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【創作大賞】この恋が叶いませんように 〈1.きぃくるいそうになる〉

【あらすじ】大人の恋はみっともないほどいいと思う――。書店のパートをしている四十歳の永原あやは上司の藤吉さんに惹かれている。夫も子も大切にしたいのに。藤吉さんは社内不倫していたという噂があるのに。二十六歳で副業が美容系インフルエンサーの野中ちゃんにはパートに甘んじるあやを何かにつけ見下してくる。3年前、あやは副店長だった。でも、着任直前に流産。夫からは「大げさにしないほうがいい」と突き放され、適応障害で会社を去った。それを救ったのが藤吉さんだった。藤吉さんに恋をすることで生きてこられた。でも、野中ちゃんがSNSで「上司に言い寄られた」と藤吉さんを告発して――。どうか、この恋が叶いませんように。

あらすじ

第1話「きぃくるいそうになる」

 十二時に予約した満月堂に十一時五十二分に着いたのに、もうおばさま方がわんさかいた。その中に藤吉さんも野中ちゃんも見当たらない。
 親切なひとが「予約でもいったん並ぶみたいですよ」と少し離れた別店舗の前を指さした。「満月堂のお客様はこちらにお並びください」とゴシックで印字された紙がポールに貼られている。別のお店の前に大胆だなオイと思ったけれど、そのお店は十七時オープンの立ち飲み屋さんだからうまいこと取り決めしているんだろう。
 そこにゆらり蜃気楼みたいに藤吉さんが現れた。おばさま方の群れの中、頭ひとつ分抜き出ている。
「藤吉さん、藤吉さん、」
「ああ、永原さん」藤吉さんがゆっくりとこちらを向いて微笑んだ。
「こっちに並ぶみたいなんです」
「人気なんやね、ここ」藤吉さんはわたしの後ろについてきょろきょろしている。
 ささやかなひさしはあるものの、9月の残暑は防げない。びかっと照り付けるそれに目を細めて「今日もぜんぜん暑いですね」と言ってみる。
「おいで」
 え、と振り向くと、藤吉さんが後ろのほんのわずかな影に立って、手招きしてる。左手は目の上にかざし、右の長い指の清潔な爪の大きな手のひらで、ちょいちょい、とわたしを呼んでいる。

 やめてくれ。

 胸が、いろはすをいっせーのーでで踏んだように一瞬でぐしゃぐしゃになった。殉教者のようにうなだれて藤吉さんのほうに吸われていく。
 待機場所は太陽の真向かいだからひさしの影はほんとうにちょっぴりで、藤吉さんの影はわたしのほうじゃなくて背中側に少しあるだけで、なんのUV効果も遮熱効果もない。藤吉さんもそう思ったらしく、少しすまなさそうな顔をして「ほんまに暑いなあ」と言った。わたしは背が低い方ではないけれど、藤吉さんは184センチあるから見上げる格好になる。昨日白髪染めしといてよかった、と思うと同時に、何回洗っても取れなかった白髪染めの匂いを気づかれたら、と焦る。「6週間の色持ち」という謳い文句に惹かれて新しいメーカーに手を出した自分を呪う。けれど藤吉さんが着てるシャツのボタン糸のほつれまで見えるこの場所から一歩も動きたくない気持ちもある。

 やがてお店の人が呼びに来て無事にテーブルに通された。野中ちゃんから、「今向かってます」とLINEがきたのがトップ画面でわかったけれど既読をつけずに「野中ちゃん、今向かってるんですって」と言った。藤吉さんはそれにうんともすんとも反応せず、
「せやせや、これ、あげるわなあ」とうれしそうにスポーツバッグから大きな林檎を取り出した。
「え、どうしたんですか」
 福太の頭くらいもある立派な林檎が緩衝材のあみあみに包まれている。
「実家から昨日送られてきてん」
 そこに野中ちゃんが「すいません、道ちょっと迷っちゃって」と現れ、藤吉さんはうきうきと野中ちゃんにも林檎を渡す。わたしのより少し小さい。そんなことに意味なんかないのに、意味を見出そうとしてしまう。
 いやいや、ビニール袋かなんかに入れてくださいよ、と突っ込もうか迷って言わないでおく。野中ちゃんもまた、たじたじという顔をして、なにか言おうとしてでも言わない。藤吉さんの不思議さに合わせられる自分でいたいと、ひとに思わせる力が藤吉さんにはある。

 満月堂の秋限定栗きんとんパフェをみんなで味わったあとは、藤吉さんは本部に戻り、野中ちゃんはデパ地下コスメを見に伊勢丹へ行くと言って別れ、わたしはふつうにスーパーに寄って、鶏モモ肉の三枚パックとエリンギとまいたけとねぎを買った。
 エコバッグから飛び出たねぎを見るたびに思う。おばさんになったなあって。二十代でも三十代でもねぎを飛び出させていたはずなのに、今になって隠したくなる。だって想定より似合いすぎる。

 保育園におむかえに行ってぞう組の教室で「福ちゃーん」と呼ぶと、福太がパッと顔を上げて作りかけのレゴと私の間で二往復迷ってから、結局こちらへ駆けてきて抱きついた。
「レゴ、かたしておいでよ」
 そう言うと、ママ、おむかえはやかったねえ、とちょっと残念そうに言う。だって福ちゃん、今日早くお迎え来てねって言ったからママ頑張ったんだよ、と言い返すと、そんなこといってないよ、と平気で言う。
 レゴの作りかけは保存できないルールだ。おもちゃはみんなのものだから。組み立てたロボットだか恐竜だかを福太の手がかちゃかちゃと分解し、あっけなくバラバラにしていく。とくに不満そうではない。そういうものはそういうもの、と割り切っている。わたしの方がよっぽど世の中にあっぷあっぷしてる。
 自転車の後部座席に乗った福太が、運動会の練習をしたことを話している。相変わらず要領を得なくて、よさこいを踊ることはわかったのだけど、そのほかの演目はよくわからない。
「あのねーおおきくねーまるをねーおおきくねーみんなでねーあのねー」
 シーツにアイロンを滑らせていくようだと思う。急いてアイロンをきつく押し当てるとシーツの波がアイロンの進行速度にあらがって突っかかってしまう。多少の波は気にせずに心持ちアイロンを浮かして進めば、シーツのしわはやんわりとのびていく。だから子どもの言葉は実際、6割くらいで聴くのがちょうどいいのだ。

