幻想小説についての話
幻想小説とは何か。
と、いう、まぁ、そういう、◯◯とは何か、と、問われても、私にはわからないが、膝を打つような言葉を昔、渡辺恒夫氏の著書、『トランス・ジェンダーの文化 ‐異世界へ越境する知‐』に見つけたのを思い出す。
氏が、ジェンダーに関する文献、その中で、特に、女装に関しての海外の本を読んだ時に衝撃を受けた言葉を述べている。
ーかつて、男だった頃のことは、ぼんやりと、夢のようにしか思い出せませんわ。
私も、この一文には衝撃を受けた。この、わずか1行の述懐が、詩であり、幻想小説であり、その、読み手の意識を変容させるほどの力があることに、驚いたのだ。
性転換の後の男性であった頃の記憶は夢のようであり、これは、ただの女装でも同様にいえる。女装して街を歩く、何の変哲もない街を歩く、これだけで、その街は異世界へと変貌する。異世界転生する必要性は何もない。異世界とは、文化と文化、自分と世界、自らの立ち位置の変容による相対するものの反応でもあるからだ。異世界は、普遍的ともいえる、一時の日常を破壊するだけで、容易に現出する。
例えば、町中で、宗教に関しての勧誘がある。多くの人は、それを見て、気にもせず、無視するだろう。然し、一つ勇気を持って、話を聞いてみる、案内された場所に赴く、これだけで、簡単に異世界が現出する。無論、この異世界も、多くの現実と同じ、現実の一形態に過ぎないのだが。
著書の中で、渡辺恒夫氏は、4度の芥川賞候補となった森万紀子の『虚構の街』を、優れた幻想小説だと高く評価されている。
まずは、渡辺恒夫氏の定義する幻想小説は以下のようになるので、引用させて頂く。
つまり、こういうことです。この世界とは別の場所に、独立に異世界を構築しようとするような幻想小説は、二級品だということ(例外は『アークトゥルスへの旅』。異界の描写そのものによって意識を変容してしまう稀有の作品。)真の幻想文学は、日常的自己とは異なるもう一つの自己、より真なる自己を映し出す鏡を想像することによって、この世界をそのまま変容させるー
真なる自己、女装、とはまさにその一つである。人間は、日常生活で、常に仮面ーペルソナを複数被って、他人と接している。然し、そのどれもが、本質的には、真なる自己を隠すための仮面である。
そういう意味では、イングマール・ベルイマン監督の、『仮面/ペルソナ』はそのことを描いた映画であるし、デビッド・クローネンバーグ監督、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』だって、ドラッグ文学であると同時に、薬を使ってのトリップによる、真なる自己と表出と越境を描いた、幻想文学だ。
つまり、大仰なファンタジー世界に転移する必要性はなにもない、と、いうことである。
一番近い幻想世界が鏡、であり、鏡の奥の世界、反転したその場所にこそ、そこに映る自分こそ、異世界の誰かであるのだし、他者は鏡、というように、どこまでも、自分を探り当てる行為こそが、異世界であり、異世界は、自分の中に存在するのだ。
だからこそ、鏡、そのもののタイトルを有するアンドレイ・タルコフスキーの『鏡』もまた、自己へと戻っていく、一つの幻想映画である。
過去に戻ること、過去こそが、かつて、少年(少女)だった頃のことは、ぼんやりと、夢のようにしか思い出せない、ように、幻想への聯想そのものだからだ。
で、然し、渡辺恒夫氏が選んだ、幻想文学ベスト5の国内編にある、森万紀子氏の、『残骸の街』、これは、私も読んだが、大変に、不気味な小説で、こう、なんというか、若干、アレ、な感じも受けるくらいで、作者の魂を素手で触らされているような質感だ。
私が、現役作家の中から、森万紀子という、一部にしか知られていない寡作な純文学作家を選び出した動機というものも、自己分析すれば以上のようなことになるのでしょう。
彼女の小説世界には、いわゆる幻想的なものは出てきません。ただ、作者自身とおぼしい主人公がアパートに住み、ビラ配りやホテルの洗濯女をしながら日々を送っているという、そんな情景が描かれているだけです。
‐中略‐
