庵野秀明監督がTV版『エヴァ』で表現しようとしたものを、ソーシャルワークの視点から読み解いてみた
―自己覚知、セルフケア、自己決定、人間の尊厳から考える第25話・第26話―
※この記事は、TV版『新世紀エヴァンゲリオン』第25話・第26話の内容に触れています。
TV版『新世紀エヴァンゲリオン』の第25話・第26話は、放送当時から賛否の分かれる最終回だった。
それまで描かれてきた物語上の出来事が十分に説明されないまま、登場人物たちの内面世界が中心となり、最後は碇シンジに対する「おめでとう」で終わる。
この最終回については、制作上の事情によって物語を描き切れなかった結果だと説明されることもある。
また、使徒や死海文書、ロンギヌスの槍などの表現からユダヤ教やキリスト教の視点から分析する書籍などが出版されていて、私も当時、読んでいた記憶もある。
一方で、庵野監督が一番に描きたかったことを描いた回であるという話もある。
そこで、時を経て、ソーシャルワーカーとなった私は、庵野秀明監督が『エヴァンゲリオン』で最も表現しようとしたものであるTV版第25話・第26話をソーシャルワークの視点から見直し、AIと対話しながらまとめてみた。
もちろん、私は庵野監督本人ではない。
この記事は、作者の意図を唯一の正解として断定するものではない。
社会福祉士として『エヴァンゲリオン』を見直したとき、あの最終回が、自己覚知、セルフケア、自己決定、人間の尊厳、そして子どもの権利を描いた物語として読み解けるのではないか。
その可能性を考えてみる試みである。
「24時間戦えますか」が称賛された時代の直後に
TV版『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まったのは1995年である。
その6年前の1989年には、リゲインの「24時間戦えますか」というキャッチコピーが流行語大賞の銅賞を受賞していた。
当時のCMは、働き続ける企業戦士の姿を、力強く肯定するものだった。なお、エヴァが放送された1995年には、リゲインのコピーも「その疲れにリゲインを」へと変化している。
したがって、「24時間戦えますか」のCMと『エヴァ』が、まったく同じ時期に流れていたわけではない。
しかし、両者は社会の価値観として連続している。
「24時間戦えますか」が称賛された1989年から、わずか6年。
働き続けること、苦しくても役割を果たすこと、組織の期待に応えることが強く求められていた時代の延長線上に、『エヴァンゲリオン』は登場した。
そして、その主人公であるシンジは、自分自身に言い聞かせる。
「逃げちゃ駄目だ」と。
この言葉は、一見すると、弱い自分を奮い立たせる勇気の言葉に見える。
しかし、ソーシャルワークの視点から考えると、別の問いが生まれる。
なぜ、傷ついた14歳の少年に世界の責任を背負わせるのか。
なぜ、限界を訴える子どもに、さらに戦うことを求めるのか。
なぜ、役に立たなければ、ここにいてはいけないと思わせるのか。
「24時間戦えますか」と「逃げちゃ駄目だ」は、実はよく似ている。
どちらも、誰かに直接命令されなくても、自分で自分を追い立てる言葉だからである。
外側にあった社会や組織の期待が、本人の内側に入り込む。
そして本人自身が、
休んではいけない。
逃げてはいけない。
期待に応えなければならない。
役に立たなければならない。
と、自分を管理し続けるようになる。
TV版第25話・第26話で解体されていくのは、この内面化された命令だったのではないだろうか。
当時の社会には、作品を受け止める言葉が少なかった
私には一つの仮説がある。
TV版第25話・第26話が理解されにくかった理由は、表現が抽象的だったからだけではない。
当時の日本社会には、作品を読み解くためのソーシャルワークやメンタルヘルスの言葉が、まだ十分に共有されていなかったのではないだろうか。
もちろん、1995年当時、自己覚知やシステム理論が存在していなかったわけではない。
専門的に研究していた人や、教育を受けた実践者の中には、シンジと家族、組織、社会との関係を分析できる人もいただろう。
しかし、理論が存在することと、それが専門職や社会全体の共通言語になっていることは同じではない。
社会福祉士及び介護福祉士法が成立したのは1987年である。つまり、エヴァが放送された1995年は、日本で社会福祉士という国家資格の専門的基盤が整備され始めてから、まだ十年もたっていない時期だった。
