通常科学」であり、その「通常科学」で説明できない現象すなわち「例外」が発見された上で、それさえも説明可能なより強力なパラダイムが現れることが「科学革命」であるが、すなわち「科学」とは、噛み砕いて言えば、みんなで通常科学を行いながら、誰かが革命的科学を行い、そうしてパラダイムがシフトすれば、そのパラダイムをもとにまた別種の通常科学が開始される、ということの繰り返しだということである。これは確かに、誰もが成功モデルを模倣するという意味では、経済において定期的に「イノベーション——凡庸化——イノベーション」が、「起きねばならない」こととも似ているとは言える。
「科学とは」を続けると、その上で、この「みんなで」を担保するために、「数学」というある種の言語が事実上、必要不可欠となっているのだと言えるだろう。要するに、ここで言う「みんな」の範囲をできる限り広くするには(地域だけでなく時代も超えて)、特定の自然言語でではなく、なるべく誤解を生まない形、すなわち普遍性の高い、曖昧さを極力なくした記述方法がよいということである。そしてまた一部では、だからこそ数学と科学の発展は、ある意味で歩調を合わせているところもあるのだと言えるだろう。
ここで「一部では」と言うのは、もちろん科学とは無関係に発展する数学もあれば(というよりもちろんそれこそが本来の数学であるが)、逆に数学とはむしろほとんど無関係に発展する「科学」もあるということだが、後者については、「社会科学は自然科学か」といった形で、「科学的とは何か」の核心にも関わる部分であると言える。すなわち、「社会科学」(政治学、経済学、社会学など)を「科学」とみなすのかどうか、というのは専門的にも論争があるわけだが、もっとも、これについては以下のように、ある種の「階層性」という視点を持ち込むことで、綺麗に説明可能ではある。
これについては、そもそも当初の「科学」は専ら今で言う「物理学」だったということに注目するとわかりやすいと言える。すなわち、「なぜたくさんの学問ができたのか」を問えるわけだが、そこでたとえば、「細胞の働き」「人々の投票行動」などを研究するということを考えてみる。そうすると、まず「細胞」は、物理学が扱う「原子」や「素粒子」(これらもまた非常にスケールの差があるが)のレベルからみれば桁違いに大きい存在であり、あるいは「人間」、さらには「人間同士の関係(社会)」ともなると、スケールはますます桁違いに大きいということ、そしてそれがまさに問題であることがわかるが、要するに、そこで「原子」や「素粒子」に注目しても何の意味もないということであり、だからこそ「別の視点の高さ」での研究を行うべく、物理学よりも高い視点をとる「化学」、さらに高い「生物学」、さらに高い「心理学」や「政治学」や「社会学」などが、それぞれ発生せざるをえなかった、という見方ができるということである。
これで言えば、ある意味では「科学」という営みについての理解とその範囲そのものが、それはそれで拡張し続けていることがわかる。その上で、学問分野の違いとは、「扱う対象の違い」というよりも、「視点の高さの違い」「何を最小単位とするかの違い」だと言ったほうがあるいはわかりやすいということである。そしてそれをふまえて言えば、ちょうど「どれほど数学で記述できるか」や、「どれほど実験が可能であるか(再現性が確かめられるか)」に対応するような形で、「科学度」というものが定義できる、とも言える。すなわち先の例で言えば、数学的記述と再現性を最も担保できるという意味で「物理学は科学度が高い」のであり、逆に「社会学」などは相応に「科学度が低い」ということになる(もちろんこれは優劣の話ではない。ただしまさにここから優劣があると誤解されがちなのだとも言えるが)。これで言えば、いわゆる「自然科学」と「社会科学」についても、確固たる境界があるわけではなく、程度問題なのだと理解できるのである。
「科学とは何か」の最後に言えば、もっとも、伝統的には、上で言う「科学度が高いもの」ほど「科学的」だとされていた一方で、今日では、少し事情は違っているとも言える。なぜなら、最も科学度が高い「物理学」においてさえ、今日の主要な研究範囲では、すでに「再現性」を担保できなくなっているからである。その典型は「超ひも理論」だが、すなわち間接的にさえ見ることも触ることもできない対象(ひも)については「実験」等は当然、不可能であるので、その意味では「確かめる」ことはできず、そこではむしろ、「理論的整合性」こそが致命的に重要となっているのである(もちろん理論であればなんでもよいわけではなく、科学の文脈上にある必要があるが)。その意味では、「科学」と「数学」の境界もだんだんなくなっている、とも言えるのかもしれないが、いずれにしても、「科学」の意味は、時代によって明らかに変わるという点も重要だと言える。
さて、以上をふまえて「科学的とは何か」に戻ると、要するに、厳密に言えばおよそ、「専門的に言って科学的であるとみなされる範囲内のことが科学的である」というようにもたとえば言えるが、もっとも、一般的にはほとんどこれは共有されていないのであるし、おそらくそれが広く共有されるかどうかは、社会一般という意味では本質的なことではないだろう(誰もが科学者や哲学者になるわけにはいかないのだから)。むしろ、一般的に「科学的」と言われている場合の「科学的」の意味がやはり、「あまりにも多様である」という点をあくまでも理解しておくことが重要ではないかと思われる。
実際に一般的には、「専門家の間で広く共有されている見解」も「科学的」と言われていれば、冒頭でみたように「ある科学者がこう言っている」とか、あるいは「ある科学論文に書いてある」だけでもそう呼ばれているところがあり、何となれば「ある記事に科学的だと書いてあった」だけのことまでそうである実態がある。だからこそ最も穏当な理解は、「『科学的である』という言葉は、それだけでは意味がない」ということになると言えるが、要するにそれは、「論理的である」とか「客観的である」と同じく、基本的には「その場でその人がそう判断している」ことを表すにすぎないということである。
以上をふまえてまとめると、「科学的とはどういうことか」についてはまず、実践レベルで誰でもすぐに用いることができる「わかりやすい基準」はないということであり、また、だからこそ「科学的」という言葉には「常に」注意が必要なのだと言える。その上で付け加えるならば、すなわちできる限りハードに「科学的」でありたければ、自分自身でできる限りの知見を得つつ、多数の専門家による「専門家の立場からの発言」を参照して、その場に応じて適切なものを「科学的である」と呼ぶのがよいということなのだと言える。
ちなみに簡単のため、本文では極力固有名詞を入れなかったが、「反証可能性」についてはカール・ポパー氏、「パラダイム」についてはトマス・クーン氏の著書がそれぞれ原典である。また階層性の話については、認知科学者(言語学者)のノーム・チョムスキー氏が各所で方法論の解説としてよく述べられていることに基づいている。あるいは科学哲学という意味では、今日的には基本的と言える範囲として他に、W.V.O.クワイン氏の「ホーリズム」や、あるいはラディカルなものとしてはポール・ファイヤアーベント氏の「認識論的アナーキズム」なども概要をおさえておくとよいと思われる。
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