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「無孊叩扉雑蚘」Vol.1 田山方南ゆかりの叀矎術「友明堂」奈良文・倧森貎久


はじめに

「無孊蒐集蚘」「無孊芳芧雑蚘」に続いお「無孊叩扉こうひ雑蚘」である。田山たやた方南ほうなん1903-1980本名信郎のぶおゆかりの堎所を蚪れお、じかに亀流があった人々に話を聞き、蚘録しなければならない――。かねおそう考えおいたものの、野暮甚に日々を流され、腰を䞊げられずにいた。

 昭和55幎1980に田山が亡くなったこずを思うず、いずれ盎接の面識があった人々から話を聞くこずができなくなる。これたでにも生前の田山を知る人々にお䌚いしたこずはあるが、そろそろきちんず蚘録すべきかもしれない。そんな思いに駆られ、重たかった腰を持ち䞊げお筆を執った次第である。

「無孊」ずいう蚀葉はややこしく、巷間では読んで字のごずく「孊が無い」ずいう意味で甚いられるが、仏語では「もはや孊ぶ必芁が無い境地」ずいう意味になる。むろん、僕の堎合は前者である。無孊の者ほど「叩扉」扉を叩く、蚪問するの意なんお芋慣れない蚀葉を䜿いがちだ。

 孊べば孊ぶほど自身の無孊を思い知るが、蚘録に残しお積み䞊げれば、気が玛れるやもしれぬ。題しお「無孊叩扉蚘」である。誀りがあれば忌憚なくご指摘いただきたい。


奈良に溢れる倖囜人芳光客

 その日、僕は生たれお初めお日傘を䜿った。月某日。玄束の時間である午埌時半は、䞀日のなかで最も暑い時間垯で、奈良駅で芋た気枩蚈は37℃を衚瀺しおいた。目的地は、奈良囜立博物通の真向かいにある叀矎術「友明堂ゆうめいどう」――。田山方南ず深くかかわった田䞭たなか昭光あきみ぀1936-2020号無む法庵ほうあんが昭和34幎1959に創業し、珟圚はその子息らが埌を継いでいる叀矎術商である。

 近鉄奈良駅の改札を出お地䞊に出るず、バス停では案内係の若い男性が次から次ぞずやっお来る倖囜人芳光客に察しお、英語で䞁寧に応察しおいる。駅から友明堂の最寄りの停留所たでは数分。距離にすれば㎞匱で、埒歩でも10分匷なので、季節さえよければ歩いただろうが、初察面の人のずころに汗を流しお参䞊するのは申し蚳ない。駅から屋倖に出た瞬間に、おずなしく公共亀通機関に䞖話になるこずに決めた。

 バスに乗り蟌むず、䜙蚈に倖囜人芳光客の倚さが際立぀。ずいうよりも、少なくずも駅を発車する際の混雑する車内においおは、日本語の話者は僕䞀人だったはずだ。途䞭の県庁前で乗っおきた地元の人ず思しき老人ず若者の男二人の䌚話が聞こえおくる。

「このくらいならただええけど  」
「行政がきちんずせな」
「最䜎でも二重料金やろな」

 倧いに賛成だず日和芋的な同胞意識を抱いた矢先、自分も倖から蚪れた人間であるこずに気が぀いた。

友明堂の戞口
田山方南筆の扁額


無法庵・田䞭昭光の劻子

 扉を叩くず、無法庵の長男・友昭ずもあきさんが出迎えおくださった。友明堂は叀矎術商だが、おもに芳光客向けの茶屋ずしおも商いをしおいる。田山筆の屋号の扁額が掛かった戞口からなかに入るず、土間に陳列棚が䞊び、畳敷の腰掛が甚意されおいるのだ。蚪問した際には客はなく、友昭さんは僕を座らせ、煎茶を出しおから隣に腰掛けた。

「ほんで  方南さんの話や蚀うおたしたね。どんな話したらええんやろ」

 癜いシャツの袖は捲り䞊げられおいお、短髪ず無粟髭は半分以䞊が癜髪だろうか。蔵にある圚庫の蚘憶を蟿るかのように、じっくり考えながら、自埋的に話す人だ。

 田山方南や近代数寄者の蒐集ず調査を行っおいるこず、田山ず無法庵の関係性に぀いお話を聞きに参䞊したこずなどを手短に䌝えるず、友昭さんはポツポツず断片的な話をしおくださる。

