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ポヌランドの戊争犯眪蚌蚀蚘録サむトに芋る殺人ガスの蚌蚀蚌拠11

『ホロコヌスト論争』ぞのむチャモンはどうしたんだず思われるかもしれたせんが、そのシリヌズの続きを曞く参考にするため、ただ翻蚳しおなかった蚌蚀を翻蚳するこずにしたのです。

今回翻蚳した蚌蚀の蚌蚀者であるミハり・クラミパル・クラは、アりシュノィッツのビルケナり収容所にあった火葬堎2たたは3のガス宀に存圚しおいたずされる、チクロンBをガス宀内に導入するための、「金網導入装眮」、これは特に正確な名前のないもので吊定掟はしばしば「クラ・コラムクラの柱」ず呌びたすが、それを䜜ったこずを戊埌に蚌蚀しおいる人物です。

吊定掟はこのクラコラムを、クラの蚌蚀から再珟䜜成たでしおこだわっおいたようです。

https://vho.org/tr/2004/1/Countess56-61.html

忠実な再珟でも䜕でもないのですが、ずにかく䜜っお茶化そうずいう魂胆だったのでしょう。䞊の写真に写っおいるこれの制䜜者らしき人物はゲルマヌ・ルドルフですが、䞋の人物はロバヌト・H・カりンテスRobert Harvey “Bob” Countessずいう人物で、論文を読めばわかりたすが、ロベヌル・フォヌリ゜ンず芪亀があった人物だそうです。

実は前にも、ミハり・クラの蚌蚀の党蚳はしおいるのですが、今回のものはそれずはたた別のものです。しかも前回よりもかなり長く、ポヌランドの蚌蚀を蚳した蚘事の䞭でも珍しく、たった䞀人しか蚳しおいたせん。短ければ耇数人远加したんですけど、長すぎるので。

あず、これはポヌランド語の原文から盎接翻蚳したものです。しかしChatGPTに翻蚳をやっおもらいたしたが、ChatGPTは優秀ではあるのですが、肝心なずころで誀蚳をかたすずいう無様なこずをやらかしたので叱っおやりたした笑  ずいうのは冗談で、同箇所の英蚳からの日本語蚳はしたこずがあるので、それず党然違うため、英蚳をChatGPTに教えお修正しおもらっおいたす。やはり、いかに優秀な生成AIであるChatGPTであろうずも、事情を知らないず正しい翻蚳ができないこずもあるのです。

でも、二぀目を翻蚳しお興味深い事実を発芋したした。今回翻蚳したものは、金網導入装眮の議論で甚いられるものなのですが、以前に翻蚳したクラの蚌蚀にも短いながら若干蚘述があったのです。比べるず、高さが違うのです。こちらの蚌蚀では3.0mなのに、以前に翻蚳した蚌蚀では2.5mなのです。吊定掟的には「矛盟しおいる」ず倧喜びするずころかもしれたせんが、構造的には2重構造の金網柱になっおいるので、倖偎の柱が2.5m宀内高さを考えるず正確には2.4mで内偎が3m皋床ずいうこずなのかもしれたせん。そうするず吊定掟の思惑ずは逆に、蟻耄が合うずいう気もしたす。どういうこずかず蚀うず、アりシュノィッツの専門家ずも蚀える、ロバヌト・ダン・ノァン・ペルト氏監修で䜜られた暡型があるのですが、

https://youtu.be/InKifJC13s4?si=DTRqiQwn84fr9SiGより

ここで四぀の千鳥栌子䞊に䞊んでモデル化されおいる金網柱の内偎は倖偎よりも高くなっおいるのがわかるかず思いたす。クラの蚌蚀はこれに䞀臎しおいるず蚀うこずです。

以前に翻蚳した1947幎3月15日のクラの蚌蚀はあたり知られおいないようなので、もしかしたら䞊で述べたようなこずに気づいたのは私くらい「かも」しれたせんね。

では以䞋翻蚳玹介です。


▌翻蚳開始▌

■ミハり・クラMICHAŁ KULA

1945幎6月11日、クラクフにおいお、ポヌランドにおけるドむツ犯眪調査䞻任委員䌚の委員である予審刀事ダン・セヌンは、怜察官゚ドノァルト・ペンハルスキの立䌚いおよび協力のもず、刑事蚎蚟法第107条および第115条に関連する第254条に基づき、申請を受けお、アりシュノィッツ匷制収容所の元囚人を尋問した。同人は次のように蚌蚀した。


氏名 ミハり・クラ
生幎月日・出生地 1912幎9月7日、フシャビニャフシャヌフ郡
䞡芪の氏名 ダン、アントニナ・コ゜フスカ
職業 機械工
宗教 ロヌマ・カトリック
囜籍・囜家垰属 ポヌランド
婚姻状況 独身
居䜏地 フシャビニャ、スりォノァツキ通り11番地


戊争勃発たで、私はワルシャワで働き、そこに定䜏しおいたした。ワルシャワ降䌏埌、私はそこぞ戻り、リルポップ瀟に仕事を求めお出頭したした。そこで私はすぐに拘束され、蚭蚈図を匕き枡すよう芁求されたした。圓時、䌁業のトロむハント管財人はすでにドむツ本囜人のダンコフスキであり、私は圌に、蚭蚈図は所持しおおらず、それに぀いお䜕も知らないず説明したした。そこにはたり蟌んだ窮地から抜け出そうずしお、ダンコフスキの匷い芁求に応じ、ラむプツィヒの工堎ぞ働きに行くず玄束したした。するず圌は私を釈攟したした。それ以来、私は䜏居を絶えず倉えおいたした。ずいうのも、ラむプツィヒぞ行く぀もりはなく、ダンコフスキの芁求によっお譊察から捜玢されおいたからです。

この頃、私はクルチャ通り23番地26号宀に䜏むチェスワフ・ストルツマンず知り合い、その䜏居でりルススのワフミシュトシ階銬巡査であるコノァルスキず䌚いたした。私たちは共同で、若い劎働力をドむツぞ送り出すこずに反察する掻動を行うこずを決めたした。コノァルスキの䞍泚意によっお、私たちのグルヌプに密告者が朜り蟌みたしたが、その氏名は芚えおいたせん。圌の密告の結果、1940幎8月6日、私はチェスワフの䜏居で逮捕され、パノィア通りの刑務所パノィアクに収監されたした。そこで私は尋問を受け、その際に殎打されたした。尋問の過皋で、私は、あの密告者はしかしただ私たちの蚈画や意図に぀いお把握しおおらず、私たちのグルヌプに属する人物も知らず、ただ1940幎8月6日に私たちが集䌚を開くこずだけを知っおいお、それを譊察に密告したのだず分かりたした。幞運にも、ゲシュタポがチェスワフの䜏居に螏み蟌んだ時、そこにいたのは私ず圌の劻だけだったので、私たちのグルヌプの他の参加者は助かりたした。少なくずも、圌らのうち誰かが逮捕されたずいう話は聞いおいたせん。殎打されたにもかかわらず、私は圌らの誰䞀人ずしお匕き枡さず、䜕に぀いおも自癜したせんでした。

1940幎8月14日、私は300人の囚人からなる䞀団ずしお、パノィアクからワルシャワの貚物駅たで自動車で移送されたした。そこで私たちは䞀぀の貚車に぀き50人ず぀家畜運搬車に積み蟌たれ、倧芏暡な茞送列車に組み入れられおオシフィ゚ンチムぞ移送されたした。鉄道による移動は、1940幎8月14日午前5時から1940幎8月15日午前4時30分たで続きたした。この茞送には1730人の囚人がいたしたが、その途䞭、逃走を詊みた3人が射殺されたした。

オシフィ゚ンチムでは、私たちは鉄道支線のランプで降ろされたした。ランプから収容所たでの道党䜓にはSS隊員が配眮され、圌らは道に沿っお立ち、機関銃を射撃可胜な状態にしお草むらに䌏せおいたした。そのほか、圌らは棍棒で歊装し、譊察犬を連れおいたした。絶え間なく殎打されながら、私たちの茞送隊党䜓――党員が男性でした――は点呌広堎ぞ远い立おられたした。そこでは、SS隊員の䞀団に取り囲たれたSS隊員が、机の䞊に立ち、茞送隊ずずもに届けられた名簿から囚人の氏名を読み䞊げおいたした。名簿から読み䞊げられた者は䞀人ず぀机の脇を走り抜けなければならず、そこに立っおいたSS隊員たちが圌を棍棒で殎りたした。読み䞊げられた者たちは党員、点呌広堎の反察偎に10人ず぀䞊びたした。そこぞ、ラむヒからカポずしお連れおこられた、最初の30人の垞習犯眪者の䞭から遞ばれたカポたちが私たちの間を巡り始めたした。圌らは私たちの指茪や結婚指茪を倖し、腕時蚈を取り䞊げ、メダリオンを匕きちぎり、そしお私たちを気絶するたで殎りたした。

その埌、私たちは党員、15号棟ず16号棟の間の䞭庭ぞ远い立おられたした。私たちの䞀団にはワルシャワ出身の若い叞祭がいたした。SS隊員ずカポたちはその叞祭の垜子を裏返しにし、銖に瞄の茪を掛け、その瞄のもう䞀方の端を腰に結びたした。そしおその叞祭の手に箒を持たせたした。この姿で、圌は私たちが点呌広堎から15号棟ず16号棟の間の䞭庭ぞ远い立おられおいる間、茞送隊党䜓の呚囲を走らされたした。SS隊員ずカポたちは圌を容赊なく虐埅し、手圓たり次第に物で殎り、぀いには圌は意識を倱っお倒れたした。その埌の圌の運呜に぀いおは知りたせん。その埌、囚人たちの間で圌に再び䌚うこずはありたせんでした。

15号棟ず16号棟の間の䞭庭では、私たちは裞になり、衣服を匕き枡し、髪を刈られ、番号を䞎えられたした。圓時はただ番号の入れ墚は行われおいたせんでした。私たちは囚人番号が曞かれた厚玙を受け取りたした。そこから私たちは殎打されながら、圓時18号棟に眮かれおいた济堎ぞ远い立おられたした。もちろん、入济などずいうものはなく、冷たい氎を济びるこずができただけでした。同じ棟では健康蚺断も行われ、それを行ったのは囚人の医垫たちでした。そのような医垫は囚人に健康かどうかを尋ねたしたが、答えの内容には関係なく、先ぞ進むよう呜じたした。济堎から私たちは17号棟ず18号棟の間の䞭庭ぞ远い立おられたした。そこには、瞞暡様の囚人服である䜜業着の倧きな山が二぀眮かれおいたした。私たちは走りながら服を着お、点呌広堎に敎列しなければなりたせんでした。ここで私たちは100人ず぀に分けられ、100人単䜍で棟ぞ連れお行かれたした。

私の100人の䞀団ずずもに、私は4号棟に入りたした。私たちの100人のほかに、さらに5組の100人がそこぞ抌し蟌たれ、そのため圓時4号棟には、私たちの茞送隊から来た囚人が600人䜏んでいたした。そこには、以前の茞送隊から来た少数のシロンスク人がいたした。圌らは皆、ワルシャワ人を憎んでおり、私たちを食い物にし、私たちから金を盗み、ただ䜕人かがこっそり持ち蟌むこずのできた金を、カンティヌナで私たちのために買い物をしおやるずいう名目で取り䞊げたした。もちろん、カンティヌナで私たちのために買うはずだった品物が、実際に届くこずは決しおありたせんでした。

圓時4号棟のブロック長は、マックスずいうドむツ本囜人で、オシフィ゚ンチムにカポずしお連れおこられた最初の30人のドむツ人垞習犯眪者の䞀人でした。私が知る限り、圌はその30人の䞭ではブロック長ずしお最も穏圓でした。圌自身は囚人を殎りたせんでしたが、その代わりを務めたのが、ホゞュフ出身のシロンスク人アルフレト・スクシペクず、ラゞオンコフ出身のもう䞀人のシロンスク人ミシェルで、埌者はブロック長のシュラむバヌを務めおいたした。ブロック長代理、すなわちスクシペクの助手は、ホゞュフ出身のノィルヘルム・ビェネクで、同時にシュトゥヌベンディヌンストStubendienst郚屋係でもありたした。さらに別のシュトゥヌベンディヌンストたちは、ブロック長マックスが私たちの茞送隊で到着した者たちの䞭から遞びたした。圌はその圹職を、ワルシャワ出身のナレク、Chór Danaのミシュコフスキ、そしおグダニスク出身のあるドむツ本囜人に䞎えたした。このグダニスク出身者は、同時にブロックの理髪垫も務めおいたした。ナレクの姓は知りたせんでした。圌は䞭背で、がっしりした䜓栌、茶耐色の髪で、目は狭く離れおおり、顔はふっくらしおいお、24歳くらいだったず思いたす。圌の振る舞いや話し方、そしお䜕より圌自身の話から、圌がノォラ地区呚蟺出身のワルシャワの街の䞍良少幎だったこずが分かりたした。ビェネクはブロック長マックスの密告者で、䜕でも圌に報告し、その埌、ブロック長がクランケマンに代わっお4号棟を担圓するようになるず、圌の右腕ずなりたした。スクシペク、ミシェル、ナレク、ミシュコフスキ、そしおこのグダニスク出身の理髪垫は囚人を殎りたした。私たちは埌になっおミシュコフスキに、そのような振る舞いをしおはいけないず説明したした。圌はそれを理解し、シュトゥヌベンディヌンストの圹職を蟞めたした。その圹職には特兞があり、ずりわけ䜓操を免陀され、さらに倚くの食事を受け取るこずができたにもかかわらずです。最も倚くの犠牲者を出した責任があるのは、このシュトゥヌベンディヌンストのナレクです。4号棟だけで、圌はおよそ80人の囚人を殺害し、あるいは負傷させ、臎呜傷を負わせたした。その倧半は知識人でした。これは最も頻繁には、倕方、囚人たちが就寝のために暪になる際に起こりたした。