 今日も暑かったけれど空はすっかり秋だね。どうして秋は空が高く見えるんだろうね。

 そんなふうに話しかけてみようかと思う。その相手が福太じゃなくて、藤吉さんだということにハッとして、いや待てそれはさすがにひどすぎる、と自転車をギッと止める。
 信号が青からちょうど赤に変わった。
 心細くなって、手を後ろに向けて開く。福太はいつものようにもみじの手をふんわり置いてくれる。小さく、やわい手を包んで、その小ささもやわらかさもたしかめる。指先でちいさな爪をなぞり、今夜切ってあげなきゃと思う。信号の向こうの空が水色から桃色へ染め上がりその合間をクリームのような雲が挟まってまるでパフェ。

――おいで
 突然、自分の影の下にわたしをかくまおうとした藤吉さんがフラッシュバックする。ぐしゃり、音をたてて胸がつぶれる。こんななんでもないことにあっけなく陥落する自分がかなしい。
 たとえば夫がモラハラとかDVとか浮気とか借金とかしている人だったらまだ理由がつく。けれど夫は至極まっとうないい人だ。まじめに働き、まじめに帰ってくる。洗濯物と洗い物をしてくれ、ゴミ出しもする。土日は福太としっかり遊ぶ。母の日にはカーネーションを、結婚記念日にはサムシングブルーの花束を、ホワイトデーには白の花束を買って、福太から渡すよう玄関前でこそこそ打ち合わせしている。わたしは虐げられたことなんてない。

――おいで
 藤吉さんの手を思い出す。筋張った長い指。爪の色がちょっと悪かった。たばことかお酒とか有害なものが詰まった悪さじゃなくて、有害なものがなさすぎる漂白された悪い色をしていた。

 今度、藤吉さんの手、触ってみようか。

 ふと思いつく。信号は青になり、福太の手を放し、足が勝手に動いて自転車を漕ぎ出す。福太はまだなにか喋っている。それに対して、へえ、とか、すごいね、とか繰り返す。

 きぃくるいそうになる。と言われたことがある。
――あやちゃんの手握るとおれ、きぃくるいそうになる

 十八歳ではじめて付き合った男の子だった。ファミレスのバイト先の。名前は黒島くん。向こうから告白してきて、ずっと彼氏がいないのがコンプレックスだったし、黒島くんは控えめで見た目も悪くなく、人生最初の彼氏にするに安全そうだったのでOKしたのだった。
 でも一回目か二回目のデートで手をつないできて、その時黒島くんは辛そうだった。ぐぅっと胸のところになにか詰まったような顔をして、思い詰めていて、怖かった。ぜんぜん漫画とは違って生々しかった。やたらと熱く湿った手も気持ち悪かった。
 どうしたの? と聞いたら、あやちゃんの手握るとおれきぃくるいそうになる、と言った。それで家に帰った後、メールした。
――付き合うのやめとこう

 あとから同じバイト先の山田くんが、黒島、泣いてたよ、黒島、永原さんの手握っただけで勃起したんだって。と言ってきたので、なんでそんな急にキモいこと、と怒ったら、山田君は、それだけ好きだったってことでしょ、と割と真剣な顔で言った。

 そのあと、誰かといい感じになるとわたしは自分から手をつないだ。手をつなぐと面白いほど男の子たちは苦しそうな顔をする。そして、わたしを大切にしはじめる。けれどその魔力はせいぜいもって一か月なのも知っている。
 その記録でいえば、夫が最長だった。一年付き合って、結婚して、福太が生まれるまでの約二年。夫は私が手をつなぐたび、毎回きゅっと肩があがるのがわかった。だから、藤吉さんのきれいで大きな手を触ってみたい。それで藤吉さんが苦しそうな顔になるところを見たい。きぃくるいそうになる、がまだ有効か、たしかめてみたい。

 だんなさんで試せばよくないですか?

 わたしの中の野中ちゃんが言う。
 もう四十にもなってまだ女として見られたいってキモくないですか。ほかに自己実現するところがないんですか。だから女がバカにされるんですよ。

 そうだよね。それに、夫や福太を傷つけるつもりはさらさらない。福ちゃんが一歳の時に夫7、わたし3のペアローンを組んで買った一戸建てにもずっと住み続けたい。今の生活と、藤吉さんとのあるかもしれないし、ないかもしれない愉しみは天秤にかけるまでもない。
 わたしは満ち足りたアラフォーで、だから藤吉さんの手を握ることはない。そう決めて、ねぎを油でじっくり炒める。


第2話 粘膜を介しない距離で
第3話 もう一度、膝を出す
第4話 どうして結婚したんですか
第5話 本の話をしましょう
第6話 名前を呼んで
第7話 ドラマはいつ終わる
第8話 福音
第9話 藤吉さん、泣いたことあります?
第10話 残念ながら、それが恋
第11話(最終話) ふたりの花束

これはフィクションです。実在の人物、団体とは関係ありません。
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