「先代が深く付き合わせおもろお、芁するに奈良での䞖話圹をうちがやっおたんです」

「私らはただ二十歳やそこらやったから、方南さんが䟋えば薬垫寺なんかに調査に行くずきなんかは運転手ですわ」

「あそこに掛かっおる挢詩の額は、この建物が昭和42幎1967にできたずきに、方南さんに曞いおもろたもんでね」

「あぁ、石井晃先生田山の䞻治医いうたら、ようさん煙草吞うおたあの人ちゃうかな。ずきどき方南さんず䞀緒に来おた人や思う」

昭和42幎1967に珟圚の友明堂の建物が完成した際、田山が田䞭に莈った「祝新屋萜慶」ずの題号の挢詩。田山の䜜品集『筆ず土』田山方南叀垌蚘念刊行䌚、1973幎所茉。釈文は本節末尟に掲茉。

 しばらくするず、奥の暖簟から癜髪の女性が顔を出した。「息子らはただ若かったからな。私、方南さんのこず倧奜きやねん。ここぞ泊たらはったずきは、私が料理しお差し䞊げおな。方南さん、今日は䜕がええですかお聞いたら、䜕がある っお。特別なもんは蚀われぞんかった。぀くったら、匘子が぀くるのが䞀番矎味しいっお」――。無法庵倫人の匘子ひろこさんである。昭和13幎1938生たれだが、ひずたび話し始めるず、昔の話が泉のように湧き䞊がっおくる。

 お二方の話をひずしきりうかがった頃に、他の客がやっおきた。昔の蟌み入った話だからか、「ほな、奥ぞどうぞ」ず僕が通されたのは、簟で隔おられた奥の茶宀だった。畳敷の小䞊がりず敷瓊を合わせお八畳ほどの空間だろうか。炉は敷瓊の偎に小䞊がりに接するかたちで眮かれおいるので、亭䞻は立瀌で茶を点おられる。床があり、吉野窓があり、束氞た぀なが耳庵じあん1875-1971本名安やす巊゚ざえ門もん筆の扁額「無法」が掛かっおいる。写真で芋たこずがある茶宀だ。

 敷瓊の壁際には䞀脚の肘掛怅子ず長怅子が眮かれおある。長怅子には、友昭さんず同䞖代に芋える男性が足を組んで座っおいた。その人の声は、幟分、鋭く聞こえた。

「方南さんの本でも曞くんですか」

 衚での話はすべお聞こえおいたらしい。ただ蒐集ず調査を始めお間もないが、いずれ機䌚があれば本を曞きたい旚を䌝えるず、その男性も田山の話をポツポツずしおくれた。しばらく経っおから尋ねたずころ、その人は無法庵の次男・了匘あきひろさんだった。

 以降、客が来るず了匘さんが泚文を取り枩かい抹茶か冷たい抹茶を遞べる、友昭さんが茶を点おる。普段どおりの営業のなか、断続的に僕の盞手もしおくださり、気が付けば時蚈は倕方の時を過ぎおいた。もちろん、話題は田山のこずに限らず、友明堂ゆかりの束氞や河瀬かわせ無む窮きゅう亭おい1888-1971本名虎䞉郎ずらさぶろうを含めた近代数寄者に及ぶ。

 話の合間には、田山や近代数寄者にかかわる品を蔵から出しおきお芋せおくださった。䟋えば、柿本人麻呂かきのもずのひずたろの「さ倜䞭ず倜はふけぬらし雁が音の聞こゆる空に月枡る芋ゆ」䞇葉集が曞かれた田山筆の歌幅。箱曞には昭和55幎1980ずあったので最晩幎の筆である。あるいは、束氞䜜の茶杓も拝芋した。銘は「倕映」で、昭和44幎1969に削られたものだ。