先にも述べたように、4号棟には600人を超える囚人が抌し蟌められおいたした。私たちはベッドもない狭い藁垃団の䞊で寝たした。䞀枚の藁垃団には3人の囚人が暪になりたした。それを実珟するために、私たちは藁垃団の前に䞀人ず぀瞊に䞊び、党員が同時に䞀方の偎を䞋にしお藁垃団ぞ倒れ蟌たなければなりたせんでした。そのずきナレクは囚人たちの間を歩き回り、朚の棒やゎム補の棍棒で圌らの頭を殎りたした。圌自身は、テヌブルの䞊に眮いた藁垃団で寝おいたした。テヌブルの䞋では囚人たちが寝おいたした。殎られながらもただ生きおいる囚人を、圌はテヌブルの脇に暪たえ、テヌブルの䞊から圌らの䞊ぞ、䞻に胞の䞊ぞ飛び降りたした。このようにしお虐埅された囚人たちは、ほずんどの堎合、呜を萜ずしたした。死䜓は朝になるず毛垃に包んで、圓時20号棟に眮かれおいた死䜓安眮所ぞ運び出されたした。

圓時のブロック番号は、アりグスティン神父のパンフレットに蚘茉されおいるものず同じでした。1号棟ず2号棟の間には、囚人甚の朚工所ず鍛冶堎があり、同じ䞭庭のもう半分、すなわちブロック偎の郚分は収容所の厚房が占めおいたした。そこには屋倖に野戊甚の倧釜が蚭眮されおいたした。アりグスティン神父のパンフレットの芋取り図に蚘茉されおいる厚房は、圓時ただ建蚭䞭でした。収容所の鉄条網の倖にある叞什郚建物ずSS病院建物ずの間には、私たちの茞送隊の囚人たちが兵舎を建蚭し、そこにはSS隊員、ブロック長たちの䜏居が蚭けられたした。この兵舎はその埌取り壊され、その堎所に1943幎、政治郚ず管理郚が入る2階建おの煉瓊造りの建物が建蚭されたした。

同じく1943幎、政治郚のために火葬堎の隣に兵舎が建蚭されたした。そこでは囚人たちの尋問ず拷問が行われたした。1940幎には、政治郚はアりグスティン神父のパンフレットの芋取り図でSS病院ず衚瀺されおいる建物に入っおいたした。この郚局は1階の入口から巊偎にあり、右偎にはSSのカンティヌナがありたした。その埌、政治郚は収容所内郚に移され、叀い芋取り図によれば17号棟に眮かれたした。この棟は収容所の拡匵埌、25号棟ず改称されたした。もちろん、これは政治郚党䜓ではなく、収容所内にいる囚人の案件を専門に扱うその出先機関でした。

この出先機関では、りクラむナ人のボグダン・コマルニツキが働いおおり、収容所が始たった圓初からの密告者でした。1942幎、ロシア人捕虜の茞送隊が到着するず、圌らは点呌広堎、厚房、叞什郚建物の間に䜍眮するブロックに収容されたした。これらすべおのブロックは有刺鉄線で収容所の他の郚分から隔離され、そこから圌らは倜間に11号棟ぞ远い立おられ、そこでパリチュが圌らを銃殺したした。圓時、コマルニツキは24号棟で勀務し、どのロシア人捕虜を銃殺すべきかを決定しおいたした。1945幎1月、圌は私たちの茞送隊ずずもにマりトハりれンぞ移送されたした。移送䞭、圌は絶えず茞送隊の指揮官である芪衛隊少尉のそばにいお、そのおかげでようやく無事にマりトハりれンたで到着したした。そこで私たちは珟地の囚人たちに圌を「よろしく頌む」ず䌝え、圌らは実際に圌を殎りたしたが、圌は難を逃れお生き延び、SSによっおマりトハりれンから60km離れたメルクの劎働分隊ぞ移送されたした。そこで圌はそこの芪衛隊䞭尉の雑甚係Kalefaktorになりたした。私は、コマルニツキは生きおおり、むギリス占領区域にいるず思いたす。圌は背の高い黒髪の、ずおもハンサムな男性で、真珠のような矎しい歯をしおいたす。30歳を超えおはいないず思いたす。

最も危険な密告者の䞀人はドロシェノィチで、おそらく圌もりクラむナ人だったず思いたすが、本人はワルシャワ出身だず称しおいたした。圌は枬量郚門でカポずしお働き、この郚門で働く囚人たちずずもに珟堎の䜜業堎所ぞ行き、垞に政治郚のSS隊員䞀人を䌎っおいたした。圌は囚人たちを監芖し、圌らが倖郚の䞖界ずどのような接觊を持っおいるかを探り、その埌SS隊員に告発しおいたした。圌の働き、すなわち圌の密告によっお、1944幎倏、枬量郚門の囚人12人が絞銖刑にされたした。この凊刑が行われる前に――この12人の件は非垞に長く続いおいたのですが――ドロシェノィチは、政治郚で働いおいたあるナダダ人ずずもに逃亡するこずに成功し、おそらくりィヌンぞ逃げたず思われたす。この枬量郚門の12人の件では、ドロシェノィチは、ドむツ本囜人で、建蚭管理郚Bauleitungの事務所ず政治郚で働いおいた密告者クラヌルず協力しおいたした。

次の密告者は、15号棟のブロック長だったコノァルスキで、グダニスク出身者でした。圌ら二人は、䞊蚘の人物ずずもに茞送隊で送られ、おそらく移送途䞭に囚人たちによっお殺害されたした。少なくずも、そのような報告が収容所に届いおいたした。私に瀺された1941幎5月22日付のZugangリストには、コノァルスキが15671番のポヌランド人垞習犯眪者ずしお蚘茉されおいたす。このリストによれば、圌の名はボレスワフで、りッチ出身でした。職業は劎働者ず蚘茉され、生幎月日は1895幎4月10日ずなっおいたす。もちろん、私は密告者たちの䞭でも特に有力な者だけを挙げたした。圌らは皆、囚人の䞭から集められおいたした。圌らの䞭には、あらゆる囜籍、あらゆる宗掟の者がいたした。圌らは政治郚のために働き、この郚局によっお個々の䜜業班に割り圓おられおいたした。ただし、もちろんArbeitsdienstずArbeitseinsatzは陀倖されおいたした。このような密告者は、政治郚のメモを根拠ずしおArbeitskommandoに受け入れられ、䜜業班に぀いお調査した埌は、同じようなメモに基づいお別の䜜業班ぞ移されたした。通垞、その密告者が仕事を終えた埌には、その䜜業班から数人が凊刑されたした。

1940幎、収容所の厚房が建蚭され、たた、収容所の有刺鉄線の倖偎にすでにあった厩舎が、朚工、鍛冶、自動車、電気の各䜜業堎に改造されたした。1941幎には、それたで1階建おだった1号棟、2号棟、4号棟、5号棟、6号棟、7号棟、8号棟、11号棟、12号棟、14号棟、15号棟、16号棟、18号棟、19号棟に階を増築し、さらに埌にBauhofず呌ばれるようになった斜蚭も改造したした。1942幎には、点呌広堎にさらに8棟の2階建おのブロックが建蚭されたした。

建蚭は、埌に第4ブロックおよび第15ブロックずなる堎所から開始されたした。その際、基瀎のために巚倧な穎が掘られたした。第15ブロックの基瀎甚の穎には氎が湧き、その氎の䞭でナダダ人が溺死させられたした。これらの溝を掘る䜜業に埓事しおいたコマンドのカポは、ドむツ本囜人で、ならず者のラむンホルトでした。隣接するブロックのブロック長たちずずもに、圌は自分のコマンドで働く人々を虐埅しおいたした。私は、ある時、圌が䞀人の幎老いたナダダ人を、氎の入っおいる穎の䞭ぞ投げ蟌んだこずを芚えおいたす。そのナダダ人の息子は、その堎面を芋おいたした。父芪が立ち䞊がり、穎ず氎から這い出ようずしたずころ、ラむンホルトず、その堎面を芋おいたSS隊員たちは、その息子に穎の䞭ぞ降りお父芪を溺死させるよう呜じたした。息子はその呜什に埓い、穎の䞭ぞ降り、父芪の銖を぀かみ、その頭を氎䞭に沈め、父芪がもはや生きおいる兆候を瀺さなくなるたで、そのたた抌さえ続けたした。その埌、ラむンホルトずSS隊員たちの呜什によっお、その息子は穎の瞁ぞ䞊がりたした。ラむンホルトず、私の知らない別の䞀人の囚人が圌の手足を぀かみ、揺さぶっおから穎の䞭ぞ投げ蟌みたした。そこでは、砂利を掘り出すため氎䞭で働いおいた他のナダダ人たちが、圌を溺死させなければなりたせんでした。

ここで匷調しおおきたいのは、第4ブロックおよび第15ブロックの基瀎甚の穎を掘る䜜業には懲眰䞭隊が埓事しおいたこずです。圓初、それは二぀ありたした。䞀぀は玄150人の囚人からなる懲眰䞭隊であり、もう䞀぀は、この時点で玄400人の囚人からなる教育懲眰䞭隊でした。前者には、より重倧な収容所芏則違反の容疑をかけられたナダダ人ずポヌランド人が送られたした。埌者には、懲眰䞭隊に入れられるほどではない軜埮な違反、䟋えばSS隊員の前で垜子を脱がなかったこず、煙草を吞ったこず、手をポケットに入れおいたこずなどによっお懲眰を受けた、アヌリア人だけがいたした。しかし、この区分は非垞に短期間しか続かず、1942幎のクリスマスには、すでに䞀぀の懲眰䞭隊SK、Strafkompanieだけが存圚しおおり、それは圓時の第13ブロックに収容され、埌に第11番ず番号付けされたした。

懲眰䞭隊のためには最も過酷な䜜業コマンドが遞ばれ、囚人たちは絶えず氎䞭か、あるいはKiesgruben砂利採取堎で働かされ、いずれにしおも垞に屋倖でした。このような過酷な劎働条件のため、この䞭隊の人々は非垞に速く死んでいきたした。1942幎には、1942幎5月3日にオシフィ゚ンチムぞ到着したワルシャワ茞送隊から100人がこの䞭隊に線入されたした。この茞送隊の囚人たちは、鉄道線路の脇で土地を敎地する䜜業に埓事させられたした。䜜業堎所には䟿所がたったくなかったため、ある囚人が、軍事茞送列車が䜜業堎所の脇を通過しおいた際に、開けた堎所で排䟿したした。数時間埌、収容所に、その囚人が通過䞭の軍事茞送列車に故意に尻を向けた、ずいう報告が届きたした。その結果、100人からなるそのコマンド党䜓が懲眰䞭隊に線入され、そのうち誰䞀人ずしお生きおそこから出るこずはありたせんでした。

収容所の倖のコマンドでの重劎働に加えお、懲眰䞭隊は、倕方の点呌を終えた埌も、収容所内で最初のゎングが鳎るたで働かなければなりたせんでした。重劎働に加えお、衣服の䞍足、飢えさせられるこず、そしお第11ブロックでの居䜏環境が、これらの人々を衰匱させたした。圌らは冬も倏も靎䞋を履かず、オランダ匏の朚靎を履き、身に着けおいたのはドレヌリヒ䜜業服だけでした。倧釜で運ばれおきた食事の配絊は、1942幎にはクランケマンが務めおいたブロック長の気たぐれ次第でした。倜は第11ブロックで過ごし、絶え間ない叫び声ず殎打のため、たいおい眠るこずができたせんでした。圌らは藁垃団もなく、むき出しの床に暪たわり、自分たちのがろ垃は、倜にそれを掛けお身を芆うこずができないように、廊䞋にきちんず畳んで眮いおおかなければなりたせんでした。ブロックには暖房も暖を取る蚭備もありたせんでした。このような状況で人々の健康が急速に衰えおいったのも、圓然のこずでした。1943幎たで、懲眰䞭隊の病人を病院に受け入れるこずは蚱されおいたせんでした。そのため、誰かが病気になるず、いかなる医療も受けられないたた、第11ブロックで死ななければならず、実際に死んでいきたした。しかし、最も倧きな割合を占めたのは、殺害による死でした。

クランケマン自身も、人を殺す独自の方法を持っおいたした。圌は人を壁の角に立たせ、手で顎を殎りたした。その結果、顎が砕け、頭の反察偎が壁の角に打ち぀けられたした。圓然、これは倧きな傷を負わせ、最も倚くの堎合には死をもたらしたした。

1942幎から1943幎の冬、第11ブロックず、この懲眰䞭隊が働かされおいたすべおの劎働コマンドに、巚倧なナダダ人が埘埊しおいたした。圌は人を殺すために特別に逊われおいた男でした。圌は働かず、十分な食事を䞎えられ、䜜業堎所では盎埄玄70ミリメヌトルの長い棒に寄りかかっお立ち、「Bewegung動け」ず叫んでいたした。囚人の誰かが圌の気に入らないず、圌はその囚人を自分のずころぞ呌び寄せ、その棒で銖筋を殎っお、その堎で殺したした。この凊刑人が甚いた二぀目の方法は、絞殺でした。囚人は䞊着を銖のずころたでボタンずホックで留めなければなりたせんでした。するず、その芋匵り圹は片手で埌ろから䞊着の襟を぀かみ、もう䞀方の手で圓人の頭を䞋ぞ抌したした。そのため、襟ずホックが喉頭を圧迫し、窒息させたした。䞉぀目の方法は、地面の䞊で棒を䜿っお絞殺するこずでした。圌は囚人を仰向けに寝かせ、銖の䞋に土を盛るか、レンガを眮き、それからその棒を喉に圓お、䞡端を䞡足で螏み぀けたした。そしお、犠牲者が息絶えるたで、そうしお立ち続けたした。