現在の社会福祉士養成では、自己覚知や自己理解と他者理解が、ソーシャルワークを学ぶ基礎として明確に位置づけられている。
しかし当時は、現在のように、セルフケア、トラウマ、心理的安全性、意思決定支援、環境調整といった言葉を使って、シンジの苦しみを考えることは難しかったのではないか。
そのため、シンジの苦しみを本人と環境との関係から見るのではなく、
主人公なのになぜ戦わないのか。
なぜ逃げるのか。
なぜもっと強くならないのか。
という、本人の性格や意志の弱さとして捉えた人も多かったのかもしれない。
TV版の最終回が理解不能だったのではない。
当時の社会が、その問いを受け止めるための言葉を、まだ十分に持っていなかったのではないだろうか。
シンジたちは、アイデンティティをつくる途中の子どもである
忘れてはならないのは、シンジたちが14歳という、思春期の真っただ中にいる子どもたちであることだ。
思春期とは、すでに完成した自分を確認する時期ではない。
自分は何者なのか。
自分は何を望んでいるのか。
親や周囲から与えられた価値観を、そのまま受け入れてよいのか。
自分は将来、どのような人間として生きたいのか。
他者との関係の中で迷い、試し、時には反発しながら、自分なりの答えをつくっていく時期である。
本来であれば、子どもには、さまざまな役割を試す時間が必要である。
失敗すること。
一度決めたことを変えること。
親の期待に反発すること。
友人との関係を通して、自分の別の一面を知ること。
「まだ分からない」と言うこと。
それらを繰り返しながら、少しずつ自分の人生を自分のものにしていく。
しかし、シンジたちには、そのような猶予がほとんど与えられていない。
彼らは、自分が何者なのかを探す前に、大人たちから役割を与えられる。
ファースト、セカンド、サードという呼び名。
エヴァのパイロット。
人類を守る子ども。
自分の名前や希望よりも先に、組織から与えられた役割によって存在を定義される。
シンジは、自分が何者になりたいかを考える前に、「エヴァに乗る者」として扱われる。
アスカは、優秀なパイロットであることによって、自分の価値を証明しようとする。
レイは、自分が何者であるかを自分で決める機会そのものを、ほとんど与えられていない。
三人に共通するのは、自分の存在価値を、自分の内側からつくるのではなく、大人や組織から与えられた役割によって確認しようとしていることである。
役割を果たせば必要とされる。
役割を果たせなければ、自分には価値がない。
これは、アイデンティティが確立した状態ではない。
むしろ、自分が何者であるかを探す成長過程を奪われ、役割によって自分を固定されている状態である。
彼らは弱いのではなく、成長を急がされている
シンジの迷いや逃避は、しばしば未熟さとして語られる。
しかし、14歳の子どもが、父親との関係に悩み、他者の評価に揺れ、自分の価値が分からず、重大な決断の前で迷うことは、異常なことではない。
むしろ、思春期の成長過程として当然に起こることである。
異常なのは、その子どもに世界の存亡を背負わせ、大人と同じ判断や責任を要求する環境の側ではないだろうか。
シンジたちは、未熟だから苦しんでいるのではない。
未熟であることを許されないから苦しんでいる。
まだ自分が何者か分からない時期に、「お前はエヴァに乗る人間だ」と決められる。
迷う時間を与えられない。
拒否すれば、ほかの誰かが傷つく。
逃げれば、責任を果たさなかったと見なされる。
役割から降りれば、自分の居場所まで失うかもしれない。
この状況で求められる「自己決定」は、あまりにも過酷である。
子どもに選択させたという形式だけでは、子どもの意思を尊重したことにはならない。
安心して迷えること。
断っても見捨てられないこと。
一度決めたことを変えられること。
自分の気持ちを言葉にする時間があること。
役割を果たせなくても、人としての価値が変わらないこと。
そうした条件が保障されて、初めて子どもは、自分の意思を形づくることができる。
第25話・第26話は、自己覚知の物語である
TV版の終盤では、シンジだけでなく、アスカ、レイ、ミサトたちも、自分自身の内面と向き合っていく。
自分は何を恐れているのか。
なぜ他者から認められたいのか。
なぜ傷つけられることを恐れながら、それでも他者との関係を求めるのか。
シンジは、エヴァに乗ることで他者から必要とされようとする。
裏を返せば、
エヴァに乗れない自分には価値がない。
人の役に立てない自分は、ここにいてはいけない。
と感じている。
しかし、それはシンジという人間の本質なのだろうか?