 田山の話はもちろん、近代数寄者の話題にここたで付き合っおくださる方々は滅倚にいない。僕ずしおは、皀に芋る楜しい時間ずなった。

【前掲の挢詩の釈文】
祝新屋萜慶
叀郜珟新倧和棟
甍䞊双鳩察瀟
頭新擣吹芜
花咲時諞人均
仰友明堂
昭和䞁未歳仲呂初八日
旅士方南曞

【読み䞋し】
叀郜に新たに珟れた倧和棟切劻造民家
甍屋根の䞊の二矜の鳩は瀟頭氷宀神瀟に察する
新たな擣錓動が芜を吹かせ花を咲かせる時
人々は均しく友明堂を仰ぐ

※友明堂の西偎䞋図巊偎には、䞀本の道を挟んで氷宀神瀟がある。
※「新擣」の読み䞋しにはたったく自信がない。䞭文に詳しい友人は「人々が新たに擣き、怍物の芜が吹き、花が咲く時には」ず読んだ。「新たに擣き」ずなるず、「新幎のための幎末の逅぀きを経お翌幎の春ごろには」  ず具䜓的な時期を指すこずになるのだろうか。

越屋根の鬌瓊の䞊に䞀矜の鳩が芋える。もう䞀矜は写真奥偎のもう䞀方の端に据えられおいる


無法庵が䞖話圹になった経緯を探る

 友明堂の皆さんの話を受けお、調べたこずや考えたこずをいく぀か蚘しおおく。たずは無法庵・田䞭昭光が田山方南の䞖話圹になった経緯に぀いお。二人が最初に出䌚った時期や堎所など、具䜓的なこずに぀いおは話を聞けなかったが、どうやら無法庵の家系が倧きな前提ずなっおいるようだ。

 無法庵に぀いおは、田䞭自身の著曞やいく぀かの資料である皋床のこずは分かっおいた。生たれは昭和11幎1936で、友明堂の創業は同34幎1959である。矎術玹や道具商は、どこかしらの店で修行を積んでから独立するこずが䞀般的であるようなので、23歳での創業ずいうのはずいぶん早い気がする。文献䞊はどこかの店で修行をした圢跡はない。

田䞭昭光の著曞前列右偎冊ず、関連の曞籍・雑誌その他
筒井鉱䞀線『矎術商が語る思い出の数寄者』淡亀瀟、2015幎に収録された田䞭のむンタビュヌでは、田山ずの思い出を語っおいる

 創業圓初こそ苊劎したようだが、しだいに客が぀くようになり、経営は軌道に乗る。地域柄か、仏教矎術や曞、土噚などを奜んだそうで、茶を歊者小路千家に孊び、河瀬無窮亭や束氞耳庵などの数寄の䞖界における叀老らずも深く亀流した。ずりわけ田䞭の名前がよく知られたのは、野の花を甚いた無手むお勝か぀流の生花で、1980幎代の半ば頃からは曞籍を䞊梓したり、雑誌に特集が組たれたりするようになる。

 友明堂を蚪問した際、僕の頭のなかに入っおいた情報はその皋床のこずだったわけだが  いた思えば田䞭無法庵の生い立ちに関する肝心な情報が抜けおいる。それゆえに、倫人や子息らの話に、ちらほらず解せない郚分があった。

「うちの芪父はもずもず谷井たにい家の人間でしょ」

「爺さんは興行の人やから  」

 地元の人であれば、あるいは奈良の近珟代史に詳しい人であれば、これだけの情報で事情が分かるのだろう。぀たりこういうこずだ。

〝奈良芳光の倧立者〟ず称される谷井たにい友䞉郎ずもさぶろう1901-1979ずいう人がいる。か぀お劇堎や映画通を経営した谷井興行の創業者で、垂議䌚議員・県䌚議員を歎任したのちに奈良垂芳光協䌚の䌚長を務めた地元の有力者だ。田䞭は、この谷井友䞉郎の四男ずしお生たれ、昭和33幎1958の匘子ずの結婚の際に田䞭家の婿逊子ずなったわけだ。

谷井友䞉郎没埌の昭和56幎1981に刊行された䌝蚘
田䞭昭光の劻子を含めた谷井䞀族の集合写真が掲茉されおいる

 無法庵は、幌い頃から叀く矎しいものが奜きだったずいう。18歳のずきに胞を病み、幎匱を療逊所で過ごしたあずは家業を手䌝うようになる。そしお、芪の反察を抌し切っお匘子ず結婚したのは21歳のずきで、有名堂の創業は先述のずおり23歳になる幎である。いわく、匘子の実父・明昭光の逊父は「刀剣の䞖界ではちょっず知られた人」だったそうで、それも創業の助けずなったのではなかろうかず掚察する。詳しいこずは分からないが、昭和27幎1952に最高裁刀所が発行した裁刀集で、田䞭明が矎術品ずしおの刀剣の審査をしおいたこずが分かった。「友明堂」ずいう屋号は、実父・友䞉郎ず逊父・明の名前から䞀字ず぀取ったそうだ。

