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長生きは、本当に幸せなのか。

「長生きでいいですね」

そう言いながら、私はずっと迷っていました。
その言葉が、本当に正しいのかどうか。

口にするたび、胸の奥に小さな違和感が残るのです。


知人から、

「98歳の母を介護しています」

そう聞いたとき、あなたなら何と答えますか。

私は、いつも少し迷います。
その人が、その現実をどう受け止めているのか、まだわからないからです。

だから、とりあえずこう答えます。

「長生きでいいですね」

関係性が浅い相手なら、

「そうですね」

それで会話は終わります。

でも、少し話し込むと、別の現実が見えてくることがあります。

「施設代が大変で」
「認知が進んで、排泄も自立できなくなってきて」

その言葉の奥に、

“長生きって、本当にいいことなの?”

そんな思いが滲んでいるのを感じることがあります。


長生きは善。
どこかで、それが当たり前のように語られる世の中です。

でも、本当にそうなのでしょうか。


ある方のお母様の話です。

98歳。
95歳で手術をし、今は人工肛門。認知症もあり、余命3か月と告げられているそうです。

それでも毎週、家族で回転寿司に行き、孫と笑っている。

正直に言えば、最初に浮かんだのは、

「もう、その年齢なら手術しなくても…」

という言葉でした。

95歳で手術。人工肛門。認知症。
医療的には、しんどい状態が続いているように見えます。

でも、ご本人も、娘さんも、お孫さんも笑っていたそうです。

「体調が良くなってよかった」と。

手術は、ご本人の意識が朦朧としていたため、娘さんと医師が相談して決めたそうです。

その話を聞いたとき、

「ここまでして生きる意味ってあるのか」

そう思っていた自分の前提が、音を立てて崩れました。

“どこまで治療するのが幸せか”

その問い方自体が、ずれていたのかもしれないと。


でも一方で、まったく違う声も聞きます。

「もう私自身介護することがしんどい。早く逝ってほしい」
「そして、私を楽にしてほしい」

その言葉を聞いても、私は責める気にはなれません。

「親なのにひどい」

そんな簡単な話ではないからです。

“早く逝ってほしい”なんて、好きで口にする人はいない。
それでも言ってしまうのは、それだけ追い詰められているということだと思うのです。


同じ“長生き”なのに、なぜここまで受け止め方が違うのか。

それは、私自身の問いでもあります。

私は義母の介護をしています。

・入院の対応。
・施設探し。
・契約。
・お金の管理。
・病院から施設への移動。

施設に入ったら終わりではなく、今度は面会があります。

こういう実務の重さは、経験した人にしかわからないと感じます。

その一方で、本人は施設への不満を口にする。
親戚は手も出さず、お金も出さず、でも口は出す。

正直、うんざりする日もありました。


私は長いあいだ、優しい人でいなければならないと思っていました。

高齢の親の面倒を見るのは子どもの務め。
そう思うのが当然なのだと。

でも現実の私は、そんなに立派ではありませんでした。

疲れる日もある。
行きたくない日もある。
感謝されたいと思う日もある。

きれいごとだけでは、介護は続きません。


長生きが幸せかどうかは、年齢だけでは決まりません。

これまでの関係性。
介護する側の負担。
助けを頼れる環境。
終わりの見えなさ。
そして、その人自身の人生観。

いろんなものが重なって、同じ“長生き”がまったく違う意味を持つのだと思います。


この問いに、正解はありません。

どちらも現実で、どちらも理解できます。

介護の現場は、きれいごとだけではできていません。
ぐちゃぐちゃに絡まった感情の中で、それでも何とか向き合っている人たちがいます。

私も、その一人です。


そして最近は、親の長生きを考えながら、同時に自分の老後も考えます。

私は、誰かに

「早く楽になってほしい」

そう思わせる高齢者にならないだろうか、と。


だから今も問い続けています。

介護は、誰のためにするのか。

親のためなのか。
自分のためなのか。
それとも、その両方なのか。

答えはまだありません。

でも、問い続けること自体に意味があるのかもしれない。

そう思いながら、今日も向き合っています。


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