シンジは自分を見ているようで、実際には、父親や周囲の人々から向けられた視線を通して、自分を見ている。
他者に認められなければ、自分を認めることができない。
必要とされなければ、自分が存在してよいと思えない。
TV版第25話・第26話で行われているのは、この自己理解の構造を一つずつ問い直していく作業である。
ソーシャルワークにおける自己覚知とは、自分のことを完全に理解することではない。
自分がどのような経験によって現在の価値観を形成し、どのような場面で傷つき、何を恐れ、他者に何を求めているのかを知ろうとすることである。
シンジもまた、
「自分には価値がない」
という考えが、絶対的な事実ではなく、自分の経験と人間関係の中で形成された、一つの自己理解であることに気づいていく。
自分が分かれば、他者にやさしくできる
作中では、綾波レイが、自分を嫌っている人は、他者を好きになったり信頼したりすることが難しいという趣旨のことを語る。
そしてミサトは、自分が分かれば、他者にやさしくできるのではないかと問いかける。
これは、ソーシャルワーカーにおける自己覚知の神髄の一つではないかと思う。
支援者が、自分がなぜ腹を立てるのか、なぜ特定の人を助けたくなるのか、なぜ相手の失敗に耐えられないのかを理解していなければ、自分の感情を相手の問題だと取り違えてしまう。
「この人にはやる気がない」と思ったとき、実際には、自分の支援が届かないことへの不安を感じているのかもしれない。
「この人は依存的だ」と感じたとき、自分が頼られることで必要とされたいと思っている可能性もある。
「本人のために決めてあげなければ」と思ったとき、自分が本人の失敗を見ることに耐えられないだけかもしれない。
自己覚知とは、自分の内面を分析して満足することではない。
自分の傷、価値観、恐れ、承認欲求が支援に入り込んでいることに気づき、相手の人生と自分自身の問題を分けることである。
だからこそ、自分が分かれば、他者にやさしくできる。
ここでいう「やさしさ」とは、何でも認めることではない。
相手を自分の価値観だけで裁かず、その言葉や行動の背景を理解しようとする姿勢である。
自分の弱さを否定している支援者は、利用者の弱さにも厳しくなりやすい。
自分の「逃げたかった」という感情を認められない人ほど、他者にも「逃げるな」と言ってしまう。
逆に、
自分にも弱さがある。
自分も理解してほしいと思っている。
自分も他者の評価を求めることがある。
と気づくことができれば、相手の言い訳を、怠慢や甘えとしてすぐに切り捨てずに済む。
私が相談支援において「言い訳大歓迎」と考える理由も、ここにある。
言い訳の中には、その人の恐れ、苦しさ、環境との不一致、守りたい価値観が表れている。
自己覚知は、支援者自身のためだけに行うものではない。
利用者を支援者の価値観から守り、本人の自己決定と人権を守るための専門職倫理でもある。
TV版は、セルフケアの物語でもある
シンジは最後に、急に自分を好きになったわけではない。
シンジの思考は、
「僕は僕が嫌いだ」
という自己否定から始まる。
しかし、そこから、
自分を好きになれるかもしれない。
ここにいてもよいかもしれない。
という可能性へ変化していく。
重要なのは、「自分が好きだ」と断言していないことである。
「好きになれるかもしれない」と、未来の可能性を残している。
セルフケアとは、自分を無理に好きになることではない。
自分の苦しさに気づき、自分を傷つけ続けている考え方や役割から少し距離を取り、自分が生き続けるための可能性を残すことである。
シンジは、それまで、
戦わなければならない。
逃げてはいけない。
役に立たなければならない。
と自分を追い詰めていた。
TV版の最終回で解体されるのは、この内面化された命令である。
シンジは「もっと頑張れる自分」になったのではない。
戦い続けなければ自分には価値がない、という前提そのものを疑えるようになった。
それが、TV版におけるセルフケアの出発点だったのではないだろうか。
「価値が欲しい」は、人間の尊厳の問題である
シンジが求めている「価値」には、二つの意味が混在している。