この圓時、人を殺すこずは日垞的に行われおおり、懲眰䞭隊だけの専売特蚱ではありたせんでした。私が収容所に到着した茞送隊からも、たた他の茞送隊からも、圓時のラヌガヌフュヌラヌであるマむダヌアりマむアヌは18歳未満の少幎たちを遞び、未成幎者ずしお旧番号による第5ブロックに収容したした。そこでは、ブゞェスコ出身のバルダシンスキが䞊玚ブロック長を務め、その代理はシロンスク出身のステファン・ノィ゚ゞビツァで、「血たみれのステファン」ず呌ばれおいたした。アりマむアヌは少幎たちに向けた挔説の䞭で、圌らは教育を受けるために収容所ぞ来たのだず保蚌し、二幎間収容所にいればドむツ本囜人になり、働く堎所を自由に遞べるようになるず、民間人ずしおの名誉にかけお玄束しおいたした。しかし、バルダシンスキずその助手ノィ゚ゞビツァは、圌らの監護䞋に第5ブロックで眮かれた少幎たちの倧郚分を、その虐埅によっお死に远いやりたした。圌らは少幎たちを殎り、冷氎を济びせ、凍える屋倖に立たせ、「足を掗う」ずいう名目で裞足のたた雪の䞊を走らせたした。そしおバルダシンスキ自身が、少幎たちが藁垃団の䞊に暪たわっおいるず、その身䜓の䞊を狂ったように走り回りたした。第5ブロックに入っおから短期間で、少幎たちは「ムヌれルマン」状態になり、死亡したした。生き残ったのは、屋根のある堎所のコマンドで働いおいた者だけでした。アりマむアヌの埌任であるフリッチュは、第5ブロックを未成幎者甚ブロックずしお廃止し、そこに残っおいた生存者たちを、それぞれが働いおいたコマンドに応じお、他のさたざたなブロックぞ振り分けたした。

バルダシンスキずノィ゚ゞビツァは、最初期の茞送隊の䞀぀で、タルヌフたたはノィシニチからオシフィ゚ンチムにやっお来たした。バルダシンスキは1942幎、あるいは1943幎初頭に収容所から釈攟されたした。圌は巚挢で、䜓栌がよく、肥え倪っおおり、40歳を超えおいたした。ノィ゚ゞビツァはその埌ブゞェゞンカぞ移され、そこでたず同地の懲眰䞭隊のカポずなり、その埌、Straßenbau道路建蚭コマンドのカポずなりたした。この移送は、ノィ゚ゞビツァの所持品から倧量の金歯が発芋されたために行われたした。圌はコマンドで死亡した人々からそれを匕き抜いおいたした。この皮の違反であれば、通垞、別の囚人なら銃殺されおいたはずです。それでもノィ゚ゞビツァには䜕らかの功瞟があったに違いありたせん。そうでなければ釈攟されるこずも、単に別のコマンドぞ移されるだけで枈むこずもなかったでしょう。ブゞェゞンカでノィ゚ゞビツァは収容所の避難たで過ごしたした。1945幎1月、圌は埒歩茞送隊ずずもにラむヒ方面ぞ向かい、ダストシェンビェズドルむでそこから逃亡したした。

先ほどのブロック長ラむンホルトは、懲眰䞭隊を離れた埌、22aブロックを担圓したした。そこには、䜜業堎で働くコマンドが収容されおおり、その埌、゜ワ川沿いの皮革工堎で働くコマンドが収容されたした。この工堎にはカナダの第二郚門もあり、そこでは特に、あらゆる皮類の靎、スヌツケヌス、その他の革補品が保管されおいたした。その際、ラむンホルトは金ずダむダモンドを手に入れたしたが、そのこずが発芚するず、第11ブロックの地䞋房に入れられ、そこで銖を吊っお自殺したした。

そのナダダ人の監芖圹は、埌に粟神錯乱をきたし、SS隊員によっお譊戒線の倖偎にある区域たで远い立おられ、そこでそのSS隊員に背埌から射殺されたした。

「カナダ」ずいう蚀葉は、最初のワルシャワ茞送隊でオシフィ゚ンチムに到着した囚人タデりシュ・ノァルチャクによっお、収容所の隠語に取り入れられたものです。ノァルチャクはルブリン出身でした。陜気な人物で、よく話すのが奜きでした。1943幎半ば、スロノァキア系ナダダ人の茞送隊が収容所に到着し始めるず、圌は「これから収容所には『カナダ』ができるぞ、䜕でもあり䜙るほどあるからな」ず蚀いたした。ずいうのも、スロノァキア系ナダダ人からは、オシフィ゚ンチムにある鉄道偎線のランプですでにすべおの所持品が取り䞊げられおいたからです。そのランプはブゞェゞンカ偎にあり、偎線の線路がブゞェゞンカぞ通じる道路ず亀差する堎所に䜍眮しおいたした。そこで囚人たちから取り䞊げられた衣服は、Bauhofの隣にあるEffektenkammerに保管されたした。靎、スヌツケヌス、その他の革補品は、オシフィ゚ンチムの゜ワ川に架かる橋からほど近い堎所にある皮革工堎に保管されたした。金補品、ダむダモンド、その他の貎重品は、叞什郚の最初の建物に保管されたした。

ノァルチャクが考え出した「カナダ」ずいう呌称は、たもなく収容所党䜓に広たりたした。それは囚人たちの間だけではなくSS隊員の間にも広たり、最終的にはSS隊員もこの呌称を正匏な名称ずしお採甚したした。それは、収容所に到着し、ガス宀ぞ送られた人々から略奪した物品を保管しおいた、か぀おのEffektenkammerを指す名称ずなりたした。囚人たちは「カナダ」ずしお、第䞀に、先に述べた方法で収容所に入っおきたあらゆる物資、぀たり䜕よりも食料品を指し、第二に、それらの物品を収容所に到着した人々から取り䞊げる、あらゆる堎所を指したした。したがっお、囚人たちの隠語では、ブゞェゞンカのあのランプも、Bauhofの隣のEffektenkammerも、同様にブゞェゞンカのEffektenlagerも、皮革工堎の倉庫も「カナダ」でした。さらにもう䞀぀の「カナダ」があり、そこには䞻ずしお䞋着や衣服が保管されおいたした。それは、ブゞェゞンカ偎の鉄道駅の近くにあるPraga-Halleにありたした。

新たに到着した囚人たちから略奪した物品の仕分けや運搬に埓事しおいた人々は、収容所の隠語では「カナダ」コマンドで働いおいたした。そのようなコマンドが䜜業堎所から収容所ぞ戻っおくるず、コマンドに属する囚人たちは党員、SS隊員によっお入念に身䜓怜査され、SS隊員たちは圌らから、所持しおいるものをすべお取り䞊げたした。

食甚に適するすべおの食料品は、TWLTruppenwirtschaftslager倉庫ぞ運ばれ、そこで貚車に積み蟌たれ、東郚の軍隊向けに送り出されたした。すべおのパンくず、腐った物、こがれたり汚れたりした食品は囚人甚厚房ぞ送られ、そこで囚人たちのためのスヌプにされたした。料理人はこれらのごみをシャベルで釜の䞭ぞ攟り蟌んでいたので、スヌプが石鹞のような味がしたのも䞍思議ではありたせん。スヌプの䞭からは剃刀の刃が芋぀かり、私が知っおいる䞀䟋ではコンドヌムたで芋぀かりたした。

Effektenkammerでは、ランプから運び蟌たれた物品を、倖囜通貚や貎重品を探すためにくたなく調べたした。非垞に倚くの物が裂かれたり解䜓されたりしたした。靎からは靎底やかかずが匕き剥がされたした。ずいうのも、かかずの䞭には最も倚くの貎重品が隠されおいるこずが分かったからです。貎重品を探すために、石鹞の塊を割ったり、歯磚き粉のチュヌブを匕き裂いたり、さらには髭剃り甚ブラシの䞭たで探したりし、実際にしばしば貎重品が芋぀かりたした。䜿甚可胜な衣服は包みにしお梱包し、ラむヒぞ送りたした。それより質の悪い衣服は囚人たちに回されたした。ブラりスやズボンには倧きな四角圢の切り蟌みを入れ、そこに瞞暡様の垃を瞫い付けお、こうしお囚人であるこずを瀺したした。

冒頭ですでに述べたように、私は1940幎8月15日午前4時30分にオシフィ゚ンチムの収容所ぞ到着したした。私が説明した収容所ぞの受け入れ手続きは、午埌7時たで続きたした。その埌、私たちは腐ったアスパラガスのスヌプを䞎えられ、寝に行きたした。ほずんど誰も食べたせんでした。ずいうのも、党員がひどい喉の枇きに苊しんでいたのに、飲み氎を䞎えられなかったからです。倜、ブロック内にはひどい悪臭が立ち蟌めおいたした。人々が途方もなく密集しおいたにもかかわらず、窓を開けるこずを蚱されなかったからです。

翌日は午前4時に起床させられたした。私たちは点呌広堎ぞ远い出され、正午たで䜓操をさせられたした。SS隊員ず、あの最初の30人の䞭から遞ばれたカポたちに取り囲たれ、圌らに殎られながら、私たちは蛙跳びをし、䞡手を高く䞊げお螊り、砂利を敷いた点呌広堎を裞足で円を描くように走りたした。この最初の午前䞭だけで、非垞に倚くの人が疲劎のため倒れたした。カポたちはそうした人々を脇ぞ匕きずっおいき、そこでラヌガヌ゚ルステのレオが、い぀も携垯しおいた棒を圌らの口ぞ無理やり突っ蟌んで、ずどめを刺したした。走るのを遅れた者たちは、囚人たちから「ペレりカ真珠」ずあだ名されおいたSS隊員が捕らえ、圌らを第8ブロックの裏ぞ連れお行き、そこで棍棒で銖筋を殎っお殺したした。

12時に私たちは点呌のために敎列させられ、それは45分間続きたした。私たちには15分間だけ、ブロックから怀を持っおきお、熱いスヌプを食べ、怀を掗っおブロックぞ戻す時間が䞎えられたした。13時になるず、SS隊員ず収容所の叀参囚人たちは、再び私たちを点呌広堎に敎列させ、歌を教えたした。歌の時間は15時たで続きたした。その間に私たちは、ほずんどの者がドむツ語を知らなかったにもかかわらず、レオが䞀床だけ歌い始めお聞かせたドむツ語の歌、「Schwarzbraun ist die Haselnuss」ず「Im Wald, im grÃŒnen Walde」を芚えるこずができたした。私自身の考えでは、初心者にしおはかなり䞊手に歌っおいたのですが、教垫たちは私たちの歌に䞍満で、私たちを殎り、しゃがんだ姿勢や「䌏せ」の姿勢で歌うよう呜じたした。この姿勢で私たちを殎り、足で螏み぀けたした。

15時から18時30分たでは、再び䜓操でした。18時30分に倕方の点呌が行われ、通垞は玄2時間続き、その埌私たちはブロックぞ戻りたした。倕方の点呌の際には、どんな些现な違反に察しおも鞭打ちの眰が科されたした。倕方の点呌の埌、私たちにはパンの配絊ずブラックコヌヒヌが䞎えられたした。

翌日も、前日ず同じように始たりたした。午前䞭、私は力尜き、走る速床が遅くなり、その時「ペレりカ」に第8ブロックの裏ぞ連れお行かれたした。なぜ圌がその時私に職業は䜕かず尋ねたのかは分かりたせん。私が機械工の錠前職人だず答えるず、圌はそのような者が必芁だず蚀い、バケツを持っお、䜓操のために気を倱った者たちに氎をかけるよう呜じたした。私はこの仕事を正午たで行い、その埌は歌の時間から倕方の点呌たで行いたした。

3日目には、もうバケツが芋぀からず、私はその「圹職」を倱い、他の者たちず䞀緒に䜓操をしなければならなくなりたした。その日の午埌、手抌し車で砂利を運ぶ者が遞ばれたした。私もその䞀団に入りたした。䜜業は、囚人が空の手抌し車を抌しおいるか、荷物を積んだ手抌し車を抌しおいるかにかかわらず、走りながら行われたした。しかし、私は手抌し車の䜜業を玄2時間しか続けたせんでした。第8号カポが私の背䞭をワむダヌロヌプで非垞に匷く打ったため、それ以䞊働くこずができなくなり、私は手抌し車を攟り出しお、䜓操をしおいるグルヌプぞ移りたした。

このグルヌプでは、囚人たちが现い朚に登るずいうこずも経隓したした。玄50人の囚人がその朚に登るこずになっおいたしたが、もちろん物理的に䞍可胜でした。実際、その朚は最初の数人の囚人が登った時点ですでに折れおしたいたした。SS隊員ず収容所の叀参囚人たちが芋おいる䞭で行われたこの「遊び」で、私たちは殎られたした――最初は、ただ朚の䞊に登っおいないずいう理由で、そしお次には、朚を折っおしたったずいう理由で殎られたした。

4日目の正午の点呌の際、鍛冶・金属加工堎のカポ、ミュラヌが圫刻工を探しおいたした。私は名乗り出お、ミュラヌに採甚され、5日目にはすでに金属加工堎で働いおいたした。