にもかかわらず、第一頁目から、ひきずりこまれてゆくのは、まがう方なき異世界です。ありふれた光景がありふれたままで、異次元界へと変貌するのです。原因は、彼女のどの作品をとってみても、「他人」が非在だからです。短篇であれ、『黄色い娼婦』のような代表的な長篇であれ、この作家の文章世界に入り込む者はいやおうなく、他人の非存在を生きるはめになるのです。
そして渡辺恒夫氏は、この、『残骸の街』以降、森万紀子の文章に、「海鳴り」が通奏低音して顕れ始めて、その音が、絶えず、作品へと誘う催眠術の如し音として、読者を異世界へ誘うと分析されている。
そういった意味合いで言えば、私が好きな幻想小説を書く津原泰水、彼はリーダビリティが極めて高く、計算も高いので、『五色の舟』や、『バレエ・メカニック』など幻想的な色合いはあれども、まだ造られた世界にも思える。
森万紀子は、評伝など読む限り、かなり変わった人だったようで、結婚している、夫がいる、と友人たちに言うものの、部屋に訪うとその生活臭はなく、ただ、男物のスーツがハンガーに一着かかっているだけ、など、言っていることが真実か定かではない。かつ、小鳥を数羽鳥籠に入れて遊びに来たり、変な人に思える。そして、文学賞、自分が新人賞候補で落ちた、文學界新人賞が欲しくてほしくてたまらなかったようで、芥川賞にも、自分が一番近い、と思っていた。
で、渡辺氏が言うように、ほとんどの読者が今はもう覚えていないし、語ることもない作家で、多分、日本では、数万人くらいしか知らないのではないか。
『残骸の街』は、本当に寒々しい、装飾を剥いだ文体で、顔のない人間たちの生活、会話に海鳴りが響いている、そんな感じだ。どこか、田舎の、鄙びた人のいない海辺の街のようなー。
津原泰水に戻ると、彼の場合は、元々が少女小説でデビューしたので、物語の導線などをしっかり敷く才能があって、それを、20冊以上書きまくっていたので、鍛えられたのだろう、真なる自己、というべきものが、ある意味で見せていない、部分はあったのかもしれない。何故ならば、少女や、大衆という多くの鏡を相手にする場合、そこに自分を見ることは難しいからで、反対に、自分が、鏡として見られている。彼は、女性と偽って書き続けてきたわけだが、その後の、男性作家と告白の後の、幻想小説の一つ、『ペニス』こそが、まさに、彼の幻想小説の中では、一番、現実と接続された異界を書きつつ、かつ、真なる自己が見えているような気がする。穿った見方をすれば、ペニス、とは、男性である、という、開陳行為に他ならないからだ。
今作では、井の頭恩賜公園の管理人で、インポテンツの50男が、公園で、鳩を虐めていた少年(悪ガキで可愛くない容姿)の死体を発見し、管理人事務所に運び込む。そして、巨大な業務用冷蔵庫を購入し、そこに死体を隠して、日々の仕事をしながら、様々な聯想と回想が交わり合いながら、物語は進んでいく。
彼は、チャイコフスキーを嗜んでいて、そういう幻想文学的な道具立て、イメージ立てとしてのチャイコフスキーは巧いし、チャイコフスキーが同性愛者であったことも、作品のイメージに寄与している。
で、冒頭、お店に行って、口で抜いてもらおうと、手コキで抜いてもらおうとするシーンから始まる、の、だが、彼は勃たない。そして、ここは、編集者から、『ペニス』と同じ様な作品を、と、頼まれて書いた『バレエ・メカニック』の冒頭で、造形作家の主人公(これも中年)が、男娼の少年に尺八してもらうシーンから始まるので、呼応している。こういう、お店のシーン、と、いえば、『タクシードライバー』のトラヴィスを思い出すが、然し、トラヴィスは説教するだけである。彼は少女には興味がない。そして、何よりも、不能であり、精神に異常をきたしており、彼の見るニューヨークもまた、異世界の様相を帯びている。そして、ニューヨークが見る、ニューヨークの人々が見るトラヴィスこそが異界であるという逆転現象。
『ペニス』は非常に長い小説で、文庫本で500頁、ぎっしりと文章が詰まっている、が、読みやすい。それは、やはり、津原泰水が華美な文体であり、衒学的な部分があろうとも、やはりリーダビリティが高く、それは最早長年大衆を相手に文章を綴ってきた手癖や習性にもなっているからだろう。
で、まぁ、私は、別の作家の話への接続、枕として前段部分を書いた、の、だが、少し長くなったので、この話はこの話として、一つの記事として、締めようと思う。
