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ヒューマノイドと出合ったとき。

(作品の内容のねたばれを含みます!)

前回noteでは、先日公開の映画作品
『箱の中の羊』を観たことを申しました。
そのなかで、ぼくは映画ホームページ
ストーリーとして描かれていた文章を読みながら、
亡くなった息子・かけるそっくりのヒューマノイドが到着した日、
彼に対して、「おかえり」と駆け寄り
喜びを隠さない音々おとね(綾瀬はるかさん演)、
戸惑いを隠せない硬い表情の健介(千鳥・大悟さん演)、
という、夫婦の両者における
「喜びを『隠さない』妻」と
「戸惑いを『隠せない』夫」という対比が
ことばによる説明としても面白いし、
映画のシーンでも印象的だったなあ、
とのように申したのですが、このことについて
もうすこしだけ考えてみたいと思ったんだった。

たとえば、息子を亡くした夫婦のもとに
息子の姿をしたヒューマノイドがやって来る、
という近未来的な物語において、現代の
生成AIがさらに進化し、人間の身体を持ち
ことばや声だけでなく表情や所作までも人間と同じ、
なおかつ、亡くなった息子そっくりの姿である
ヒューマノイド(人型ロボット)と出合ったとき、
人はどのように感じるんだろう?
というような、これは、いわば
壮大な思考実験のようにも思えた。
そして、その場面において、
妻は喜びを「隠さない」、
夫は戸惑いを「隠せない」、という
登場人物の対比が生まれた。

このとき、その説明の中で両者とも
【隠さない/隠せない】という
「隠す」という動詞が使われている、
というのが、面白い、と思いました。
それは、つまり、
妻は喜びを、及び、夫は戸惑いを
「表現している」わけではないのだから。

映画を観ながらぼくが感じていたのはね、
息子そっくりのヒューマイドが到着した日、
たとえば、綾瀬はるかさん演じられる音々は
ある意味では、どこか執拗とも言えるぐらい
ヒューマノイドに対して、その存在が
亡くなった息子であることを確認されていた、
及び、千鳥・大悟さん演じられる健介は
そこに息子がいる、と思いたいけど、
でも、これは、いわゆる
「ルンバ」のごとくのロボットである、
って、頑なに思おうとされていた、
というふうにも思えるような気がしたのよね。

前回にて、ぼくはさらに
「いわば、その場面を観ながら
 どちら側に対しても違和感を憶える、的な。
 この感覚って、ぼくはあんまり
 感じたことない種類のものだなあとも思えた。」
とも申しあげましたが、つまり、
うまく言えないんですが、その
ぼくが思った「違和感」とは、そういうような
妻は喜びを隠さず、夫は戸惑いを隠せず、
つまり、両者がその感情を
「表現している」わけではない、
というところから来ているのかもしれないか。

はたまた、人間は、とくに、大人は
「喜び」や「戸惑い」というような気持ちを
隠しながら生きることが肝要なのやもしらない、
とも思ったんだった。つまり、
喜びも、戸惑いも、人間にとって
大切な感情なのだとしても、
それらが、あまりに表面に出過ぎてしまえば
その感情に行動が支配されることもありうる。
だからこそ、大人は、なるべく
そのような感情を外へ出さない、
ようにしているのやもしらない。しかし、
『箱の中の羊』の登場人物である音々と健介は
亡くなった息子そっくりのヒューマノイドを
目の前にしながら、喜びや戸惑いの感情を
【隠さない/隠せない】
というふうになってしまった。

そう考えてみると、今の時代においても
多くの人が生成AIサービスを使いながら、
生成AIを目の前にするとき、ぼくとかは
いまだに、そこで、得体の
知れないような存在と対面した、的な。
つまりは、その感情が自分自身の中で
よくわかってないというふしもあるから。

逆を言えば、生成AI等の「ロボット」と
「人間」の違いというのも、ぼくは
よくわからないと言えばよくわからないな。
みたいなことを、是枝裕和監督の映画作品
『箱の中の羊』を観ながら、
ぼくは感じていたのだとも思うのよね。

令和8年6月8日