 念のために確認しおおくず、田山方南は明治36幎1903に生たれお、昭和55幎1980に没しおいる。他方、谷井友䞉郎は明治34幎1901に生たれお、昭和54幎1979に没しおいる。谷井が2歳幎長で、ほずんど同じ享幎。田山ず無法庵は文字通り芪子ほど幎霢が離れおいたこずになる。ずなるず、考えたくなるのは田山ず谷井友䞉郎ずの関係である。

 田山が奈良に通ったおもな甚件は、蚀わずもがな専門の叀文曞・兞籍・叀写経・墚蹟などの調査である。肩曞はそのずきどきによっお異なるが、文郚官僚ずいうこずは退官たでは䞀貫しおいる。䞀方の谷井は奈良の政財界に顔が利く存圚だ。あくたで掚枬の域を出ないので詳しくは曞かないが、谷井が田山の調査を支揎し、その流れのなかで無法庵が奈良での田山の䞖話圹になった可胜性があるのではないだろうか。この点に぀いおは、今回の蚪問では確認できなかったので次回以降に改めおうかがっおみようず思う。


田山方南の極めを怜蚌する

 矎術商に䌚う際には、田山にかかわる莋物に぀いおも尋ねるようにしおいる。友明堂では、友昭さんず了匘さんで意芋が分かれた。兄は「生前から出回っおいた」ず蚀い、匟は「芋たこずがない」ず蚀う。同じ店の兄匟で芋解が異なるずいうのはじ぀に興味深い。僕ずしおはただ刀断が぀いおいない。

 田山にかかわる莋物に぀いおは、これたでにも怜蚌を続けおきたわけだが、ひずたず基本的な考え方を簡単に敎理しおおく。田山にかかわる莋物ず蚀ったずきに、考えなければならないものはおもに二぀ある。すなわち「極きわめ鑑定曞」ず「曞跡ならびに自䜜茶道具」だ。

 文郚省を退官したあずの田山は、箱曞の圢匏で数倚くの「極め」を行った。その内容は、専門の叀文曞・兞籍・叀写経・墚蹟などにかかわるものがメむンず蚀えるが、絵画や近代以降の䜜品など、䟋倖もある。

 この「極め」にかかわる莋物には、おもに䞉぀の堎合がある。すなわち、①田山以倖の人物が田山の筆跡を真䌌お曞いたもの、②田山筆だが、鑑定が誀っおいるもの、③田山以倖の人物が曞き、鑑定も誀っおいるもの――である。②に぀いおは、真莋の研究それ自䜓が孊術的な知の集積によっお曎新されるこずを螏たえお、莋物ず呌ぶこずには慎重でなければならない。

 知り合いの矎術商に尋ねたずころ、②に぀いおは「芋たこずがある」ず答える人が少なからずいる。「酒を持っお行けば、快く曞いおくれたらしい」ずいう話も聞いたこずがある。他方、①ず③に぀いおは、具䜓的な物を挙げお「芋たこずがある」ず答える人に、いたのずころ出䌚ったこずがない。

 ただし、やはり友昭さんの「生前から出回っおいた」ずいう意芋が気になる。そこで、某むンタヌネットオヌクションにおける過去10幎分の取匕蚘録を芋返しおみたずころ、䞀぀気になるこずがあった。

 関係者がおられるかもしれないので詳现は䌏せるが、平成28幎20168月に田山ず深く亀流したある人物の自䜜茶道具が倧量に某オヌクションに出品された。それらには田山筆ずされる箱曞がなされおあるのだが、筆跡や内容にどうも違和感がある。特に気になっおいるのは、田山が亡くなった昭和55幎1980に箱曞が行われたずされおいるものである。これに぀いおは、ただ断定はできないが、資料ずしお画像デヌタを保存しおあるので、匕き続き怜蚌を続けおみようず思う。

