小説|夏の終わりに|第7話|母の面影
第7話 母の面影
「どうして……。なつを追いかけることもできない……」
膝から崩れ落ちると、その場で嗚咽を漏らした。
ふと気付くと、私は包丁を見つめたままの体勢で台所に立っていた。
あれ? また昔の……記憶?
長い息がもれた。
あのときの私も、同じことを考えていたんだ……。
ゆっくりと包丁をまな板の上に戻した。
すぐ横で、なつが心配そうな顔で私を見上げていた。
「ごめんね、なつ。さあ、夜食を作ろう」
元気な声を出そうとしたが、思いのほか声のトーンが上がらなかった。
手を動かしつつも、昼間のことを思い出していた。
「母親が、子供があの世に帰るのを止めている」
おばあちゃんの言葉が、ずっと耳から離れない。
私が死ねば、なつと一緒にいられるかもしれない。
ふと、そんな考えがよぎりもした。
でも、私が死んだとして、また、なつを置いて行ってしまったら?
そしたら、なつはどうなる?
それなら、いっそ私が生きている間に、なつをあの世に帰すべきではないのか……。
でも、それでは、私はなつと一緒にはいられなくなってしまう……。
数日が過ぎた。
体調はもうすっかり戻っていた。
おばあちゃんとも、普通に話している。
それどころか、まるでずっと昔から、なつと私とおばあちゃんの三人で暮らしていたかのようだ。
争いごとは翌日に持ち越さない。
母さんがそういう人だったのは、おばあちゃんがそうだったからなのだろう。
私もそれを受け継いでいるのかもしれない。
なつと私という一対一の関係の中に、おばあちゃんが加わることで、私の心は少し落ち着いている。
あれから、過去の人生の記憶がフラッシュバックすることはなくなった。
居間でテレビを見ていると、おばあちゃんが、麦茶を持ってやってきた。グラスを三つ置くと、まだ冷気を放つピッチャーから注いでいく。
「これね、韓国で食べておいしかったのよ」と、韓国海苔のパックを開けた。
「おばあちゃん、海外に行ってたのって、韓国だったの?」
「そうよ。言わなかった?」
「海外とは聞いていたけど、場所までは言ってなかったかも」
「あら、そうだった? 最近ね、韓国ドラマにハマってね。友達と話しているうちに、行ってみようってことになったのよ」
おばあちゃんの話を聞きながら、ひと口ほおばると、海苔の香りが口いっぱいに広がった。
「これ、おいしいね。でも、おばあちゃん、もうちょっと後に帰ってくるって話じゃなかったっけ?」
「そうなのよ。でも、夜ホテルで寝てたらね、夢の中でめぐみが必死に私に泣きついてくるのよ。目が覚めてもそれが妙に気になってねぇ。急用ができたって、私だけ先に帰って来たのよ」
「そうだったんだ……。ごめん、私、おばあちゃんに泣きついたかも」
この家に来て、なつが幽霊だと分かった時、おばあちゃんに祈るような気持ちで電話したことを伝えた。
「ああ、それね、たぶん。まあ、でも韓国旅行も堪能できたし、あなたにも、なっちゃんにも会えたから、よかったわ」
ふふと笑って韓国海苔をつまもうとして、おばあちゃんの手が止まった。
「あら、嫌だ。私ったら仏さんにお供えするの忘れてたわ。めぐみ、これ仏さんにお供えして」
おばあちゃんは、韓国海苔をパックから出すと、二つの小皿に入れた。
「わかった。このままお供えすればいいのね?」
「ええ。久しぶりに帰って来たんだから、あなたのおじいちゃんとお母さんに、ちゃんとお参りしてきなさい」
「うん、わかった。初日に簡単にお参りはしたんだけどね」
私は仏壇の前に座ると、お皿を二つお供えした。
お線香に火をつけ香炉に立てる。チーンとおりんを鳴らすと、手を合わせて目を閉じた。
お参りを終えて、立ち上がろうと手をつくと、指先が何かに触れた。
ん?
仏壇の前の小さな机の下を覗いてみる。
なんだろう?
引っ張り出してみると、少し埃をかぶった大きな封筒が出てきた。
表には何も書かれていない。
中を覗いてみると、大学ノートが何冊か入っていた。
一冊取り出して開いてみる。
「あ、これ母さんの字だ」
母さんは達筆で、いつも草書体みたいな少し崩した文字を書く人だった。
流れるように書くので、私は子供の頃、よく「読めない」と文句を言っていたものだった。
子供時代の思い出がよぎると、胸の奥がきゅっと苦しくなるような、温かな懐かしさを覚えた。
ノートを読んでみると、「今日のナスの揚げびたしは我ながらよくできた。レシピをここに記す」だとか、「そろそろ寒いので、お布団を打ち直そうか」とか、テレビで見たドラマの感想だとか、日常の些細なことが日記のようにつづられていた。
私が小学生だった頃、母さんは急に倒れて、そのまま亡くなってしまった。
こうやって母さんの言葉に触れるのは、それ以来だった。
どうしようもない懐かしさと共に、私の知らない母さんを見ているような、なんとも不思議な感覚があった。
私にとっての母さんは、子供の頃の私が見ていた「母」の面影だった。
けれど、このノートの中の母さんはそれだけじゃない。
色んなことを思ったり、悩んだりしながら生きている、ひとりの女性だった。
そんな当たり前のことに、今さらながらに気付かされた。
パラパラと読み進めていくと、「めぐみ」という文字が目に入った。
「めぐみが泣きながら帰って来た。理由を聞いても答えようとしない」
「もう少し様子を見てみようと思う。だけど、ちゃんと向き合わなきゃいけない」
「この子のために、私ができることって何だろうか。もっと考えないと」
そんなこともあったかな。
心配かけちゃったんだね。ごめんね、母さん。
その下にはこう書いてあった。
「この子が幸せでいてくれるなら、私はどうなってもいい」
一瞬、呼吸が止まった。