一つは、
エヴァに乗れるから価値がある。
世界を救えるから必要とされる。
という、機能としての価値である。
もう一つは、
何かができなくても、一人の人間として理解され、大切に扱われたい。
という、人間としての尊厳である。
シンジは前者によってしか、自分の存在を確認できなくなっている。
エヴァに乗れば認められる。
乗らなければ、居場所を失う。
そこでは、「自分はどうしたいか」よりも、「期待された役割を果たせるか」が優先される。
しかし、人間の価値は、能力や生産性、役割を果たせるかどうかだけによって決まるものではない。
シンジが置かれた環境では、
役に立つ自分には価値がある。
動けない自分、逃げたい自分には価値がない。
という条件付きの承認が繰り返されている。
最後の「僕はここにいていいんだ」は、
僕は役に立つから存在してよいのではない。
僕の価値は、エヴァに乗れるかどうかだけでは決まらない。
という、人間の尊厳の回復として読むことができる。
「僕を理解してほしい」は、意思決定への参加を求める言葉である
「僕を理解してほしい」というシンジの願いも、単なる承認欲求として片づけることはできない。
それは、
自分の苦しさを、他人の都合で解釈しないでほしい。
自分が何を感じているのかを聞いてほしい。
自分抜きで、自分の人生を決めないでほしい。
という訴えでもある。
つまり、自分に関する決定の中に、自分の声を戻してほしいという要求である。
シンジは、形式上、自分でエヴァに乗ることを選んでいるように見える。
しかし、その選択の背景には、
父親から認められたい。
誰かに必要とされたい。
自分が乗らなければ、ほかの人が傷つく。
逃げれば非難される。
拒否すれば居場所を失うかもしれない。
という圧力がある。
この状況での「乗ります」を、完全に自由な自己決定と呼べるだろうか。
ソーシャルワークにおける意思決定支援は、単に「本人が選びました」と確認することではない。
選択肢があること。
必要な情報を得られること。
断っても不利益を受けないこと。
迷いや気持ちを表明できること。
選ばなかった場合にも、居場所と尊厳が守られること。
そうした条件があって、初めて意思決定は実質的なものになる。
「僕を理解してほしい」とは、自分の気持ちを聞いてほしいという願いであると同時に、自分の人生の決定主体として扱ってほしいという、人権上の訴えでもある。
社会は「本人の声」を守る制度を、後からつくり始めた
TV版『エヴァンゲリオン』が放送されたのは1995年である。
その数年後、日本の福祉制度では、「権利擁護」が理念だけではなく、具体的な制度やサービスとして形になり始めた。
1999年10月には、現在の日常生活自立支援事業につながる「地域福祉権利擁護事業(現在の日常生活自立支援事業)」が始まった。
これは、判断能力が十分ではない人に対して、周囲が一方的に生活を管理する制度ではない。
利用者との契約に基づき、福祉サービスの利用手続きや日常的な金銭管理などを支援し、本人が地域で自分の生活を続けられるようにする事業である。
さらに2000年4月には、新しい成年後見制度が施行された。制度の見直しでは、本人の保護だけでなく、自己決定の尊重、残存能力の活用、ノーマライゼーションとの調和が掲げられた。
もちろん、制度が始まったからといって、本人の自己決定や人権が直ちに完全に守られるようになったわけではない。
成年後見制度にも、本人の権利を制限しすぎる危険性や、意思決定支援との関係など、現在まで続く課題がある。
それでも、日本社会が1990年代の終わりから2000年にかけて、
「本人を守るために、周囲が決める」
という発想だけではなく、
「本人の意思を尊重し、本人が自分の生活を選べるように支援する」
という方向へ、制度上の一歩を踏み出したことは重要である。
そう考えると、1995年のシンジによる、
僕を理解してほしい。
僕には価値があるのか。
僕はここにいてもいいのか。
という問いは、その後の日本社会が権利擁護や自己決定の問題として制度化していく問いを、少し早く表現していたともいえるのではないか?