私ず䞀緒に収容所ぞやっお来たグルヌプの残りの者たちは、さらに2週間、このような「スポヌツ」ず䜓操をさせられたした。この間に、そのうち非垞に倚くの者が死亡し、残りの者たちは負傷し、砂利や有刺鉄線、釘の䞊を裞足で絶えず走らされたため、脚が腫れ䞊がっおいたした。もちろん、このように負傷した者は病宀に申し出るこずを蚱されおいたした。囚人の医垫は、座っお行う仕事にしか適さないずいう蚺断曞を圌らに枡したした。そのような者たちは、叀い煉瓊からモルタルを取り陀いお枅掃する䜜業に埓事させられたした。これらの煉瓊は、圓時建蚭䞭だった厚房の建蚭に䜿われるものでした。䜜業は次のように行われたした。囚人たちは、地面に埋め蟌たれ、尖った先端を䞊向きにした朚の杭に座らされたした。぀たり囚人たちは杭の尖った先端の䞊に座り、䞀人の囚人に぀き䞀本の杭が割り圓おられおいたした。このコマンドのカポはコンラヌトで、圌もたた、あの30人のドむツ本囜人の䞀人でした。圌は、囚人が䞀日䞭、立ち䞊がるこずもできず、本圓に座った姿勢のたた䜜業しおいるよう監芖しおいたした。誰かが立ち䞊がったり倒れたりするず、意識を倱うたで殎り、殎られた者をそのたた攟眮しお助けようずはしたせんでした。

私は1940幎8月20日から1944幎10月たで、金属加工堎で働きたした。圓初、金属加工堎は第1ブロックず第2ブロックの間にある䞭庭の半分ほどを占める堎所にありたした。そこでは最初40人の囚人が働いおおり、私は41人目ずしお加わりたした。埐々に、䜜業堎で働く人数は増えおいきたした。1940幎11月、金属加工堎は厩舎の䞀぀ぞ移されたした。぀たり、珟圚でもそこにある堎所です。新しい建物ぞ移転した時点で、コマンドはすでに70人の囚人からなっおいたした。圓初、金属加工堎には、いく぀かのハンマヌ、ペンチ、そしお金床ずしお䜿うためのレヌルの䞀片を陀けば、金属加工甚の蚭備は䜕もありたせんでした。新しい金属加工堎には、オシフィ゚ンチムのサレゞオ䌚修道士たちの修道院工房から取り倖しお運び出された蚭備や機械類が備え付けられたした。金属加工堎が拡匵・増蚭されおいくに぀れお、囚人たちは自分たちに䜿甚を蚱されおいた工具を䜿っお、䜜業堎のためのさらなる技術蚭備や機械蚭備を補䜜したした。1941幎春には金属加工堎が拡匵され、鋳造所ず金網補造工堎が増蚭・敎備されたした。

金属加工堎のコマンドの最初のカポは、クルト・ミュラヌ、番号6、ドむツ本囜人の䞀般犯眪者で、オシフィ゚ンチムに来る前にすでに4幎間の刑務所生掻を経隓しおいた人物でした。圌は若く、非垞に野心的な男で、自分は金属加工職人だず称しおいたしたが、私たちが芋極めたずころでは、金属加工の専門家ずしお特に優れおいたわけではありたせんでした。圌の野心は、金属加工堎を最も重芁な劎働コマンドにするこずでした。そのため、圌はZugÀnge新芏到着者の䞭から金属加工職人を名乗る者を遞び、詊隓をしお、自分のコマンドに線入したした。コマンドを最も人数の倚いものにしようずしたのです。私たちはこの圌の匱点を利甚し、知人や仲間を優秀な専門家ずしお掚薊しお、圌に受け入れさせたした。この方法で私は、ワルシャワの数孊教授フロルチクをはじめ、䜕人かを金属加工堎に呌び寄せるこずに成功したした。もちろんフロルチクは金属加工に぀いおたったく知識がなかったので、䜜業堎の掃陀をしおいたした。しかし、この仕事は圌には向いおおらず、ほどなくしお別のコマンドで靎䞋の繕いをする仕事ぞ移りたした。このようにしお私たちは、非垞に倚くの有胜な人々を金属加工堎ぞ匕き入れ、屋倖での劎働による死から救うこずができたした。

䞀方で、ミュラヌは金属加工堎の仕事の成果を䞊官たちに芋せお、自分を誇瀺したいずも考えおいたした。圓然、囚人たちが行った仕事を、圌自身が蚭蚈し、圌の指揮の䞋、圌のコマンドで行わせた仕事ずしお報告しおいたした。金属加工堎では、ずりわけ収容所所長ヘスの䜏居のための金属加工䞀匏を行いたした。この仕事にヘスは非垞に満足し、ミュラヌはこのこずによっお圌から庇護を埗たした。

囚人たちの仕事によっお自分の評䟡を高めようずする以䞊、ミュラヌは圓然、自分のコマンドの面倒を芋なければなりたせんでした。それは、私たちに远加のスヌプを配絊したり、他の者、䟋えばブロック長たちが囚人たちを虐埅するのを蚱さなかったりするずいう圢で珟れたした。私が金属加工堎での仕事から遅く戻り、暪になっお眠れる堎所を芋぀けられなかったため、二列の藁垃団の間の通路にある腰掛けに座ったずころ、以前にも述べたあのスクシペクずいうブロック長代理に殎られたこずを芚えおいたす。この時、私はヘスの銬具甚の銘板を補䜜しおおり、その迅速な完成をミュラヌが望んでいたため、圌は私がスクシペクに殎られた翌日、点呌の埌も仕事に戻るよう私に呜じたした。私は圓時の通蚳で、モシチツェ出身のクシェトゥスキ技垫に、点呌埌には働くこずができないず䌝えたした。遅く垰るず寝る堎所がなく、倜に腰掛けに座っおいたため、前の晩にスクシペクに殎られたからです。クシェトゥスキは私の蚎えをミュラヌに䌝えたした。するずミュラヌは私を連れお、第4ブロックぞ䞀緒に走っお行き、そこでブロック長マクスの立ち䌚いのもず、スクシペクをひどく殎り、私の寝床を垞に確保しおおくよう呜じたした。スクシペクはその呜什を実行しようずし、囚人たちが寝床に぀く際には、私のために堎所を取っおおきたした。しかし、少幎たちは寝おいる間に動くため、その翌々日の倜も、金属加工堎から午埌11時ごろ戻っおくるず、私は寝る堎所を芋぀けられたせんでした。私は再び、藁垃団の列の間の通路にある腰掛けに座りたした。するずスクシペクは私を自分の郚屋ぞ呌び、私はそこで数晩、圌ず䞀緒に寝たした。この間、圌はもう私に危害を加えたせんでした。ミュラヌを恐れおいたからです。

このようなミュラヌの姿勢のおかげで、私たちは、政治郚から金属加工堎に送り蟌たれた密告者を、非垞に短期間で排陀するこずができたした。そのような者たちは、ミュラヌが金属加工堎から远い出したしたが、その際、立ち去る際にはい぀もひどく殎りたした。ある時、りッチ出身のあるドむツ本囜人の密告者が、私たちのコマンドに朜り蟌みたした。もちろん私たちは、できるだけ早くミュラヌにそれを知らせるようにしたした。するずミュラヌは代理のヘルフルトずずもに、その密告者を道具眮き堎で、䞡手を鎖に぀ないで吊るし、殎ったうえで远い出したした。この件に぀いおパリチュがミュラヌに抗議したしたが、ミュラヌはヘスを埌ろ盟ずしお、圌にこう蚀いたした。送り蟌たれおきた人間は自分の仕事を混乱させる、自分は信頌できる人間を自分で遞んでおり、その人間に぀いおは自分が責任を負うのだ、ず。このため、ミュラヌの時代には私たちの金属加工堎には密告者がおらず、そのおかげで、金属加工堎のコマンドからは、密告によっお銃殺された者が䞀人もいなかったのです。

たた、ある時ミュラヌが点呌広堎を通りかかった際、そこでダギ型の台に乗せお鞭打ち刑が行われおいたのですが、圌が凊刑堎の方向を手で指し、「これこそドむツ民族の文化の蚘念碑だ」ず蚀ったこずも芚えおいたす。ミュラヌの時代に、金属加工堎のコマンドは200人にたで増え、最埌には玄250人になりたした。ミュラヌは原則ずしお、ドむツ本囜人を自分のコマンドに受け入れたせんでした。私の蚘憶では、そこで働いおいたドむツ本囜人は倚くおも3人でした。ある時、圌はドむツ本囜人の鍛冶職人を䞀人受け入れたした。その男はミュラヌのずころぞ走っお苊情を蚀いに来たした。囚人たちは䜕もせず、火のそばで暖を取り、煙草を吞い、料理をしおいるだけだ、ずいう苊情でした。ミュラヌは圌を殎り、金属加工堎から远い出し、「囚人たちが䜕をしおいるかは俺が正確に知っおいる」ず蚀いたした。しかし私たちには、あの鍛冶職人を远い出したのは、今日自分のずころぞ苊情を蚀いに来るような男なら、明日にはSS隊員たちの前で自分を告発するかもしれないからだ、ず説明したした。ミュラヌはSS隊員を金属加工堎の䞭に入れたせんでした。圌自身が囚人たちを殎っおおり、それもかなり激しく殎りたしたが、しかし獣のように圌らを虐埅しおいたわけではありたせんでした。圌が囚人を殎るのは、煙草を吞ったり料理をしたりするなど、䜕らかの違反をしおいるずころを芋぀けた時でした。圌は、殎るのは囚人が捕たるようなこずをしたからだ、ず蚀っおいたした。ずいうのも、自分に捕たるような者なら、倖郚から䜕らかの監査が入った時にも、きっず逃れるこずはできないからだ、ずいうのです。

ミュラヌは1942幎9月たで金属加工堎のカポを務めたした。その月に囚人ずしお釈攟され、すべおの䜜業堎、぀たり金属加工堎も含めた党䜜業堎の責任者に、今床は民間人劎働者ずしお就任したした。

ミュラヌの埌任ずしおカポになったのはノィリヌ・キュヌネで、圌もたた、埌にオシフィ゚ンチムぞ送られおきたあの100人のラむヒスドむチェの䞭の䞀般犯眪者でした。

ミュラヌが民間人ずしお䜜業堎の責任者を務めたのは、わずか玄2か月でした。圌は酒に酔っおSSの食堂でラヌガヌフュヌラヌのザむドラヌず口論になり、ザむドラヌに察しお、オシフィ゚ンチムには「袋を持った乞食」ずしおやっお来たくせに、ここでポヌランド人を盗み、圌らの財産を取り䞊げお財を成した、ず非難したした。その時、ザむドラヌはリボルバヌでミュラヌを撃ちたしたが、ミュラヌは軜傷を負っただけでした。この件は、ミュラヌが第11ブロックの地䞋房に閉じ蟌められるずいう結果に終わりたした。圌はそこにほが1幎間収容され、1943幎秋、ザむドラヌの芁求によっお、ミュラヌはその間に移送されおいたマりトハりれングヌれン収容所ぞ、囚人ずしお移されたした。

ミュラヌが民間人劎働者ずしお金属加工堎を指揮しおいたこの時期、カポの埌任ずなったキュヌネは、きちんずした態床を取っおいたした。たた、SS隊員たちも金属加工堎で働く囚人たちを虐埅したせんでした。しかし、ミュラヌが地䞋房に収容された埌、䜜業堎の指揮を匕き継いだのは、ロッテンフュヌラヌのブランケでした。圌は非垞に倧柄な男で、平たい骚ばった顔、倧きな頭、長い銖をした耐色の髪の男で、28歳くらいだったず思いたす。圌はい぀も棒を持っお䜜業堎を歩き回り、囚人たちを殎り、蹎り、あらゆる方法で虐埅したした。キュヌネも同じような態床を取るようになり、ミュラヌが収監された埌、囚人たちに察する態床を䞀倉させたした。キュヌネの代理は、黒い䞉角章を付けたドむツ本囜人、アルベルト・ノォむタスでした。ミュラヌの時代には、圌は私のずころでボヌル盀を䜿っお働き、静かにしおいたしたが、ミュラヌが収監されるず、キュヌネやブランケず同じように囚人たちを殎りたした。

金属加工堎のコマンドには、圓初、SS偎からのKommandofÃŒhrerコマンド指揮官は眮かれおいたせんでした。最初のKommandofÃŒhrerが金属加工堎に配属されたのは、1942幎秋でした。この職務に就いたのは、ビェルスコ出身のロッテンフュヌラヌ、゚ドワルト・ルブシュでした。圌は圓初、囚人たちを殎っおいたしたが、埌には態床が倉わりたした。1943幎1月たで、金属加工堎はBauleitung建蚭管理郚の管理䞋に眮かれおいたした。1943幎1月、金属加工堎はDeutsche AusrÃŒstungswerkeDAWの管理䞋に移され、その際、ルブシュは別のBauleitungのコマンドぞ移されたした。圌の埌任ずしお金属加工堎に来たのは、オヌバヌシャルフュヌラヌのカスナヌず、その代理である片腕のロッテンフュヌラヌでした。私はその人物の姓を芚えおいたせん。圌には巊腕がありたせんでした。しかし、その身䜓障害にもかかわらず、圌は囚人たちを殎り、虐埅したした。

金属加工堎には、特別なVorarbeiter職長はいたせんでした。私たちは䜜業班Kolonneに分けられ、それぞれの䜜業台で働いおいたした。その䜜業台で働いおいる者の䞭から、より知的で、図面を理解できる者が䞀人、KolonnenfÃŒhrer䜜業班長ずなり、その䜜業台での仕事を指揮し、その責任を負いたした。圓初、私たちはナダダ人、ロシア人、その他の囜籍の者たちず䞀緒に混ざっお働いおいたした。1944幎には、ナダダ人たちは独立した䜜業班を䜜り、金網工堎で働きたした。そこでもKolonnenfÃŒhrerはナダダ人でした。金属加工堎のSchreiber曞蚘は、チェシン出身のラむヒスドむチェ、ブルヌノ・ガりシュカ番号10415、グダニスク出身のラむヒスドむチェ、ピオフ、そしおポヌランド人のクラクフ出身ボドナロフスキず、シロンスク出身ノィルヘルム・チャダでした。䞭倮工具倉庫の倉庫係は、モシチツェ出身のクビンスキ技垫で、その助手はレシュノ出身の゚ドワルト・フベルキェノィチでした。䜜業堎の補図工は、ワルシャワ出身のボレスワフ・ギニンでした。

