第四話「空白の短冊」
六月の終わりの、ねっとりとした生温かい夜風が、言埜市の古い町家の格子戸をガタガタと揺らしていた。
だが、言埜署の本郷刑事が踏み込んだその座敷の現場には、風の匂いも、雨の匂いもない、もっと異質な「焦げた和紙の匂い」が満ち満ちていた。
あの夜の事件から数日。本郷の右手の指先には、あの時染み込んだ生臭い黒いインクの汚れが、今も皮膚の奥にベッタリと残ったままだ。その黒く汚れた指先が、現場の中央、立ったまま絶命している老人の視線の先にあるものを捉えた瞬間、本郷の右手の指先が、黒いインクごと、じりりと熱を帯びた。
壁の掛け軸の前に、ぽつんと落ちていた、一枚の煤けた古い短冊。
そこに流麗な筆致で書かれているのは、間違いなく百年前の、怨念が染み込んだ一首の和歌だった。だが、本郷が懐中電灯の細い光をその短冊へ這わせた瞬間、その目の焦点が奇妙な違和感に捉えられた。
「………なんだ、これは」
三十一文字あるはずの和歌の、ちょうど真ん中の一文字だけが、まるで最初からその場所に存在しなかったかのように、ぽっかりと不自然に白く、美しく消え去っていたのだ。
擦り切れたわけでも、インクが滲んだわけでもない。そこだけが、世界の記憶から完全に消去されたかのような絶対的な空白。その一文字の空白を見つめた瞬間、本郷の頭の奥で、積み重なった地層がじりりと軋み、奇妙な悪寒が背筋を走る。
「――やはり、始まったのね」
不意に、背後の夕闇から、あのさらりとした黒髪の女――静華が音もなく現場に佇んでいた。
だが、その冷徹極まりない観測者の瞳が、本郷の指さす「一文字消えた短冊」を捉えた瞬間。いつもなら一切の間を置かずにお札を構えるはずの彼女の白い指先が、ほんの一瞬だけ、固まるようにぴたりと止まった。
本郷は、彼女のその微かな動揺に気づかない。彼女が今、自分自身の何かがまた一文字分、世界から毟り取られていく恐怖と戦っていることに、本郷は何も気づかないまま、狂気に目を血走らせている。
静華は、ただ一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸い込んだ。お札を握る指先が、指関節が白くなるほどに強く、強く握り締められた。それだけが、彼女の静かな抵抗だった。
再び目を開いた彼女の瞳には、いつもの冷徹な観測者の輝きが戻っていた。
一切の間を置かず、彼女の指先が虚空を滑り、白く不自然に消え去った短冊の空白を埋めるように、文字が、白いお札の上へと凄使まじい速度で刻まれていく。
「――お前が消し去った一文字の因果、その終わりを、ここに」
彼女の声は、一瞬だけ、かすかに掠れた。だが、その歩みは止まらない。静華は第四の和歌を、その凍りついた声で堂々と詠み上げた。
『かき消され 名もなき白の 短冊に 初めから我は おらぬものとて』
詠み上げられた三十一文字の白く乾いた器が、座敷を満たしていた圧倒的な虚無を強引に包み込んでいく。次の瞬間、掛け軸の前に落ちていた煤けた短冊は、その表面に刻まれていた全ての墨文字ごと、サラサラとした白い灰へと姿を変え、崩れ落ちた。老人の死体の喉に巣食っていたおぞましい気配は霧散し、格子戸をガタガタと揺らす、ねっとりとした生温かい夜風の音だけが戻ってきた。
本郷は、右手の指先の黒いインクの熱が引いていくのを感じながら、力なくその場に立ち尽くした。脳髄の虚無は引き、かろうじて自分の正気の輪郭を繋ぎ止める。
いつものように、黒髪の女は役割を終えた冷徹な観測者の佇まいで、闇の向こうへ歩き出そうと背を向けた。
本郷はその細い背中に向けて、掠れた声を絞り出した。
「………おい、静華」
その瞬間。彼女の足が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ不自然に止まった。ゆっくりと、何かを思い出すかのようにこちらを振り向くその動作が、昨日までの彼女よりも、ほんのわずかに――遅れた。
本郷は、彼女のその微かな反応の遅れに気づかない。彼女の脳裏で、今呼ばれたその「静華」という文字列の、一体どの一文字が最初から存在しなかったかのように白く消え去ったのか、本郷はまだ、何も気づいていなかった。
静華は、いつもと変わらない冷徹な瞳で本郷をじっと一瞥したあと、格子戸の向こうの夜闇へと、音もなく溶けるように消え去っていった。
静まり返った座敷で、本郷は右手の、どうしても落ちない黒いインクの染みをじっと見つめ続ける。
(この街の呪いは、いつか俺たちを、根こそぎなかったことにするつもりか)
ガタガタと鳴る格子戸の向こう、梅雨の終わりの暗い闇の中で。最初からいなかった死者たちの冷徹な拒絶が、今もずっと、静かに世界を白く塗り潰している。