TV版の最終回が早すぎたというのは、単に心理描写が難解だったという意味ではない。
本人の価値、意思、尊厳をどのように守るのかという問いを、日本社会が制度として言葉にし始めるよりも前に、作品として提示していたということなのかもしれない。
現実と真実は同じではない
TV版では、「現実」と「真実」が繰り返し問い直される。
ここでは、私は二つを次のように呼び分けたい。
現実とは、他者を含めて存在している出来事や状況である。
一方、
真実とは、その現実を自分がどう経験し、どのように意味づけたかによって生まれるものである。
同じ出来事でも、人によって真実は異なる。
ある人にとっては「見捨てられた出来事」であり、
別の人にとっては「守るために離れた出来事」であるかもしれない。
どちらかが単純に嘘なのではない。
それぞれが、自分の経験と限られた世界観から形づくった真実である。
ただ、自分にとっての真実は、一つしかないように感じられる。
そのため、人は自分の真実を、現実そのものに置き換えてしまう。
シンジにとって、
自分は誰からも必要とされていない。
自分は嫌われる。
自分には価値がない。
という認識は、単なる考えではない。
シンジには、それが世界の現実として見えている。
しかし、それはシンジが経験してきた人間関係によって形成された「シンジの真実」であり、現実のすべてではない。
ここで大切なのは、
自分の真実は本物である。
しかし、自分の真実だけが現実のすべてではない。
という二つを同時に認めることである。
本人に「それは思い込みだ」と言えば、その人の経験を否定してしまう。
一方で、
本人の真実を唯一の現実として固定すれば、別の見方と出会う可能性を閉じてしまう。
本人の真実を尊重しながら、それが唯一の見方ではない可能性を一緒に探す。
これが、対話であり、ナラティブなソーシャルワークの姿勢ではないだろうか。
人は、自分の世界観が限られたものであることを、どこかで知っている。
だからこそ、他者の語りを聞き、自分とは異なる経験に触れ、自分だけでは到達できない、より深い真実を知ろうとする。
より深い真実とは、唯一の正解に到達することではない。
自分の真実が不完全であることを認め、他者との対話によって理解を更新し続けることである。
僕は僕だが、ほかの人たちが僕の心をつくっている
シンジは、自分という存在について考える。
僕は僕である。
しかし、ほかの人たちが自分の心をつくっていることも事実である。
これは、個人と環境の両方を同時に見るソーシャルワークの核心に近い。
「僕は僕だ」という言葉は、他者に吸収されない個人の尊厳を表している。
一方で、「ほかの人たちが僕の心をつくっている」という認識は、人間が関係から完全に独立して存在するわけではないことを示している。
自分の価値観、言葉、自己像、傷つき方、他者への期待は、家族、友人、学校、職場、社会から受け取ったものによって形づくられている。
シンジの「エヴァに乗らなければ価値がない」という自己像も、本人の内面から突然生まれたものではない。
父親との関係。
母親の不在。
ネルフという組織。
周囲から求められた役割。
世界を救う責任。
そうした環境との相互作用によって形成されている。
だからといって、他者に形づくられた自分には意思がない、ということではない。
自分がどのような関係の中で形づくられてきたのかを知り、そのうえで、これからの自分を選び直す。
それが自己覚知であり、自己決定なのだと思う。
他者が見ている自分も、自分の一部である。
しかし、それだけが自分のすべてではない。
私は他者との関係によって形づくられている。
それでも私は、他者とは異なる私である。
この二つは矛盾しない。
なぜシンジは、考え方を変えられたのか
シンジは、なぜ、
「僕は僕が嫌いだ」
という自己否定から、
自分を好きになれるかもしれない。
僕は僕でしかない。
それでも僕でいたい。
僕はここにいていいんだ。
という方向へ、思考を変化させることができたのだろうか。
私は、シンジが自分を好きになろうと努力したからではないと思う。
変化できたのは、
「自分が嫌いだ」という認識を、動かしようのない現実だと思わなくなったから
ではないだろうか。
シンジの中で、
「僕は嫌われている」
という認識が、
「僕は嫌われていると思っている」
へと変化した。
この違いは大きい。