1940幎8月20日に私が金属加工堎ぞ配属された時、そこには圫刻甚の工具がたったくなく、たた、圫刻甚工具を自分で䜜るために䜿えるような工具もありたせんでした。私は原始的な手段で自分甚の圫刻刀を鍛造し、それを䜿っお、圓時の収容所所長クランマヌのための最初の名刺を䜜りたした。この仕事には数日かかりたした。私の仕事がミュラヌに気に入られたため、私は正匏に圫刻工ずしお働くこずになりたした。私は、さたざたな銘板や、囚人カむムが鍛造した銅補容噚に文字を圫りたした。私は、金属加工堎が第1ブロックず第2ブロックの間にある叀い建物にあった間ずっず、そしお新しい金属加工堎に移っおから1940幎12月たで、圫刻工ずしお働きたした。この月、ミュラヌはクラクフ出身の囚人ダン・ブフタを2人目の圫刻工ずしお採甚し、私を旋盀工堎ぞ移したした。

私はその埌、金属加工堎にいる間ずっず旋盀工ずしお働き、最初は普通の旋盀工ずしお、その埌はKolonnenfÃŒhrerずしお働きたした。この䜜業班はMaschinenkolonne機械䜜業班ず呌ばれおいたした。私のほかには、オコチム出身のカゞミェシュ・ザペンツ番号261、カリシュ出身のカゞミェシュ・カシュブスキ、シロンスク出身のアロむゞ・ブリルスキ、ビェルスコ出身のアントニ・クビツァ、ブゞェシュチ出身のリシャルト・マリノフスキ、マシュラホノィツェ出身のスタニスワフ・ラ゜ン、リュブリャナ出身のナヌゎスラビア人ペヌれフ・ポガチャル、そしお――しばらくの間――ノィシュクフ出身のカゞミェシュ・チヘツキが働いおいたした。チヘツキは1942幎に、ハンブルクの造船所で働くための茞送隊によっお移送されたした。

以前にも述べたように、金属加工堎は圓初、Bauleitung建蚭管理郚の管理䞋にありたした。そのため、そこで行っおいた仕事は、䞻ずしおこの収容所管理郚門からの泚文によるものでした。䞻に、バラックやブロックの建蚭に必芁なボルト、アンカヌ、フック、およびこれらのブロックを敎備するために必芁なその他の鉄補品靎拭きマットなどを補䜜しおいたした。たた、Bauleitungを通じお、さたざたなSS隊員の官舎甚の各皮物品の補䜜も泚文されたした。それらは䞻ずしお、燭台、ろうそく立お、灰皿、シャンデリア、スタンド匏ランプ、衣服掛けなど、䜏居の装食に甚いる品々でした。

こうした品物の補䜜の専門家は、ダン・リノァチ番号1010でした。圌にはこれらの仕事専甚の䜜業班があり、その䞭には、リマノノァ出身のロマン・ストルゞク、ゞノィ゚ツ出身のオブトゥりォノィチ、そしおノノィ・゜ンチ出身の芞術家レンチェフスキらがいたした。この䜜業班に぀いおは、ワルシャワ出身のラドノァンスキず、ポズナン地方、おそらくレシュノ出身のリグシクのこずも芚えおいたす。リノァチが去った埌は、リグシクが圌の䜜業班を匕き継ぎたした。鍛冶工たちのKolonnenfÃŒhrer䜜業班長は、職業が鉄道職員でニスコ出身のドゥルスキでした。金網工堎のKolonnenfÃŒhrerは、ノノィ・゜ンチ出身のドゥニコフスキでした。

このほかにも、金属加工堎では、クラクフ出身のナれフ・ディンタル、ムワノァ出身のモデスト・ノァルチンスキ、ポズナン出身のゞグムント・ゎデルスキ、ルブリン出身のゞグムント・コストコフスキ、リマノノァ出身のダン・りォボダ、シロンスク出身で「聖曞研究者」Badacz Pisma Świętegoだったノルベル、レシュノ近郊のどこかの村出身のリグシク、クラクフのモギルスカ通り81番地のスタニスワフ・トリンカ、ワルシャワ出身のスタニスワフ・シャブレフスキ、ラむヒスドむチェのヘスル、ワルシャワ出身のナれフ・ザレフスキ、ノノィ・゜ンチ出身のスタニスワフ・ミレク、タルヌフ出身だったず思われるプゞゲル、シロンスク人で埌にドむツ軍に入隊したプルタ、オシフィ゚ンチムで死亡したラむヒスドむチェのテシュネル、ワルシャワ出身の゚りゲニりシュ・ニェノィアドムスキ、ステリフコ、キバラ、レピヒ、ノァフテル、ノィンテラヌ、その他、名前を芚えおいない者たちが働いおいたした。

以前にも述べたように、金属加工堎の蚭備の倧郚分は、オシフィ゚ンチムのサレゞオ䌚修道士たちの修道院孊校の工堎から運ばれおきたものでした。鋳造甚の暡型もそこから運ばれおきたした。それらは䞻ずしお、キリストの像、十字架、聖人の肖像や像でした。これらの暡型は金属加工堎で䞀か所に積み䞊げられたした。SS隊員やドむツ人カポたちは、それらを壊したり、螏み぀けたりしお、私たちのずころぞやっお来お、「鉄の塊を信じるなんお、お前たちはなんお銬鹿なんだ」ず蚀っお私たちを嘲笑したした。その際、囚人を殎り、「なぜこい぀がお前を守っおくれないんだ」ず尋ねるこずもありたした。そのずき圌らは、キリストや聖人の像を指差したり、囚人の目の前に突き぀けたりしたした。

金属加工堎で働いおいたモシチツェ出身のクビンスキ技垫は、こうした行為をやめさせようずしお、これらの暡型を隠したした。ミュラヌの代理人ヘルフルトがそのこずを知り、クビンスキを眵倒したした。そこでクビンスキは、すべおの暡型を炉で溶かし、朚補のものは焌华したした。

1942幎、収容所圓局は、教䌚の鐘を収容所甚のゎングに改造するため、最初の教䌚の鐘を金属加工堎に持ち蟌みたした。この鐘は、近隣のどこかの村の教䌚から持っおきたものでした。鐘には装食暡様ず宗教的な内容の銘文が斜されおいたした。ミュラヌは、それらを旋盀で削り萜ずし、鐘に「KL Auschwitz」ずいう銘を刻むよう呜じたした。最初の鐘を旋盀で削ったのは、囚人ノワディスワフ・ミレツキでした。この鐘は、厚房前の鉄補䞉脚台に取り付けられたした。しかし、鐘を固定匏に取り付け、動くのが鐘の舌だけになるようにしたため、4か月埌にひびが入りたした。

続いお、さらに2぀の鐘が同時に運び蟌たれたした。それらも削っお装食や教䌚関係の銘文を取り陀き、同じく固定匏に取り付けられたした。2番目の鐘は音楜広堎に面した厚房の角に、そしおそれが割れた埌、3番目の鐘は厚房の建物に取り付けられたした。3぀ずも固定匏に取り付けられおいたため、そのためにひびが入りたした。4番目の鐘は、厚房の前にある小さな瀌拝堂颚の建物に蚭眮されたした。その建物は珟圚たでそこに残っおいたす。この鐘は可動匏に取り付けられたため、今日たで残りたした。鐘が眮かれおいる小屋を、私たちは「聖カドゥクの瀌拝堂」ず呌んでいたした。収容所で悪名高かったRapportfÃŒhrer報告係のカドゥクの姓にちなんだものです。圌はこの小屋で報告を受けおいたした。カドゥクはホゞュフ出身のシロンスク人で、ポヌランド語を非垞に䞊手に話したした。背が高く、前かがみで、35歳くらいでした。い぀も酔っ払っお歩き回り、収容所の恐怖の的でした。䜕の理由もなく囚人を殎り、ブロックに抌し入っお捜玢を行い、囚人が収容所の倖から持ち蟌たれた物を䜕か持っおいるのを芋぀けるず、それを取り䞊げ、その囚人を政治郚ぞ連行するか、あるいはその囚人ず取匕をしお脅迫したした。囚人たちにりォッカや゜ヌセヌゞを芁求するこずが最も倚かったです。オシフィ゚ンチム収容所が解䜓された埌、私はマりトハりれンで圌に再䌚したした。

1942幎秋、ノェヌアマハトの航空兵であるオヌバヌロむトナント兌オヌバヌメディツィナルラヌトのシュヌマン博士がオシフィ゚ンチムに珟れたした。圌はベルリンの教授でした。38歳くらいの男性で、背が高く、巊頬に傷跡がありたした。圌は技垫やゞヌメンスの䜜業員の協力を埗お、ブゞェゞンカの女性収容所第30ブロックに2台のX線装眮を蚭眮したした。ゞヌメンスの䜜業員たちが去った埌、圌はこれらの装眮の保守を、Bauleitungの電気工コマンドで働いおいたチェコ人スタニスラフ・スレザクに任せたした。私はスレザクず同じブロックで暮らしおいたした。圌は私に、それらの装眮が䜕のために䜿われおいるのか、たたどのような構造になっおいるのかを話しおくれたした。X線装眮は金属補の架台に蚭眮され、コンクリヌトで固定されたレヌルの䞊を移動するようになっおいたした。それぞれの装眮にはRentgenbombeX線管が備えられおいたした。これらは25䞇ボルト、40mA甚に蚭蚈されおいたした。電流甚の導線は、その内郚を流れる油によっお冷华される構造になっおいたした。ポンプのタンク内には銅補のコむルがあり、そこを冷氎が流れお油を冷华しおいたした。たた、装眮の過熱を防ぐための氎銀スむッチも備えられおいたした。2台の装眮はケヌブルによっお操䜜宀に接続されおいたした。この操䜜宀は、厚さ5ミリメヌトルの鉛で二重に絶瞁された壁を持ち、そこには制埡装眮ずRentgenbombを操䜜するための装眮が蚭眮されおいたした。この郚屋には鉛ガラスの窓があり、シュヌマンはその䞭に座っお凊眮の経過を芳察し、照射量を調節しおいたした。

これらの装眮を䜿っお、女性ず男性の䞍劊手術が行われたした。女性は2台の装眮の間にある腰掛けに座らされ、1台目のRentgenbombeX線管のフィルタヌを仙骚付近に圓お、もう1台の装眮の管球のフィルタヌを前偎から圓おたした。このような照射は5分から15分続きたした。電圧ず電流の匷さ、および照射時間は、照射によっお䜕を達成しようずしおいたかに応じお、シュヌマン自身が調節したした。このような凊眮の埌、倚くの女性がそこで嘔吐したした。私たちは、ブゞェゞンカからオシフィ゚ンチムたで埒歩で戻っおくる圌女たちを芋たした。圌女たちは第10ブロックに収容されたした。圌女たちは前かがみになり、腹郚を抌さえお歩いおいたした。これらの女性の倚くが、第10ブロックで、照射された郚分が焌けたこずが原因で死亡したした。その他、朰瘍が生じた女性たちは、ガス宀ぞ送られるか、あるいはSzpilowanie泚射による殺害をされたした。

男性には1台の装眮だけを䜿っお照射したした。片方の睟䞞だけを焌き、もう䞀方は照射䞭、鉛で芆いたした。凊眮の埌、圌らは通垞のブロックぞ戻され、䌑暇を䞎えられおもせいぜい1日だけでした。そしお翌日には、健康状態にかかわらず、仕事ぞ駆り立おられたした。倚くの男性が照射が原因で死亡したした。生き残った者たちは、1か月埌、シュヌマンによっお病院で去勢されたした。切陀した睟䞞はシュヌマンが瓶に入れお持ち去り、ベルリンぞ運びたした。

凊眮の察象ずしおは若く健康な人々が遞ばれ、䞻ずしおギリシャ系のナダダ人男性・女性でした。圌らは、シュヌマンの芁求に応じお、シリンガヌが各ブロックから遞び出したした。

シュヌマンは1回の凊眮で玄30人の女性に斜術したした。圓初、最初の数か月間は、週に23回、照射を行っおいたした。1943幎5月、2台の装眮のうち1台を䜜動させおいたポンプが故障したした。金属加工堎の垳簿によれば、その時このポンプを修理するこずになったのは私でした圓該番号433。その際、スレザクが私をシュヌマンに掚薊したした。私はシュヌマンから通行蚌を受け取り、それによっお女性収容所ぞ自由に出入りできるようになりたした。私は2台のポンプを取り倖し、その構造を調べたうえで、そのうち1台を意図的か぀故意に、故障した状態のたたにしおおきたした。そのため、金属加工堎にあった工具では、もはや修理できない状態になりたした。このようにしお、1台の装眮を恒久的に䜿甚䞍胜にしたした。シュヌマンはそれを修理のためにドむツ本囜ぞ送りたした。それ以埌、女性の䞍劊手術は行われなくなりたした。女性の凊眮には2台の装眮が必芁でしたが、䜿甚できるのは1台だけになったからです。そのため、男性だけが1944幎9月たで䞍劊手術を受けたした。1944幎9月、シュヌマンは去りたした。第30ブロックのX線装眮は、その埌メンゲレが匕き継ぎ、自分の目的のために䜿甚したした。残りの装眮は1944幎12月に解䜓され、ドむツ本囜ぞ運び出されたした。

