日本近代文学会春季大会特別企画「アディクションを書く―自己統制・逸脱・制度」行ってみた。
日本近代文学会の特別企画に参加した。報告は縦書き資料を早読みする形式で、門外漢には難解であった。企画はアディクションを近代社会の規範や制度との攻防として捉え直し、当事者の手に取り戻す議論であった。アディクションは自律を取り戻す生存戦略であり、ケアは当事者の応答可能性を残した伴走であると考える。専門外の学会参加は貴重な経験であった。
SNSで見かけたので、行ってみた。アディクションが関心事の一つである私にとって、多角的視点を得られる刺激的な内容であった。とはいえそもそも「近代文学会」というのがどういう会なのか?から分かってないので、変なことを書いてしまうかもしれない。
日本近代文学会(Association for Modern Japanese Literary Studies)
日本語で「文学」と書くとき、私にはそれがどのような学問なのかを説明する知識がない。
英語で「Literary Studies」とあるので文学作品を精読し、その背景にある歴史、文化、人間性等を探求するみたいな感じなのだろうと理解している。
文化人類学会や日本社会学会と同じテンションで参加したら、ジャケット・シャツ・(比較的)革靴の方が基本で場違い感を醸してしまう。
発表資料として投影されるのは概ね「縦書きの文章」で、「資料」として「強調表示の付された様々な文献引用」が並んでおり、これを読む形で「報告」が展開される(現象学会とか日本社会学会の一部もこの形式だったが、横書きだった気がする)。
私が門外漢だからなのだろうが、「ちょっと難しい本を早めに読み上げる」感じで追いつくのがやっとである。
「資料Xにあるように・・・・」と断りを入れながら、主に強調表示の付されたところを読まれるのだが、瞬時にはどこを読んでいるのか分からない。
オーディエンス側は、印刷した発表資料を持参して直接そこに書き込んだり、PCやタブレットで打ち込んだり書き込んだり様々である。
中には話を聞きながらダイアグラムを書き上げていく方もあり、さすがプロは違うな、と圧倒される。
特別企画だからなのか、会場が広大だからなのか分からないが、質問等は所属と氏名を明記して「紙に書いて休憩時間に提出」し、全員の報告の後に行われる総合討論の場で「読み上げられる」という形式。内容を聞いていても、本に書かれているかのような文章で驚く。
そんな短時間で、大した修正も加えずに人様に読ませるような文字も文章も書けない私は気後れする。
特別企画の内容
今回の特別企画の目的は以下のように書かれている。
本企画では日本近現代文学におけるアディクションについて考えることを通じて、規範化された制度を捉え直し、境界を攪乱する言語表現のダイナミズムとその批評性を明らかにする。これらの議論を通じて、アディクションに纏わるスティグマを解きほぐすことを目指していきたい。
アディクションについて、自立した/責任ある主体という近代的個人像からの逸脱として批判する視点や、根本原因を社会や資本主義原理に見出したりする視点はこれまでに触れてきた議論でもよく見てきた。
これに加えて、薬物やポルノに対するアディクションを資本主義経済における生産形態のモデルと位置付ける「薬物ポルノ体制」(P・B・プレシアド『テスト・ジャンキー』2023年)を援用しつつ、「書くこと」の自律性や暴力性という議論も加えられる。
最近、エスノグラフィーを「読むこと」・「書くこと」について色々と考えていたところでなかなかタイミングの良いお題である。
「報告」を聞いてみて
とは言え、やはり門外漢。聞いていてとても難しい。
信田さよ子氏のこれまでの仕事は今までも折りに触れて学んでいたのだけど、改めてご本人の講演を聞くと改めて理解が深まる。
過去から一貫して「あなたが悪いんじゃない」という視点で様々を語り、アダルトチルドレン論では「予定調和的家族像」、アディクション論では「自己責任/怠惰論」みたいな感じで規範的なものから少し「ズラす」ような、アナキズム的態度を感じていたので、今回のテーマにピッタリだなと感じる。
*特に、戦争トラウマ(満州)が依存症やD Vを引き起こし、アダルトチルドレンやアディクトを産むという連鎖の視点には改めて唸らされる。
そして、拙い理解では今回の登壇者4名の話は、アディクションを単なる個人の「病理」や「反社会的行為」としてではなく、近代社会を支える「自己統制」という規範の限界や、それをコントロールする「制度(薬物ポルノ体制)との攻防」として捉え直そうとしている点で一致しているように感じる。
そして、共通してアディクションを「意志の欠如ではない」としており、社会が「逸脱」と呼ぶ行為を、いかに当事者の手に取り戻すかを議論しているように聞こえた。
とは言え、本当に「難しめの本を結構な速さで朗読するレベル」なので何が分かっているのか、いないのか、自信がない。むしろ、発表要旨を読んでもらった方が良いレベル。
総合討論で考えたこと
総合討論も慣れない私には圧倒的ハイレベルなわけだが、聞いていて考えたこと・思ったことを記しておく。
そもそも私は、アディクションというのは「どうしようもなさ」に対する生存戦略の二次被害だと思っている。
つまり、自分ではどうしようもない状態に追い込まれて、とりあえず「どうしようもない」と思っている自分を消したりするために、依存し、コントロールを失って、問題化して「依存症」になる。
これは、自己治療仮説(Khantzian EJ & Albanese MJ 2008)やらにも通じることだと思う。
そうだとすれば、そもそもアディクション自体は「別の方法で自律を取り返す」方法であり、信田氏がうっすら触れたように「アナキズム」仕草と同じような実践なのかもしれない。
今日の田村美由紀氏発表でも引用されていた赤坂真理氏のようなアティテュードなんかは、特にそう思う。
よくある用語を疑え。たとえば依存症(アディクション)からの「回復」。依存症にはもともと、がんばりすぎて燃え尽きた結果とか燃え尽きないためにした自己救済のようなところがあったと思う。そこから「回復」と言ったときに、今度は「回復いい子」になろうと努力しすぎることがある。
— 赤坂真理 (@MariAkasaka) September 7, 2022
「ケアをひらく」シリーズからの引用や言及が多かったが、あのシリーズで語られるいわゆる「当事者」の方々の言葉には力がある。
そうやって考えると、「アディクションを書く」というのは「苦しみながらもこういう方法を自分は見つけて、今、こうしている」という後方視的な自己肯定のような力があるのかもしれない。
そういう意味では、マリリン・マンソンも同じだと勝手に思っている。
「どうしようもなさ」が極まって、アディクトになった。
それによって、コントロールが取れなくなり、「依存症」になった。
誰に何を言われても、それを抱えたまま戦略的に生きていくための後方視的な自己肯定。
その過程を歩く当事者に対して「やめろ」、「治療しろ」みたいなことすら言わず、スリップしたりすることもひっくるめて付き合っていく。
常に、当事者の(黙る・無視するも含めた)「応答可能性」を残しておくこと。そういう伴走方法というのが、アディクションに対するケアなんじゃなかろうか。
それは、断酒会の「言いっぱなし・聞きっぱなし」とか、先日聞いた昭和医科大学烏山病院の実践の話にも通じる気がする。
おわりに
書き出してみると、結局読んでいておもろいのは「フィールドノート」みたいな部分だけなのかもしれない、と思った。
なんにせよ、「報告」を聞いてあれこれアディクションについて考える示唆を得られているので、非常に面白かった。
専門外の学会に行ってみることはカルチャーショックに満ち溢れていて、貴重な経験になるな、と毎回思う。
