今まで信じてきた"良い評価フィードバック"は間違いだったのではないか
率直に言う。僕がこれまでしてきた評価フィードバックは、もしかしたらクソだったのかもしれない。
期末に行う評価フィードバックを、期中のこまかなフィードバックの集大成であると同時に評価の説明責任を果たす場として捉え、「構造化フィードバック」と名前まで付けてせっせと取り組んできたが、実は単なる独りよがりで相手の成長にはなんの役にも立ってなかったのかもしれない。
EMとしては十分なフィードバックだったはずじゃないか
改めて、僕が思い描いていた構造化フィードバックとは
現在の期待値
期待値に対する達成度
次の期待値
次の期待値を超えるためのあなたの強みと活かし方(または活かす機会)
を伝えることで、受け手が「なぜこのような評価になったのか」「次の期はどう過ごせば良いのか」を適切に理解できることを目指すものだ。
加えて、受け手の視座や抽象度を1段あげた視点で期待設定や活かし方を伝えることで創意工夫の余白を残し(指示的になりすぎることを避け)、マネージャーも想像し得ない大きな成果・成長が生まれることを期待するものだ。
この型は評価フィードバックの重要な2つの役割である「評価の説明責任」と「成長支援」を十分に果たしていると考えていた。
型を持っていることに加えて、EMは被評価者より情報を持っている。経験値的に評価制度に詳しいし、評価事例やキャリアパターンをより多く見てきている。
だからフィードバックを通じて、相手が「評価」や「期待役割」について、可能な限りマネージャーである自分に近い解像感を持てるようにすべきだ。それを追求すれば、十分に良い評価フィードバックになるはずだと信じていた。
きっとEMのみんなもこんな感じでフィードバックに臨んでいる。僕だって同じ土俵に乗れている。良いフィードバックのための努力も十分にしている。ほんの数週間前まで、そう思っていた。
それはおこがましくない?
しかしある日、自分の中から声が聞こえた。
「マネージャーである自分の解像感に近づけるっておこがましくない?」と。
それ以来、急に自分のフィードバックが信じられなくなってしまった。
相手の変化や成長を心底願いながらフィードバックをしているはずだけど、なんだか独りよがりな感じがしてならない。自分にとって良いと感じられるフィードバックと照らし合わせたりもしたけど、それも経験バイアスでしかないのかもしれない。一度疑い出すと、もう止まらない。
改めて、「人が一歩踏み出せるフィードバック」とはどんなものか
ここで少し理論に立ち返ってみよう。
一般的に、人が継続的に良い変化をし続けるには、「こうありたい」というポジティブな感情を高めることが有効とされている。学習意欲や創造性が引き出されるからだ。
これは組織行動論、コーチング心理学などの領域で一定の信頼を得ている意図的変革理論の考え方だ。
この理論の中核には、変化を持続させるためには、それが外から押しつけられたものではなく、自分の内側にモチベーションがあることが重要だという考え方がある。専門用語で言えば、頭と心が「ポジティブな感情を誘引する因子(Positive Emotional Attractor=PEA)」にしっかり結びついている状態が重要だということだ。
支援者がPEAを引き寄せるためのコーチのふるまいについては『成長を支援するということ』によく書かれている。
誰かを支援するには、物事はこうあるべきだという自分のビジョンではなく、支援したい相手に焦点を合わせ、相手を理解しなければならない。
コーチや支援者は、経験も知識も豊富なはずだ。しかし、人がよりよい人生を送るため、生産性をあげるため、より多くを学ぶためには何をすべきか、自分には分かっていると考える──いや、たいていは思い込む──ところに間違いが生じる。
コーチや支援者は往々にして、対象者はこうすべきだという自分の考えで頭がいっぱいで、つい誘導型のコーチングへと動いてしまう。
たとえば善意からでた行動でも、こうした試みはたいてい失敗に終わる。相手の義務感や防衛的な態度、つまり「他者が規定した自分」を引き出してしまうからだ。
あなたはコーチとして、手助けしようとしている相手が何を考えているかわかるまでアドバイスを控えることができるだろうか?
致命傷を通り越してオーバーキルだ。
……だが泣いている場合ではない。胸の痛みをぐっとこらえて僕がしてきたフィードバックを振り返ってみよう。
まさに僕は、僕が規定した相手の歩み方をアドバイスしていたのではないか。考える余白を残していたつもりではあるものの、相手が成長するためにはこうしたらいいのではないかという「自分の考えで頭がいっぱい」であり、次の期待役割に挑むために「何をすべきか自分には分かっていると考える、いや思い込む」典型的パターンだったのではないか。
このショックは、今まで信じてきたフィードバックのあり方を根底から見つめ直せという自分自身へのメッセージであるはずだ。
コーチじゃない僕は、どう受け取るか
「そうは言ってもEMはコーチじゃないんだから、コーチング手法に100%従う必要はない」だとか、反論しようと思えばきっといろいろ出てくる。なので追求すべきは正しさではない。
少なくとも人の成長を支援する上でこのような重要な観点があるという事実と、僕のやってきたフィードバックにはその観点が抜け落ちていたという事実、この2つに向きあわねばなるまい。
今回の件から僕が得るべき教訓は、構造化フィードバックにはPEAが足りなかったということだ。
「相手の目線の理解」が足りなかった。「こうあるべき」という思い込みも手放せていなかった。PEAに繋がる要素が明らかに足りなかったのだ。
ここまではきっと間違いない。
さらに一歩踏み込んで具体的な改善箇所を探すなら、フィードバックとして伝える内容ではなく、その伝え方にある気がする。
評価の説明責任を果たすために型に沿った情報が要ることは変わらない。変えるべきは、それをEMが一方的に埋めて一度の場で一気にぶつける、という渡し方のほうだ。もっと対話的に、少しずつ段階的に型を埋める情報収集を相手とともにできれば、構造化フィードバックを通してPEAを生み出せるかもしれない。
そんな具合に、今より少しでも良いフィードバックのやり方を、何かしら用意したい。もう泣きたくないから。
* * *
ただ、頭の片隅では分かっている。それでもまだ何かが足りないのだと。
そもそも評価の説明責任と成長支援を、期末評価の場で両立させること自体が無理なんじゃないか。EMはどこまでコーチを兼ねられるのか、そもそも兼ねるべきなのか……。
考えるべきことはまだまだ残っているからだ。
でもここから先はまた今度。考えの途中でも吐き出す癖をつけないといけないからね。
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