このような装眮は、シュヌマンが癌の治療に関する実隓を行うためにも䜿甚しおいたした。その目的で、3歳から16歳たでのゞプシヌの子䟛たちが、ゞプシヌ収容所から遞ばれお圌のもずに送られたした。子䟛たちには、頭郚に、最も倚くの堎合は口腔内や唇に、癌性の朰瘍があり、それは、私たちに説明されたずころでは、人工的な移怍によっお匕き起こされたものでした。シュヌマンはこれらの実隓を玄80人のゞプシヌの子䟛たちに察しお行い、その子䟛たちは党員死亡したした。圌らはシュヌマンの専甚ずなっおおり、シュヌマン自身がゞプシヌ収容所ぞ行っお、実隓の察象ずする子䟛たちを遞んでいたした。すべおの囚人の目にも、たさに子䟛たちが癌に䟵されおいるこずが明らかでしたが、幎長のゞプシヌたちにはこの病気が芋られたせんでした。

1943幎5月、X線装眮のポンプを修理するためにシュヌマンが私に発行した通行蚌を、私は圌に返华せず、1944幎末近くたでほずんど垞に身に぀けおいたした。その通行蚌のおかげで、私はブゞェゞンカの収容所党䜓を自由に移動するこずができたした。この装眮の保守担圓ずしお恒久的に配眮されおいたスレザクは、毎日の勀務時間をすべお第30ブロックで過ごしおいたした。そのため、1944幎1月、圌は恒久的にブゞェゞンカ収容所ぞ移されたした。私は通行蚌を持っおいたので、第30ブロックの圌を蚪ねるこずができ、その際、そこに蚭眮されおいた装眮に぀いお詳しく知るずずもに、その装眮を䜿っおシュヌマンが行っおいた凊眮に぀いお、スレザクからいく぀かの詳现を聞くこずができたした。

女性たちは、服を脱いで照射を受けるこずを嫌がりたした。シュヌマンは長く现い鞭を持っおおり、ぐずぐずする女性たちをそれで殎りたした。女性収容所を歩き回る䞭で、私は、SS女性隊員やSS隊員が、男性収容区域で男性を殎っおいたのず同じように、女性囚人たちを殎っおいるこずを知りたした。私は、䜜業コマンドから戻っおきた女性たちを収容所内ぞ入れる際の手続きを自分自身で目撃したした。RottenfÃŒhrerのタりベは収容所の門に立ち、地面から玄50センチの高さに棒を暪たえおいたした。オランダ匏の朚靎を履いお仕事から戻っおきた女性たちは、その棒を飛び越えなければなりたせんでした。障害物を飛び越えた者は自分のブロックぞ行き、飛び越えられなかった者はシリンガヌによっお蚘録され、その埌、第25ブロックぞ送られたした。そこは、この区域では、もはや劎働に適さない人々を収容する堎所ずなっおおり、ブロックが満員になるず、圌らは車でガス宀ぞ運ばれたした。なお、仕事から戻っおきた女性たちは飢え切っおいたした。䜜業コマンドでは昌食を䞎えられなかったからです。この食事は、収容所に戻った倕方になっお初めお圌女たちに䞎えられたした。

X線装眮の詳现な蚭蚈図、写真資料を甚いおこの装眮の䜿甚方法を図解したパンフレット、そしおシュヌマンがこの装眮を䜿っお凊眮を行った人々の名簿を、スレザクは所持しおいたした。1945幎1月4日、圌は5人のアヌリア人ずずもに、Sonderkommandoからマりトハりれンぞ送られたした。スレザクがサりナぞ行く前に、私はこれらの文曞を保管するために私に枡しおくれるよう頌みたした。しかし、圌は頑ずしお聞き入れず、それらを自分で持っお行きたした。そしお、私が圌がサりナから戻っおくるのを芋たずきには、それらの文曞を入れおいた曞類鞄を持っおいたせんでした。埌に私自身も移送によっお送られたマりトハりれンで、スレザクず、Sonderkommandoのアヌリア人たちが、マりトハりれン収容所に入っおから2日埌に銃殺されたこずを知りたした。この知らせを最初に私に䌝えたのは、スタラホノィツェ出身のノワディスワフ姓は芚えおいたせんで、その埌、オシフィ゚ンチムの元Rapportschreiberで、マりトハりれンでは囚人ずしお政治郚の事務所で働いおいたキステルが、その話を確認したした。マりトハりれンぞ出発する前、スレザクは私に、シュヌマンの特別な芁求によっおオシフィ゚ンチムを離れるのであり、今埌も圌のもずで働くこずになる、ず話しおいたした。

1943幎春、私は収容所の屠殺堎のために初めお仕事をしたした。この屠殺堎は組織䞊はDeutsche Lebensmittel GmbHに属しおいたしたが、有限䌚瀟ずいう圢態を取っおいたものの、実際には収容所圓局に属し、SS隊員によっお管理されおいたした。この䌚瀟の責任者はUntersturmfÃŒhrerの゚ンゲルブレヒトで、屠殺堎の責任者は最初がUnterscharfÃŒhrerのロス、その埌がUnterscharfÃŒhrerのオルマンチクOrmanschikでした。オルマンチクの埌には、オポヌレ出身のUnterscharfÃŒhrerダヌニが屠殺堎の責任者になりたした。

私が屠殺堎のために行った最初の仕事は、゜ヌセヌゞ補造甚の泚入噚を修理するこずでした。この仕事を通じお、私は屠殺堎で働いおいる人々、特にそこで働いおいた私の友人、ワルシャワ出身の電気技垫スタニスワフ・ザりェンツキず接觊するようになりたした。私たちは、ザりェンツキが時々、屠殺堎の䜕かを故障させ、私を修理のために呌ぶずいう取り決めをしたした。目的は、私が屠殺堎ぞ行き、そこから肉、ベヌコン、゜ヌセヌゞ、その他の食料品を持ち出せるようにするこずでした。屠殺堎のための仕事はすべお、屠殺堎の責任者からの指瀺を受けずに私たちが金属加工堎で行っおいたため、私はロスずも゚ンゲルブレヒトずも、屠殺堎から私が肉補品を持ち出すこずに぀いお話すこずができたした。圌らは譊備所に察しお、私が屠殺堎のために行った仕事の報酬ずしお、公匏に圌らから食料品を受け取っおいるので、私を身䜓怜査しおはならない、ずあらかじめ䌝えおいたした。もちろん、圌らは私が゜ヌセヌゞを1本持っお行くこずを蚱しおいたしたが、私は毎回6本の゜ヌセヌゞを持ち出しお金属加工堎ぞ運びたした。屠殺堎にいる間、私は自分自身も腹いっぱいになるたで食べおいたので、盗み出した゜ヌセヌゞを仲間たちに分けたり、病院ぞ送ったりするこずができたした。さらに私はザりェンツキず、3本の゜ヌセヌゞを金属加工堎で分け、3本をブロックず病院ぞ送る、ずいう取り決めをしおいたした。

屠殺堎からは、ベルトの䞋に品物を隠しお持ち出しおいたした。最初のうちはこのこずに慣れおいたせんでしたが、やがお手慣れおきお、先にも述べたように、䞀床に1キログラムの゜ヌセヌゞを6本運べるようになりたした。収容所ぞ送る分に぀いおは、昌食を運んでくる手抌し車の蜅に開けられた空掞に゜ヌセヌゞを詰めたり、あるいはそのために特別に䜜ったスヌプ甚の釜や、溶接装眮のボンベの䞭に入れたりしお運びたした。

屠殺堎のコマンドは、ポズナン地方出身のカポ、ズゞシェクずずもに非垞に献身的に働き、屠殺堎から品物を持ち出すこずを容易にしおくれたした。たた、このコマンドの人々自身も、そこから倧量の品物を持ち出しおいたした。そのこずにかけおは、ゞノィ゚ツ出身の囚人タデク・バりトが専門家でした。圌は屠殺堎から骚を運び出す仕事をしおいたした。圌は手抌し車に゜ヌセヌゞを積み、その䞊から骚を茉せお、屠殺堎の譊備区域の倖たで運び、そこから別の囚人たちがその品物を回収しお収容所内ぞ密かに持ち蟌みたした。屠殺堎から収容所ぞ非垞に倧量の品物を持ち出した者の䞭には、アりグスティン・マニコフスキ神父もいたした。この関連で、ワルシャワ出身の囚人ミェチスワフ・ザノァツキに぀いおも挙げおおくべきでしょう。圌は屠殺堎の冷蔵宀で働いおおり、たったく芋返りを求めるこずなく、品物を゚レベヌタヌで䞊ぞ送り、そこから他の囚人たちがそれを回収できるようにしお、品物の持ち出しを可胜にしおいたした。

もちろん、このように密告網が匵り巡らされおいた状況では、ここでも犠牲者を出さずには枈みたせんでした。1943幎秋、屠殺堎から肉や゜ヌセヌゞを持ち出したこずに関連しお、4人が銃殺されたした。屠殺堎で働いおいたクラクフ出身のスタニスワフ・ツィガン、リマノノァ出身のスタニスワフ・ノィテク、そしお名前を芚えおいない3人目のポヌランド人囚人が、屠殺堎から豚1頭分の肉を持ち出したした。その肉を圌らから受け取ったのは、クリニツァ出身で塗装工堎に勀務しおいたノィルヘルム・クラクで、圌はそれを第15aブロックぞ運びたした。そこで囚人たちの間で分配されたした。これを知ったのが、すでに私が述べた政治郚の密告者ドルシェノィチで、圌がこの件を密告したした。クラクは政治郚ぞ呌び出され、殎打された埌、屠殺堎ぞ連れお行かれたした。そこで囚人党員を敎列させ、その䞭からクラクは、ツィガン、ノィテク、そしお名前を芚えおいない先ほどの3人目の囚人を、盗みの実行者ずしお指し瀺したした。この事件にはさらに倚くの囚人が関䞎しおいたしたが、クラクは圌らに぀いおは密告したせんでした。ツィガンず残りの2人は、政治郚で恐ろしい方法による拷問を受けたにもかかわらず、それ以䞊の共犯者を誰䞀人ずしお密告せず、結局、銃殺されたのはこの3人ずクラクだけでした。

屠殺堎で子牛の腞を掗浄する仕事をしおいた囚人にスタニスワフずいう者がいたした。圌はすべおの囚人に「元気か、愛する家族よ」ず声をかけおいたので、私たちは圌を「スタニスワフ・ロゞンカ」ず呌んでいたした。圌は幎配の男性で、この仕事はき぀かったので、私に愚痎をこがし、「食べ物のためでなければ、この仕事を攟り出すのだが」ず話しおいたした。「ロゞンカ」が腞を凊理するために䜿っおいた道具を芳察しおいるうちに、もっず改良できるのではないかず思い、子牛の腞を切り開くための専甚機械を考案するずいうアむデアを思い぀きたした。私はそのこずを「ロゞンカ」に話し、「ロゞンカ」は屠殺堎の責任者ロスに䌝えたした。ロスは私ず亀枉し、私に食事を䞎え、屠殺堎の倖ぞ゜ヌセヌゞを持ち出すこずを認める代わりに、そのような機械を私が補䜜するこずに同意したした。私はわざず䜜業をかなり長匕かせ、しばしば倧したこずのない鉄片を持っお屠殺堎ぞ行き、その鉄片を腞に圓おお寞法を枬るなどしながら、玄3週間かけおその機械を蚭蚈したした。ロスが苛立ち始めたので、最終的には䜜業を終えなければならず、玄束した機械を実際に完成させたした。それによっお䜜業速床は10倍になり、しかも䜜業そのものがたったく軜いものになりたした。ロスは私の仕事に倧いに満足し、私にその機械の技術図面ず技術説明曞を䜜るよう芁求したした。なぜそれが必芁なのかず私が尋ねるず、圌は曖昧な返事をしたした。埌になっお分かったこずですが、このロスは、私が考案した機械をカトノィツェかブレスラりで自分の名前で特蚱登録し、その特蚱をある屠殺業者向けの䌚瀟に売华しおいたした。その少し埌、私は政治郚ぞ呌び出され、そこで、収容所の金属加工堎に察しお、このような機械の補造を犁止する内容の文曞が届いおいるこずを瀺されたした。この文曞の内容を私に䌝えられ、もしこの犁止呜什に埓わなければ、叞法䞊の凊眰を受けるこずになる、ず告げられたした。私は政治郚で、このような玄束曞に眲名させられたした。

退職する際、ロスは屠殺堎から、そのために䜜られたこの機械も持ち去りたした。そこで゚ンゲルブレヒトが私に2台目の機械を泚文したしたが、私は政治郚ずのトラブルに陥ったり、ロスの特蚱暩を䟵害したりするこずを避けるため、その構造を倉曎したした。原理は同じたたで、技術的な现郚だけを倉曎したした。珟圚、委員䌚が所持しおいる機械は、たさに私が゚ンゲルブレヒトの泚文を受けお収容所の屠殺堎のために補䜜した2台目の機械です。

この機械の補䜜に関連しお、ロスも、その埌任者たちも、そしお゚ンゲルブレヒトも、私が屠殺堎から肉や゜ヌセヌゞを持ち出すこずを蚱しおくれたした。たた、私の頌みに応じお、私ず䞀緒に金属加工堎で働いおいた囚人たちのために、屠殺堎からスヌプをバケツ䞀杯持ち出すこずも蚱可しおくれたした。屠殺堎で働いおいた囚人たちは、そのバケツに现かく挜いた肉を入れ、SS隊員甚のパテ・゜ヌセヌゞをスヌプの䞭で溶かし、さらにラヌドを加えたした。そのため、私が持ち出した料理によっお、非垞に倚くの囚人を助け、䜓力を維持させるこずができたした。私は自分ではこのスヌプを食べたせんでした。屠殺堎ぞ行った際、そこで食事をしおいたからです。腹いっぱいになっおいた私は、自分に配絊された収容所の食事も囚人たちに枡したした。屠殺堎から持ち出したスヌプは、最も匱っおいる者、飢えのために完党に䜓力を倱っおいる者たちの間で分配したした。もちろん、分配をめぐっおは揉め事も起こりたした。1杯のバケツだけで200人を食べさせるこずなど、私にはできなかったからです。それでも私は、分配する際には䜕よりも、その人が健康状態のために本圓に栄逊補絊を必芁ずしおいるかどうかを基準にしたした。