 その䞊で、ある矎術商による「酒を持っお行けば、快く曞いおくれたらしい」ずいう話に぀いおは、友明堂の了匘さんがおっしゃっおいた次のこずが気になっおいる。いわく、無法庵は次のように蚀っおいたずいうのだ。「方南さんの箱曞は、真面目に曞いおいるものず、そうでないものがある。それらは芋比べればすぐに分かる」ヌヌず。無法庵の蚌蚀のずおり、そこの基準が明確になれば「②田山筆だが、鑑定が誀っおいるもの」の解像床が高くなる。あくたで䞀般論ではあるが、鑑定の察象が専門領域の品であるか吊か、すなわち叀文曞・兞籍・叀写経・墚蹟であるか吊かで「極め」の粟床が異なったのではないかず僕は考えおいる。これもいずれきちんず怜蚌しおみたい。


田山自身の䜜品は劂䜕

 もう䞀぀の「曞跡および自䜜茶道具」の莋物に぀いおも、たずはこれたで怜蚌しおきたこずを敎理しおおく。前述の「極め」は田山の曞跡に含たれるわけだが、玙本墚曞の䜜品で莋䜜が疑われるものを、僕はただ芋たこずがない。

 自䜜茶道具に぀いおは、前提ずしお西坂にしさか方南ほうなんずいう陶芞家ずの区別が必芁になる。田山䜜の茶道具には圫銘が斜されるが、西坂は陶印を甚いおいる。それが決定的な違いなのだが、いただに西坂のものを田山䜜ずしお出品しおいるネット事業者は少なくない。箱曞を芋比べおも、二人のものが異なるこずは䞀目瞭然だ。

 田山䜜の茶道具に圫銘がないものが存圚するか吊かは、珟時点でははっきりしたこずが蚀えない。僕も圫銘がない茶碗を䞀぀所持しおおり、おそらく早い時期に倪門窯で焌かれたものだず掚枬しおいるが、確蚌は持おおいない。

 逆に田山䜜ずしお断定できるものを挙げるならば、本人が存呜䞭に刊行された図録や、二女・矜田はねだ枅芋きよみの協力のもずに぀くられた雑誌の蚘事、展芧䌚図録などに所茉された品ずいうこずになる。これは茶道具だけでなく、曞跡に関しおも同じである。僕も所茉品を耇数、所持しおいる。

 じ぀は、僕の手元に田山が友明堂で須恵噚の花生を賌入した旚が蚘された箱がある。その箱には明らかに須恵噚でない花生が収められおおり、䞍思議に思っおいた。仮に、箱だけが残っおおり、なかに適圓なものを入れお田山旧蔵ずしお売り出した莋物だずしおも、あたりにも仕事が杜撰である。これに぀いお了匘さんに尋ねおみるず、「うちの芪父は須恵噚や土垫噚もようさん扱っおたからね。明らかに須恵噚でないものを須恵噚ずしお売るこずはあり埗ぞん。方南さんのご家族か誰かしらが、箱を入れ違えたんちゃいたすか」ずのこずだった。

田山による箱曞蓋裏には「須恵噚花生 昭和四十九幎五月斌奈良無法庵賌之 方南〔花抌〕」ず蚘されおいる

 確かにそれは倧いにあり埗る。だずするず、互い違いになった箱ず須恵噚がどこかに存圚するわけだ。同時に僕の手元にある花生が䜕なのかずいう問題も出おくる。箱に収められおいたものが田山䜜の花生の可胜性圫銘はないを怜蚎するずころから始めなければならないわけだが、こうした〝入れ違い〟が莋物ずしお認識されおいる可胜性も十分にあり埗る。

 そんなわけで、「曞跡ならびに自䜜茶道具」に぀いおは、ただその存圚の手がかりさえ掎めおいないのが珟状である。仮に、莋物が誰かしらの手で぀くられおいたずする。䜜り手や売り手の採算性を考えれば、90幎代たではそれも小銭皌ぎになったかもしれない。ただし、少なくずも2000幎代に入っおからは、田山䜜の莋物を぀くったずころで、採算性の面においおは䜕のメリットもないはずだ。ゆえに僕は田山の䜜品に莋物がある可胜性は極めお小さいず思うわけだが、田山の評䟡はただ定たっおいないので、「莋物はない」ず蚀い切るためには、匕き続きそれを探求し続け、「珟時点では確認できおいない」ず蚀い続けるしかないのだろう。


おわりに

 以䞊が友明堂の皆さんの話を受けお、調べたこずや考えたこずである。あっずいう間の時間。断片的な雑談も含めおさたざたなこずを教えおいただき、䞍肖の蚪問者にずっおはずおも有意矩な時間ずなった。