前者は、変更できない世界の事実である。
後者は、自分の経験から生まれた認識である。
認識であれば、他者との対話によって問い直すことができる。
さらにシンジは、自分が見ている自分だけが、自分ではないことを知る。
ミサトが見ているシンジ。
アスカが見ているシンジ。
レイが見ているシンジ。
友人たちが見ているシンジ。
それらは一致しない。
自分が嫌っている自分も自分である。
しかし、それだけが自分のすべてではない。
そして、
エヴァに乗る。
人の役に立つ。
必要とされる。
だから存在してよい。
という順番が、
まず自分がここにいる。
そのうえで、何をするかを選ぶ。
という順番に変わっていく。
存在を認めてもらうために、価値を証明するのではない。
存在が先にあり、役割はその後にある。
この順番の反転が、「僕はここにいていいんだ」につながったのだと思う。
「僕は僕でいたい」は、アイデンティティを取り戻す言葉である
TV版の終盤で、シンジは「僕は僕でしかない」「僕でいたい」という方向へ進んでいく。
これは、単なる自己肯定の言葉ではない。
それまでのシンジは、自分の存在を他者の期待によって定義していた。
父親に認められる自分。
エヴァに乗れる自分。
誰かの役に立つ自分。
他者から必要とされる自分。
そうした役割を一つずつ取り除いたとき、シンジには、自分が何者なのか分からなくなる恐怖が残る。
それでも最後に、シンジは「僕」として存在することを選ぶ。
エヴァに乗るから僕なのではない。
人類を救うから僕なのでもない。
他人に認められるから、僕が存在するのでもない。
役割を失っても、僕は僕である。
そして、他者によって自分が形づくられてきたことを認めながらも、これからどのような自分として生きるのかを、自分で選び直そうとする。
「僕は僕でいたい」とは、大人や組織に与えられたアイデンティティから、自分の人生の主体を取り戻す言葉なのである。
「おめでとう」は、回復の完成ではない
最後にシンジは、周囲から「おめでとう」と祝福される。
しかし、シンジの問題がすべて解決したわけではない。
父親との関係が修復されたわけでもない。
過去の傷が消えたわけでもない。
他者への恐怖や自己否定が、完全になくなったわけでもない。
それでもシンジは、
自分を否定する以外の見方があるかもしれないと気づいた。
自分は変わることができるかもしれない。
自分を好きになれるかもしれない。
ここにいてもよいのかもしれない。
その可能性に気づいたこと自体が、「おめでとう」なのだと思う。
支援も同じではないだろうか。
問題が完全に解決したときだけ、回復が始まるのではない。
本人が、自分について別の物語を語れるかもしれないと気づいたとき。
自分の人生を選び直せるかもしれないと思えたとき。
今すぐ自分を好きになれなくても、
自分を消さずに生きてみようと思えたとき。
その小さな変化を、関係の中で承認する。
それが、TV版の「おめでとう」だったのではないだろうか。
おわりに―私たちは、子どもに「逃げちゃ駄目だ」と言い続けていないか
TV版『エヴァンゲリオン』が描いたのは、14歳の少年が弱さを克服し、強くなる物語ではない。
自分がなぜ自分を嫌っているのかを知ること。
他者から与えられた役割と、自分自身の価値を切り分けること。
自分が信じている真実だけが、現実のすべてではないと気づくこと。
他者によって形づくられてきた自分を認めながら、それでも自分として生きることを選び直すこと。
そして、今すぐ自分を好きになれなくても、
いつか好きになれるかもしれない。
ここにいてもいいかもしれない。
と思えるようになること。
TV版第25話・第26話は、そうした自己覚知、セルフケア、自己決定、人間の尊厳の物語だったのではないだろうか。
シンジたちは14歳である。
本来であれば、自分は何者なのかを迷い、いくつもの役割を試し、失敗し、考えを変えながら、少しずつ自分のアイデンティティをつくっていく時期である。
しかし、シンジたちには迷う時間が与えられなかった。
自分が何者になりたいかを考えるより先に、エヴァのパイロットという役割を与えられた。
断れば誰かが傷つく。
逃げれば責任を放棄したと見なされる。
役割を果たせなければ、自分の居場所と存在価値まで失うかもしれない。
その中でシンジは、自分自身に「逃げちゃ駄目だ」と言い聞かせ続けた。