ドルシェノィチずクラクの密告事件の埌、屠殺堎での監芖が匷化され、私も身䜓怜査を受けるようになりたした。そのため、私たちは品物を持ち出す別の方法を探さなければなりたせんでした。

屠殺堎で働いおいた囚人たちは、乳補品工堎を経由しお、乳補品工堎ぞ通じる穎から、その品物を屠殺堎の倖ぞ送り出しおいたした。その穎は厳重に停装され、事情を知る者だけがその存圚を知っおいたした。この件を指揮しおいたのはザりェンツキでした。

金属加工堎ぞ運ぶ品物に぀いおは、溶接装眮甚のボンベに入れお屠殺堎から運び出したした。そのようなボンベの䞭に、私はバルブから150ミリメヌトル離れたずころに底板を取り付けたした。この第2の底板ずバルブずの間の空間にはアセチレンを充填したした。このガスは、小型のバヌナヌを䜿えば、玄1時間の溶接に十分な量でした。ボンベ内郚の残りの空間は、゜ヌセヌゞを運ぶために䜿いたした。ボンベの底を倖しおから、そこに゜ヌセヌゞを入れたした。ザりェンツキは、溶接工たちができるだけ頻繁に屠殺堎で必芁ずされるよう、あずは自分の裁量で手配しおいたした。このボンベを䜿っお、肉や肉補品をブゞェゞンカの女性区域ぞも運びたした。屠殺堎で働いおいた囚人、あるいは私たちのずころで働いおいた囚人の母芪や姉効、そしおその他の仲間たちのためでした。屠殺堎からの補品の非垞に倚くが、病気の囚人たちのために送られたした。

食肉凊理堎では玄120人の囚人が働いおおり、そこでは毎日倧量の肉が凊理されおいたした。ある日には、冷蔵宀に8侇kgにも及ぶ肉が眮かれおいるこずさえありたした。食肉凊理堎の䌚蚈および簿蚘はカポのズゞシェクが担圓しおおり、圌はその䌚蚈においお、囚人たちのために食肉凊理堎から䞍法に持ち出されたすべおの物を圓然のこずながら隠しおいたした。1944幎10月、ズゞシェクおよびその他倚数の囚人が移送列車でドむツ本囜ぞ送られたした。圌の埌任のカポずなったのは、垝囜ドむツ人reichsdeutschのノィリでした。垳簿を調べたずころ、カポがズゞシェクだった期間に぀いお、圌ずその郚䞋たちが食料品を収容所ぞ持ち出したこずによっお生じた䞍足を、氎を加えるなど圌らが知っおいる方法で補おうずしおいたにもかかわらず、䞻ずしおラヌドや脂肪類が玄1侇kg䞍足しおいるこずが刀明したした。この件に぀いお政治郚に説明を行ったのはマネクずいう囚人で、ズゞシェクの時代にはシュラむバヌを務めおいたした。圌はシロンスク出身で、フォルクスドむッチュでした。圌の説明を受けお、ズゞシェクを連行しお捜査を行うため、3人のSS隊員がオシフィ゚ンチムから掟遣されたした。ズゞシェクは事情を察し、移動䞭に列車から飛び降りたした。その埌どうなったのか、圌が生きおいるのかどうか、私は知りたせん。いずれにせよ、SS隊員たちは圌をオシフィ゚ンチムぞ連れ戻すこずはできたせんでした。

私が収容所に到着しおから最初に目撃した囚人の銃殺は、すでに述べたように私たちが倜間点呌の埌も働いおいた、鍛冶工堎から芋たものでした。圓時、銃殺は、その埌新しい食肉凊理堎が建蚭された堎所にあった杭のずころで行われおいたした。そこには地面に玄3メヌトル間隔で8本の杭が打ち蟌たれおいたした。それぞれの杭には鉄の茪が取り付けられおおり、そこに囚人を䞡手を埌ろぞねじり䞊げた状態で瞛り付けおいたした。銃殺は、ヘルメットをかぶった銃殺隊によっお行われ、その隊を圓盎のSS将校が指揮しおいたした。銃殺される者たちは腰から䞊を裞にされおいたしたが、目隠しはされたせんでした。

1940幎12月、カトノィツェから40人のポヌランド人がバスで連れお来られたした。圌らはドレリヒだけを身に぀け、䞋着も靎も垜子もありたせんでした。圌らは雪の䞊に裞足のたた玄30分間立たされたした。しばらくするず、収容所長のヘスが政治郚のグラブナヌずずもにやっお来お、死刑囚たちに、恩赊を受けお死刑が終身刑に倉曎されたため、銃殺されるこずはないず告げたした。これらの囚人党員には「IL」ずいう文字im Lager――「収容所内においお」が付され、懲眰䞭隊に線入され、圓時13号ずされおいた11号棟に収容されたした。これらの人々は、先に述べた服装、すなわち裞足で、䞋着も垜子もない状態で、点呌堎においお針金を巻き取ったり、レンガからモルタルを剥がしたりする䜜業を行いたした。この䜜業は座った姿勢で行わなければならず、石の䞊に座っおいたした。そしお、凍えたため、圌らは党員、䞀週間以内に死亡したした。

その埌、銃殺隊による銃殺は、珟圚、入口門の前にある「Arbeit macht frei」の暙識の付いた門の前、珟圚のBlockfÃŒhrerstubeがある堎所の土坑で行われるようになりたした。そこから銃殺堎はさらに鉄道支線の方向、珟圚のBauhofの方向ぞ移されたした。そこで1942幎7月、最初の倧芏暡な銃殺が行われたした。すなわち、䞻ずしおクラクフ出身のポヌランド人82人が銃殺されたした。圌らは党員、政治郚によっお囚人の䞭から遞び出された人々でした。この集団の䞭には、クラコノィアのリヌグ戊サッカヌ遞手だったりコもいたした。銃殺される前に圌は鍛冶工堎で働いおいたので、私は圌を芚えおいたす。りコの集団では、人々は10人ず぀銃殺されたした。党員が䞡手を埌ろで針金によっお瞛られおおり、最埌の10人はその間ずっず芋おいなければならなかったので、圌らの目の前で70人以䞊の仲間が銃殺されたした。このこずは、銃殺された人々の遺䜓を運び出す䜜業に埓事しおいた囚人たちず、窓から銃殺の堎面を芳察できた厚房勀務の囚人たちが私たちに話しおくれたした。圌らからは、私がすでに述べた詳现のほかに、各10人の銃殺が終わるたびに、囚人たちの間でポヌランド人殺しずしお知られおいたLagerfÃŒhrerのフリッチュず、その副官ザむドラヌが銃殺された者たちのずころぞ近づき、銃殺隊の䞀斉射撃が止んだ埌、フリッチュたたはザむドラヌが、地面に暪たわるすでに無残に打ち砕かれた遺䜓の頭郚にピストルで「名誉の䞀発」を撃ち蟌んでいたこずも聞きたした。その際、フリッチュは「豚のような犬ども、ポヌランド人め、この䞀発に倀しない」ず蚀っおいたした。

1942幎の倏の終わり頃、11号棟の䞭庭に、いわゆる「黒い死の壁」が造られたした。ご存じのように、10号棟ず11号棟は高い壁で぀ながっおいたす。その壁の、鉄条網偎に面した偎に、11号棟の䞭庭ぞ高さ玄2メヌトル、幅4メヌトルたでの鉄道枕朚を埋め蟌みたした。枕朚で䜜られたこの壁ず既存の壁ずの間には、砂ず土を詰めたした。壁の正面には屋根玙を匵りたした。それ以埌、銃殺は「死の壁」の前で行われるようになりたした。そこで最初に銃殺されたのは、1942幎11月11日の42人のポヌランド人でした。圌らは政治郚によっお囚人の䞭から遞び出された人々でした。その䞭には、2人ずもボフニャ出身の囚人プシビりりォずコノァリクがいたした。この2人も鍛冶工堎で働いおいたので、私は圌らの名前を芚えおいたす。この42人党員をパリチュが銃殺したした。このほかの銃殺には、政治郚所属のフィッツェプフュッツェずラッハマンの2人RapportfÃŒhrerプフュッツェ、さらにArbeitsdienstfÃŒhrerの副官であるもう1人のSS隊員も参加しおいたしたが、その名前は芚えおいたせん。

「死の壁」での銃殺は、次のような方法で行われたした。11号棟のブロック長が2人の囚人を䞭庭ぞ連れお入り、圌らの腕を぀かんだたた䞀緒に立ち、「黒い壁」に顔を向けさせたした。パリチュは埌ろから近づき、至近距離から死刑囚の埌頭郚を撃ちたした。LagerÀltesteは銃殺された者を脇ぞ抌しやり、そこから病院で看護人を務めおいた囚人たちが遺䜓を運び出したした。遺䜓は十字になるように積み重ねられたした。圓初は䞀぀の棺に2䜓ず぀遺䜓を入れ、ロヌルワヌゲンで火葬堎ぞ運びたした。銃殺者が倚い堎合には、棺には入れず、遺䜓をそのたたロヌルワヌゲンに積み蟌みたした。看護人たちは血をシャベルで鉄補の暋に集め、䞋氎溝ぞ流したした。その埌、䞭庭党䜓に砂を撒き、そのように枅掃しお初めお、懲眰䞭隊の者たちが䞭庭ぞ入るこずができたした。11号棟の䞭庭から火葬堎たで、遺䜓を茉せた車が通った道党䜓が、火葬堎ぞ運ばれた遺䜓から倧量に流れ出た血で血たみれになっおいたした。

私は1942幎11月11日の「黒い壁」の前での銃殺を自分自身で目撃したした。そのずき、鍛冶工堎の囚人ステティフカず䞀緒に、20号棟の屋根で煙突のそばの板金を修理しおいたした。私たちは芋぀からないよう煙突の陰に隠れ、そこから凊刑の䞀郚始終を詳しく芋るこずができたした。「黒い壁」の前ぞ連れお来られた囚人たちは、手を瞛られおいなかった堎合、十字を切っお別れの挚拶をしおいるのが芋えたした。最初に十字を切るず、パリチュは「Noch einmalもう䞀床」ず呜じ、囚人がもう䞀床手を額に圓おたずき、銃声が響きたした。

1942幎12月には、そこで倜になるず非垞に倚くのロシア人捕虜が銃殺され、朝になるず䜕癟人もの単䜍で11号棟ぞ远い蟌たれおいたした。圓時、私はシャブレフスキ、マリシェフスキ、ノァルチャクず䞀緒に10号棟の廊䞋で寝おいたので、銃声を䞀発残らず聞いおいたした。ある倜には2人のSS隊員が銃殺を行っおいたした。私は、パリチュの声を聞き分けるこずができたので、圌の助手を務めおいたのはプフュッツェだったのではないかず思いたす。その倜、圌らは午埌9時30分から午前4時たでの間に、玄1,500人のロシア人捕虜を銃殺したのだず思いたす。朝、10号棟の掗面宀Waschraumから11号棟の䞭庭を芗いおみるず、䞭庭党䜓が死䜓で埋め尜くされおいたした。これらの死䜓は荷車でブゞェゞンカぞ運ばれ、そこで埋葬されたした。

1943幎には、ルブリンからの移送列車で到着した260人の囚人が11号棟で銃殺されたした。埌になっお私たちに聞かされたずころでは、この時期にルブリン地方で倧芏暡な砎壊工䜜が䜕か行われたずいうこずでした。ルブリンのゲシュタポの呜什により、政治郚は囚人の䞭から、ルブリンからの移送列車で到着した者たちを遞び出したした。260人党員を11号棟に収容し、その埌、パリチュずプフュッツェが圌らを銃殺したした。

この間、すなわち1940幎から1943幎5月たで、絶え間なく銃殺が行われおいたした。囚人たちは非垞に神経を尖らせ、䞍安を抱えおいたした。そこで政治郚は、銃殺が収容所内に䞍安を匕き起こしおいるため、別の殺害方法を芋぀ける必芁があるず刀断したした。パリチュはすべおのブロック長を集めお䌚議を開き、これ以埌、収容所内で銃殺は行われないこず、死刑が廃止されたこずを各ブロックの囚人たちに䌝えるよう呜じたした。それ以埌、死刑を宣告され、政治郚によっお死刑に凊されるこずになった者たちは、党員、草刈り班komando kosiarzyに線入されたした。この班は原則ずしお60人で構成されおいたした。それずは別に、やはりArbeitsdienstを通じお、ただし政治郚からの明確な指瀺によっお、死刑を宣告された者たち党員がこの班に割り圓おられたした。これらの人々は、逃亡を図ったずいう名目で、䜜業珟堎で銃殺されたした。圌らは草で芆った荷車に茉せられお収容所ぞ運び戻されたした。11号棟で行われた銃殺に぀いお最も詳しく説明できるのは、おそらくブゞェシュチ出身のリシャルト・マリノフスキでしょう。圌は銃殺が最も盛んに行われた時期に、玄14か月間11号棟にいたした。

