見出し画像

第三話「濡れた手帳」


 梅雨の終わりの激しい豪雨が、言埜市の古い木造アパートの屋根を激しく叩いていた。

 だが、言埜署の本郷刑事が踏み込んだその和室の現場には、雨の匂いでも、カビの匂いでもない、もっと得体の知れない「生臭いインクの匂い」が立ち込めていた。

 現場の中央、不自然に喉を掻きむしって息絶えた死体の指先が、一冊の古い手帳を、まるで呪いのように指し示していた。

 雨に濡れて、ブクブクと醜く膨れ上がった一冊の古い手帳。

 本郷は、脳裏に渦巻くあの炭の夜の怒りと、あのオフィスの絶望の地層が、その手帳を見た瞬間に狂ったように共鳴し、一つの巨大な渦を巻くのを感じた。頭痛が本郷の視界を真っ白に染め上げる。

 きぃ、と古い畳が鳴り、懐中電灯の光の下で、手帳が勝手にぱらりと開いた。

 本郷は息を呑んだ。全身の血が逆流し、心臓が爆発しそうなほどの戦慄が走る。

「………嘘だろ………なんで、これが………」

 開かれたページの数々、百年前の言埜市で誰かが書き残したはずの、社会への、組織への、世界への呪詛がびっしりと並ぶその文字列。そこに踊る文字の「癖」、跳ね、払い、すべてが――本郷自身の筆跡と、寸分違わず完全に一致していた。

 俺は、これは俺が書いたものじゃない。俺は現代を生きる本郷だ。親に、組織に、この世界に見くびられ、使い潰されてきた。だが、これは――。手帳に書かれた百年前の男の呪いと、自分が昨日デスクで吐き出しそうになった怒りの言葉が、寸分のズレもなく完全にシンクロしている。

(俺は………百年前からこの街にいて、この死者たちを、自分を、呪い続けていたのか………?)

 本郷は自分の頭を両手で抱え、咆哮のような悲鳴をあげそうになった。正気の縫い目が、音を立てて解けていく。

「――耐えなさい、本郷」

 その瞬間、背後の夕闇から、あのさらりとした黒髪の女が音もなく踏み込んできた。

 女の冷徹な瞳が、本郷の完全に崩壊しかけた眼光を正面から見据える。彼女の手には、まだ何も書かれていない一枚の白いお札が握られていた。

「………お前、………なんで、俺の、名前を………」

 ガチガチと歯の根を鳴らしながら、本郷は血の混じった掠れた声で呟く。だが、女はその問いには答えない。ただ、狂気の深淵に引きずり込まれかける本郷の魂をこの現実に繋ぎ止めるように、その冷たく美しい声を、静かに響かせた。

「その手帳に書かれた、あなた自身の、そして百年前のあなたの呪いを――さあ、言葉にして」

 女の冷徹な声が、本郷の耳の奥を激しく貫く。

 本郷は、頭を抱えたまま、地を這うような低い笑い声を漏らし始めた。

「………クク、ハハハ………ッ」

 声が出ないのではない。叫ぶのでもない。それは、腹の底に溜まり続けたドロドロとした怨嗟が、本郷自身の口を借りて、呪詛の念仏のように溢れ出ている音だった。脳髄の地層がひっくり返り、手帳の文字が本郷の視界で生き物のように蠢く。不当評価への怒りも、道具にされた自嘲も、すべてを飲み込んで、ただ目の前の世界を丸ごと呪い尽くしたいという漆黒の憎悪が、本郷の魂を完全に塗り替えていた。

「………そうだ、許さねえ。俺を踏みにじった奴らも、使い捨てた組織も、それを見て見ぬふりした世界も………全部、全部引きずり下ろして、このインクで、俺の文字にして呪い殺してやるんだよ………ッ!」

 本郷は、手帳の百年前の死者と完全に狂気の共犯者となり、進んで世界を呪う言葉を吐き散らした。自分の正気の縫い目は、もう完全に弾け飛んでいる。

 その瞬間、本郷の吐き出した漆黒の怨嗟を、女の冷徹な瞳が真正面から観測した。

 女は本郷の暗い笑いから、何かを見て取っていた。女の指先が、今度は本郷の狂気を引き裂くように、鋭く動いた。

「この世界への怨嗟、文字に刻まれた百年の呪いを………ここに」

 女の白い指先が虚空を滑り、何も書かれていないお札の上へ、黒い温度を孕んだ因果律の文字が、凄まじい速度で紡がれていく。

『書き記す 怨みのインク 涸れぬ間に お前も世界も 連れてゆかんと』

 詠み上げられた三十一文字の黒い器が、アパートの一室に満ちた狂気を強引に包み込んでいく。

 次の瞬間、ブクブクに膨れ上がっていた濡れた手帳の文字が、生臭いインクの匂いごと、ドロドロとした黒い液体へと融解し、古い畳の奥深くへと染み込んで消え去った。和室を満たしていたおぞましい気配は霧散し、ただアパートの屋根を叩く、激しい豪雨の音だけが日常の静寂として戻ってきた。

 本郷は、激しい呼吸のまま、力なく畳に膝を突いた。脳髄の狂気は引き、かろうじて正気へと繋ぎ止められた。

 だが――ふと自分の右手を見た瞬間、本郷の息が止まった。

 怪異は消え去ったはずなのに、自分の右手の指先が、まるで手帳の呪詛を今しがた書きなぐった直後のように、生臭い黒いインクでべっとりと汚れていた。畳に擦り付け、服で強引に拭っても、その黒い染みは皮膚の奥に刻まれたように、どうしても落ちない。

 脳の中の地層に留まっていたはずの呪いが、ついに肉体の外側へと漏れ出してきている。

「おい、待て………」

 本郷の掠れた問いかけに、黒髪の女はやはり答えない。ただ、役割を終えた観測者の瞳で本郷の汚れた指先をじっと見つめたあと、豪雨が煙る闇の向こうへ、また音もなく溶けるように消え去っていった。

 静まり返った和室で、本郷はいつまでも自分の、黒く汚れた指先を見つめ続ける。

(このインクは、怪異のものか。それとも………最初から俺自身のものか)

 激しい雨の音の向こうで、百年前の誰かの、そして自分自身の怨嗟が、今もずっと静かに鳴り響いている。


いいなと思ったら応援しよう!