しかし、これは本当にシンジ一人の問題だったのだろうか。
大人たちや組織、そして社会が子どもに与えた期待を、シンジが自分の内側に取り込み、自分自身を追い立てていたのではないだろうか。
TV版『エヴァンゲリオン』が放送された1995年から、30年以上が過ぎた。
その間、日本では、権利擁護、自己決定、子どもの権利、セルフケア、心理的安全性といった言葉が、少しずつ共有されるようになった。
制度や言葉の上では、私たちは本人の意思や子どもの権利を理解するようになった。
しかし、2025年の小中高生の自殺者数は538人となり、統計のある1980年以降で最多となった。
この数字だけから、自殺の原因を一つに決めることはできない。
子どもの自殺には、家庭、学校、健康、友人関係、経済状況など、さまざまな要因が複雑に関係している。
それでも、この数字は、死を選ばざるを得ないほど心理的に追い詰められる子どもが存在し、家庭、学校、地域、制度が、その苦しさを十分に受け止め切れていないことを示す、重い指標ではないだろうか。
現実の子どもたちに対して、私たちは今もなお、
学校に行かなければならない。
期待に応えなければならない。
迷惑をかけてはいけない。
弱音を吐いてはいけない。
みんなと同じようにできなければならない。
と、別の形の「逃げちゃ駄目だ」を押しつけてはいないだろうか。
子どもが学校へ行けなくなったとき、再び行けるようにすることだけを目標にしていないだろうか。
子どもが動けなくなったとき、本人の苦しさを理解するより先に、どうすれば元どおりに動かせるかを考えていないだろうか。
子どもが大人の期待とは異なる選択をしたとき、それを未熟さや甘えとして退けてはいないだろうか。
子どもを支えるとは、再び戦えるようにすることだけではない。
戦いから降りてもよいと伝えること。
今は決められないと言える時間を保障すること。
逃げても居場所がなくならないようにすること。
役割を果たせなくても、その子の価値は変わらないと示すこと。
そして、
あなたは何を感じているのか。
本当はどうしたいのか。
あなたは、ここにいていい。
と、本人の声を聞き続けることである。
シンジが最後にたどり着いた「僕はここにいていいんだ」という言葉は、本人が一人で自分を説得して生み出したものではない。
他者との関係の中で、自分が信じていた真実を問い直し、自分について別の見方があることを知り、自分の人生をもう一度選び直した結果として生まれた言葉である。
だから「おめでとう」は、問題がすべて解決したことへの祝福ではない。
自分を消さずに、もう少し生きてみようと思えたこと。
自分を好きになれる可能性を閉じなかったこと。
自分の人生を、自分のものとして取り戻し始めたこと。
その小さな変化を、他者が関係の中で承認した言葉なのだと思う。
私たちは、子どもたちに「逃げちゃ駄目だ」と言う前に、問い直さなければならない。
子どもが逃げなくてもよい環境を、私たちはつくっているだろうか。
逃げたとしても、安心して戻れる場所を用意しているだろうか。
役割を果たせなくなった子どもに対して、あなたの価値は失われていないと伝えられているだろうか。
本人のためと言いながら、本人の声を聞かずに人生を決めてはいないだろうか。
そして、子どもが、
「僕は僕でいたい」
「僕はここにいていいんだ」
と思える社会を、私たちは本当につくれているだろうか。
TV版『エヴァンゲリオン』が投げかけた問いは、30年前の作品の中だけにあるのではない。
それは今も、私たち大人と社会に向けられている。
自己紹介
筆者は、福岡市で障がい者就労支援に携わるソーシャルワーカーです。障害福祉・児童福祉・生活困窮者支援といった複数領域にまたがる実践を行ってきました。
職業指導員、放課後等デイサービス、居宅介護、自立援助ホーム、生活困窮者支援に加え、プライベートにおいても約10年間、障害児の支援に継続的に関わってきました。
制度内外の両方で支援に関わってきた経験から、発達・心理・生活・就労といった課題が相互に影響し合う構造を実感しています。
現在は就労継続支援B型事業所の生活支援員として、こうした複合的な視点をもとにアセスメントを行い、支援の再構築に取り組んでいます。
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