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秀才と天才の間

久々に本棚から加藤郁乎かとういくやの『後方見聞録』を引っ張り出して読む。

加藤郁乎の俳句は全く好きじゃないけれども、稲垣足穂の重要な証人としての郁乎である。

『後方見聞録』には、加藤郁乎がその人生で出逢った藝術界隈、文壇、画壇、詩壇などの芸術家たちが犇めいて紹介されている、の、で、ある、の、だが、然し、けれども、まぁ一般的にはメジャーではない方々だ。

この本には、タルホを筆頭にして、吉田一穂、白石かずこ、澁澤龍彦、池田 満寿夫、西脇順三郎、土方巽、など、その道の奇人達人が登場する、の、だが、そのエピソードの数々が面白い。

私は、加藤郁乎は嫌いで、この、加藤郁乎が嫌いな感じは、松岡正剛が嫌いなのにも似ているのだけれども、特に、澁澤龍彦の奥さんであった矢川澄子と密通するのはどうもなぁ、と、思うし、矢川澄子を特集した『ユリイカ』において松山俊太郎が、佐藤亜紀と池田香代子との鼎談において、加藤郁乎をかばうと、女性二人にフルボッコにされ、言葉に詰まっていた。あれほどの碩学ですら、身内びいき、と、いうか、こう、仲間をかばい、叩かれてしまう。ただ、このシーンはなんか面白かったなぁ。

佐藤亜紀、と、いえば、『鏡の影』の話を思い出す。
自身の作品である『鏡の影』が盗作されたと、他の作者と揉めていたのだ。

で、私の好きなタルホは、盗作を盗作と思わない節があり、そこが面白い。
他人の書いた文章をそのままトレースして、その中での揺らぎ、僅かな差異にこそ、その作品、その作家の重要なところが浮かび上がる、という、謎の持論を持っており、ヴェルナー・ハイゼンベルクの論文をほぼ丸パクリしたという(翻訳した、とも言う)『ハイゼンベルク狂想曲』という作品を書いており、それは松岡正剛が本にしようとしたら、出版社側に、ほぼ元本と同じなので出版は出来ません、と、断られて、そのまま本になることもなく、それは消えてしまった。

タルホは、例えば、シェイクスピアの書いた『ロミオとジュリエット』をそのまま丸写しして、とある一文、一つの言葉を変えることこそが本当の創作、だと言っている。この揺らぎの中にこそ、真の藝術が宿るのである。

その考えは概ね正しく、要は、人間は一人ではなく、集団であり、種族として一つであるから、誰か優秀な人間がその大枠を組み立てたとして、それが如何なる天才であっても、『ヒカルの碁』における神の一手は、一人では打つことが出来ない。そして、その一手は、天才たちの遺したものに触れた人間が、不意に見つけるかもしれないのだ。その一人がその一文を書き換えることで、それは真理にまた近づくことになるかもしれない。

で、この本は回想記なので、そもそもが哀惜に満ちているのだが、然し、矢川澄子だけは、他メンバーと異なり、もう、感傷がいっぱい、神棚に祀られている感じだ。

澁澤、加藤郁乎、矢川澄子、あたりも、私としては、『ゆきてかへらぬ3』として制作してもいいのではないか、と、思うほどだ(2は川端康成バージョン)。

で、この本のメインディッシュは矢川澄子、であるが、オードブル、はやはり稲垣足穂、で、あり、郁乎、タルホとは白石かずこと早稲田グラウンド坂の近くのプチバーちとせで出逢ったと証言、昭和23年のこと、即ち、1948年、で、あるが、この時期、郁乎もまた、真盛ホテルにお邪魔している。真盛ホテルは、以前noteにも書いた、戦後の稲垣足穂の根城であり、ここで数年過ごしている。1950年に京都宇治に移るが、その前には住んでいたのだ。

加藤郁乎も、松岡正剛も、どちらも博覧強記で、天才を見抜く慧眼があったのだろう。秀才は天才を見抜く。天才は、どこまでも奔放なままで、報われることが少ない。盗作を良しとする価値観など、常人はもっていない、常識人は持っていないのだ。盗作は悪であるし、リスクがでかすぎるからだ。仮にするときですら、功名心、という、利己的な欲望、物質的な欲望、承認欲求的な願望に負けてしまう、それこそが秀才の陥る罠だ。

然し、天才は、その価値観すらやすやすと捨てて、それよりも面白いもの、素晴らしいものを探そうとするのだ(でも盗作はだめだゾ!)





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