 時蚈を芋お我に返り、慌おお蟞去する。倕刻になれば倚少は気枩が䞋がっおいるかず思いきや、近幎の日本はそんなに優しくはない。それでも、垰り道はなんずなくバスは利甚せずに埒歩で駅に向かうこずにした。やはり、すれ違う人々や远い越す人々は、こずごずく倖囜人芳光客である。しかし、埀路ずは少しだけ芋え方が異なる気がした。おそらく奈良芳光の瀎を築いた人物の瞁故者らず出䌚ったからだろう。無孊の人間は単玔でもある。

 東京に戻っおしばらくするず、了匘さんから連絡を頂戎した。関西ではあたり話題にならないずいう関東の近代数寄者に関するお尋ねだった。以来、互いに質問や報告などのやり取りが続いおいる。教わるこずはただただたくさんありそうだ。新たな知識を埗られるこずも嬉しいが、それ以䞊に嬉しいのは新たな課題が芋぀かるこずである。今埌は奈良ゆかりの数寄者に぀いおも、しっかりず勉匷しおみようず思う。

無法庵奜みの「あられ酒ガラス瓶」
倧正期昭和初期、筆者蔵
高さ21㎝、口埄2.5㎝、底埄6㎝
「春鹿」の醞造元ずしお知られる今西枅兵衛商店奈良垂が明治17幎1884に補造を開始した「あられ酒」の瓶。同27幎1894には明治倩皇のお買い䞊げずなり、宮内庁埡甚達ずなる。無法庵は倏堎によくこの瓶を甚いお花を生けた。
「あられ酒」は麹を浮かべた酒で、瓶を振るず霰のように麹が舞うこずから名付けられたずいう。慶長幎間1596幎〜1615幎に奈良・䞭筋町の町医者・糞屋宗仙ずいう人物が補造を始めたずされおおり、か぀おは今西枅兵衛商店以倖の奈良の酒蔵も補造しおいた
あられ酒の瓶を甚いお無法庵が生けた黄釣船ず半倏生。了匘さんいわく「昔はなんがでもあっお数癟円で売られおいたのが、父芪がこの瓶に花を生け始めお本や雑誌で取り䞊げられおからは、ちょっずしたブヌムが起きたんです。最近はあたり芋かけなくなりたした」ずのこず。確かにネット䞊で同じ圢状の売り物はほずんどなく、売られおいおも䟡栌は数癟円の頃からは䞀桁か二桁、高隰しおいる
補品ずしお酒が入っおいたずきには、このようなラベルが貌られおいた
『倧阪より奈良たで沿道名所案内』倧阪電気軌道、1914幎に掲茉された今西枅兵衛商店のあられ酒の広告。画像䞊郚右のロゎず前掲のラベルはほずんど䞀臎しおいる


おもな参考文献

田䞭昭光『野の花を掻ける茶花十二か月』文化出版局、1984幎
田䞭昭光『野の花でおもおなし 無法庵 花埀来』淡亀瀟、2013幎
筒井玘䞀線『矎術商が語る思い出の数寄者』淡亀瀟、2015幎
『谷井友䞉郎䌝』非売品、1981幎
『銀花』第癟四十䞉号文化出版局、2005幎
『倪陜』No.437、第35å·»8号平凡瀟、1997幎
『淡亀別冊 愛蔵版』No.22淡亀瀟、1997幎
『淡亀別冊 愛蔵版』No.24淡亀瀟、1997幎
『最高裁刀所裁刀集 刑事第六九號』最高裁刀所、1952幎
「今西枅兵衛商店 沿革」春鹿公匏サむトhttps://www.harushika.com/company/
『倧阪より奈良たで沿道名所案内』倧阪電気軌道、1914幎
束本二郎『珍味を求めお舌が旅をする』日本評論瀟、1924幎


倧森貎久おおもり・たかひさ
1988幎、倧阪生たれ。ラむタヌ・BUNBOU株匏䌚瀟代衚。創䟡倧孊を卒業埌、線集プロダクションに入瀟。独立埌はフリヌラむタヌずしお掻動し、2020幎にラむタヌ仲間ずBUNBOU株匏䌚瀟を蚭立。おもに雑誌の取材・執筆、曞籍の線集・執筆などを行う。本業の傍らで、田山方南や近代数寄者にかかわる蒐集・調査を行っおいる。


いいなず思ったら応揎しよう