私が収容所で最初に絞銖刑を目撃したのは、1943幎倏でした。これらの凊刑は倜間点呌の埌に行われたした。収容所党䜓のすべおの囚人が点呌堎に敎列させられたした。私が立ち䌚った最初の凊刑の際には、そこに2基の絞銖台が建おられおいたした。死刑囚たちはその脇に立たされたした。そこでラッハマンが圌らにポヌランド語で刀決を読み䞊げ、その内容から、2人ずも逃亡を詊みたこずを理由ずしお絞銖刑による死刑を宣告されたこずが分かりたした。2人の死刑囚は䞡手を埌ろで瞛られ、身に぀けおいるのはドレリヒだけで、䞋着も靎も垜子もありたせんでした。2人ずも若いポヌランド人で、䞀人は20歳くらい、もう䞀人は25歳くらいだったず思いたす。圓時のLagerfÃŒhrerであったアりマむダヌの呜什により、刀決を読み䞊げた埌、圌らは24号棟のSchreibstubeぞ連れお行かれ、そこでさらに25回の棒打ちを受けたした。その埌、圌らは絞銖台の䞋ぞ連れお来られたした。それぞれが螏み台に乗っお、絞銖台の台座に䞊がりたした。そこで、11号棟の地䞋牢Bunkerから2人の死刑囚ず䞀緒に絞銖台ぞ連れお来られた2人の囚人が、圌らの銖に瞄を掛けたした。この瞄を掛けた2人も死刑を宣告されおおり、数日埌、同じ絞銖台で、同じ方法によっお絞銖刑にされたした。この次の2人に瞄を掛けたのは、Fahrbereischaftのカポで、収容所内で密告者ずしお知られおいた垝囜ドむツ人reichsdeutschのペハン・マニェフスキポズナン出身でした。圌は元ゲシュタポの運転手で、赀いりィンケルの番号を付けおいたした。

絞銖台はさたざたな構造になっおいたした。片方では、囚人が立っおいた怅子を足元から匕き抜くこずによっお吊るし、もう片方にはクランク匏の萜ずし戞がありたした。最初の二人の囚人を凊刑した際、䞀方の絞銖台では、囚人の足元から怅子を匕き抜いたのは、緑色のりィンケルを付けたラむヒスドむッチュの囚人、LagerÀltesteのブルヌノ番号1でした。圌の名前はブロドニェノィチBrodniewiczで、やはりポズナニ出身でした。もう䞀方の絞銖台の萜ずし戞は、SS隊員のカドゥクがクランクを䜿っお開きたした。萜ずし戞のある絞銖台の男はかなり長い間苊しみたした。どうやら瞄の掛け方が悪かったらしく、圌は萜ずし戞の瞁に身䜓を支えようずしたした。そのずきブルヌノが駆け寄り、吊るされた男の䞡脚を぀かんで、䜕床か䞋ぞ匕っ匵りたした。遺䜓は䞀晩䞭絞銖台に吊るされたした。二人の死刑囚は凊刑前、たったく平静な態床を瀺し、頭を䞊げたたた立っおおり、泣きもせず、䜕も蚀いたせんでした。

十数日埌、同じ堎所で、同じ絞銖台を䜿っお、さらに二人の死刑囚が絞銖刑にされた。圌らもたたポヌランド人で、若い青幎たちであり、逃亡を詊みたために絞銖刑による死刑を宣告されおいた。このずきも、ポヌランド語を話す政治郚のSS隊員が刀決を読み䞊げた。死刑囚の䞀人は泣き、「自分を吊るさないでくれ、ただ蚌蚀しなければならないこずがある」ず懇願した。この詊みは功を奏せず、死刑囚は絞銖刑にされた。

第䞉の凊刑は、6ブロックず16ブロックの間の通路で行われた。そのずき、自由瀟䌚から来た民間人䞀人が絞銖刑にされた。圌は囚人を揎助したこずを理由に死刑を宣告されおいた。

ドロシェノィチDorosiewiczによっお密告された、Bauleitungの枬量事務所の12人の囚人は、厚房前の広堎で絞銖刑にされた。そこには二本の柱が地面に埋められ、その頂郚に鉄道レヌルが固定された。このレヌルに12本の瞄が取り付けられ、その䞋には12脚の怅子が眮かれおいた。絞銖刑を執行したのは、ドむツ人のStrassenbauのカポ、れプルSeplであった。死刑囚たちは党員それぞれの怅子の䞊に立ち、自分たちの仲間が次々ず吊るされおいくのを芋おいた。その集団の12人目は、それ以前の11人党員の凊刑を目撃した。

その埌、囚人を11ブロックの䞭庭で絞銖刑にするこずが行われた。もちろん、もはや囚人の立ち䌚いはなかった。さらに二床、11ブロックから絞銖台が運び出され、異なる時期に二人のナダダ人が絞銖刑にされた。そのうち䞀人は、譊報䞭に道に迷い、゜ワ川Sołaを越えお譊備線の倖偎たで出たが、氎を枡っお川の反察偎ぞ行くこずを恐れお収容所ぞ戻っおきた。圌は歩哚に拘束され、逃亡未遂ずされお絞銖刑による死刑を宣告された。

公開の絞銖刑は、ほかの囚人たちに逃亡を詊みるこずを思いずどたらせるための芋せしめずしお行われた。同じ目的のために、逃亡䞭に射殺された囚人の遺䜓を公衆の面前にさらすこずも行われた。倚くの堎合、そのような囚人にはそもそも逃亡する意思などなかった。単にどこかの干し草の䞭や別の隠れ堎所で眠り蟌み、倕方の点呌に出なかっただけであった。そのような堎合には捜玢が開始され、䞍圚の囚人が発芋されるず、その堎で射殺された。その埌、遺䜓は「Arbeit macht frei」ず蚘された門のそば、BlockfÃŒhrerstubeの前にあるテヌブルに立お掛けるようにしお眮かれ、翌朝、仕事に出発するすべおの䜜業班は、その遺䜓の脇を通らなければならなかった。行進する際、すべおの囚人は右、すなわち遺䜓の方向を芋なければならなかった。遺䜓はたいおい、恐ろしいほど損傷しおいた。

あるずき、私たちがそのようにしお、腹腔から内臓が飛び出しおいる四䜓の遺䜓の脇を行進したこずを芚えおいる。私たちは、これらの遺䜓はすでに死んだ埌、嫌悪感ず恐怖を抱かせる光景を䜜り出すために、適切な方法で傷぀けられたのだず考えおいた。この四人の囚人は、䜜業班でSSの歩哚によっお射殺されたのであった。その䜜業班では五人の囚人が働いおいた。SS隊員が眠り蟌んだずころ、䞀人の囚人が逃走した。SS隊員は目を芚たすず残りの四人を射殺し、その埌、自分の䞊官に察しお、囚人たちは党員逃走を詊み、その逃走䞭に四人を射殺し、五人目は逃走した、ず説明した。

ブゞェゞンカの収容所でも絞銖刑が行われた。そこでは、収容所厚房の前にあった絊氎槜のレンガ造りの支柱で凊刑が行われた。ここでは、ずりわけダロスワフ出身の囚人゚ドノァルト・ガリンスキ番号531が絞銖刑にされた。圌は20歳になる青幎だった。凊刑に先立ち、圌は螏み台の䞊に立っお銖吊り瞄の茪の䞋にいるずき、「ポヌランド䞇歳」ず叫び、自分から瞄の茪に頭を入れ、足元から螏み台を取り陀こうずした。SS隊員たちは圌に駆け寄り、銖から瞄の茪を倖し、誰かが圌を殎り、再び瞄の茪を掛けお、そしお吊るした。

同じ絞銖台では、収容所から逃走し、しばらくしお捕らえられた3人のロシア人も絞銖刑にされたした。圌らには逃走のほかに、あるドむツ人を殺害したずいう眪も負わせられおいたした。このロシア人のうち䞀人は非垞に屈匷な男で、すでに絞銖瞄の䞋に立った状態で、「ロシア䞇歳、スタヌリン䞇歳、ポヌランド䞇歳、われわれは死に向かうが、われわれの兄匟たちはわれわれを忘れないので、われわれは埩讐される」ず叫びたした。凊刑に立ち䌚っおいた政治郚のSS隊員ボヌガヌは、そのロシア人の口を拳銃の柄で殎りたした。それでもロシア人は叫び続け、ボヌガヌが、絞銖瞄の䞋にそのロシア人が立っおいた台の䞊ぞ階段を䞊っおきたずき、圌はボヌガヌの喉を蹎りたした。ボヌガヌは階段から転萜したした。圌は起き䞊がり、再び台に䞊がり、埌ろ手に瞛られおいたそのロシア人の口にハンカチを抌し蟌もうずしたした。それに倱敗するず、ナむフを取り出し、そのロシア人の口の䞡偎を切り裂き、鉄片で固く閉じられた歯をこじ開け、ナむフで舌を切り取りたした。このように傷぀けられた状態で、圌は、䜕の抵抗もしなかったさらに2人のロシア人ずずもに絞銖刑にされたした。この凊刑はポヌランド人ずロシア人の目の前で行われたしたが、圌らは凊刑䞭、䜕の呜什も受けおいないにもかかわらず垜子を脱ぎ、そのようにしお死にゆく者たちに敬意を衚したした。

私の知る限り、最初のガス殺害は1941幎8月14日から15日にかけおの倜ず、8月15日の日䞭に、11ブロックの地䞋房で行われたした。私はこの日付を正確に芚えおいたす。それは私が収容所に到着しおから最初の1呚幎に圓たっおいたこず、そしおそのずき最初のロシア人捕虜がガス殺害されたこずによりたす。1941幎8月14日の倕方、看護係の囚人たちは、病院ブロックから玄250人の病人を11ブロックぞ移したした。続いお、このブロックに数癟人のロシア人捕虜が远い蟌たれたした。圌らが収容所に到着した際、私たちは圌らが政治委員であるず聞かされおいたした。病人も、このロシア人捕虜たちも、11ブロックの地䞋房に収容されたした。これらの地䞋房の小窓は、土で隙間なく芆われたした。SS隊員のBlockfÃŒhrerが、廊䞋偎の扉から地䞋房にガスを投入したした。私はその男の名前を知りたせんが、囚人たちの間では「トム・ミックス」ず呌ばれおいたした。ガスを投入するず、扉は閉められたした。

8月15日午埌4時ごろ、パリチュはガスマスクを着け、点呌広堎を通っお11ブロックぞ向かいたした。圓時は聖母マリアの祝日だったため、私たちは午埌が䌑みで、今述べおいる光景を芳察するこずができたした。11ブロックの地䞋房のKalefaktorenだったミェテク・ボレクずノァツワフ・ルスキは、私に、パリチュがガスマスクを着けたたた地䞋房の扉を開け、そこにいる人々がただ生きおいるこずを確認した、ず話したした。圌らは、四぀ん這いで動くこずしかできず、力もありたせんでしたが、それでもただ生きおいたずいうこずです。そこで「トム・ミックス」が呌ばれ、圌は再びガス猶の䞭身を地䞋房に投入したした。地䞋房が再び開けられたのは、1941幎8月16日の倕方になっおからでした。そこにいた者は、もはや誰も生きおいたせんでした。病院ブロックの看護垫たちは、ガス殺害された者たちを䞭庭ぞ運び出し、そこで遺䜓から衣服を脱がせ、ロヌラヌ車に積み蟌み、ブゞェゞンカの方向ぞ運び去りたした。これが䞀晩䞭続きたした。

その倜は、21号ブロックのダヌシュ・クチュバラの歯科蚺療宀で過ごしたした。私はこの蚺療宀から、遺䜓が運搬されおいく様子をよく芳察するこずができたした。蚺療宀の窓の䞋でロルノァヌゲンが壊れ、遺䜓が地面に萜ちたした。そのずき私は、遺䜓が緑がかった色をしおいるのを芋たした。看護垫は、遺䜓はぬるぬるしおいお、そこから皮膚が剥がれ萜ちおおり、倚くの堎合、指が食いちぎられ、喉も噛み裂かれおいた、ず私に話したした。このこずから、これらの人々が恐ろしい苊痛の䞭で死んでいったこずが芋お取れたした。

その埌のガス凊刑は、すでにクレマトリりムIのガス宀で行われおいたした。このクレマトリりムでのガス凊刑の責任者はヘスラヌでした。私は、か぀おの4号ブロック新しい番号では12号ブロックの階段から、二぀の管理棟の間の隙間越しに、ヘスラヌが、クレマトリりムの盛り土の䞊に、換気扇の近くで突き出おいた投入口を通しお、ガス猶の䞭身を地䞋壕に投入する様子を自分の目で芳察したした。SS病院の歯科蚺療所Zahnstationからは、投入口の脇に、緑がかった青色をした豆ほどの倧きさの小石が散らばっおいるのが芋えたした。ガス凊刑に送られる人々は、倕方の点呌の埌、クレマトリりム入口前の䞭庭に連行されたした。この䞭庭は、セメント板でできた高い壁に囲たれおいたした。そこから䞊の私たちのブロックにたで叫び声が聞こえおきたした。たた、あちら偎から聞こえおくる銃声も聞きたした。ガス凊刑は倕方のゎングが鳎った埌に行われたした。この間、クレマトリりムの炉は絶え間なく燃えおいたした。このずきガス凊刑されたのは、ロシア人捕虜、ナダダ人、ポヌランド人のアヌリア人、そしお病院から遞び出された「ムスリム」でした。

1941幎8月に11号ブロックの地䞋壕でガス凊刑された病人ずロシア人の遺䜓は、クレマトリりムでは焌华されず、すでに述べたようにブゞェゞンカの方向ぞ運び出され、そこで地䞭に埋められたした。遺䜓の局には塩玠ず石灰が振りかけられおいたにもかかわらず、1942幎倏になるず、暑さの圱響でこれらの遺䜓は腐敗し始め、墓穎は沌地のように沈み蟌むようになりたした。しばらくするず腐敗ガスが爆発したため、これらの墓を凊理しなければならなくなりたした。墓を掘り返し、その䞭にあった腐敗した物質を局ごずに、火炎攟射噚を䜿っお焌き切りたした。この時期、SS隊員「ペレりカ」が鍛冶堎に持ち蟌んだガスボンベの壊れたバルブを私が修理しおいたため、これらの遺䜓を焌华するためにアセチレン匏の火炎攟射噚が䜿甚されおいたこずを私は知っおいたす。その埌ブゞェゞンカの小屋でガス凊刑された人々の遺䜓もたた、地䞭に埋められたした。その埌、それらは掘り出され、ブゞェゞンカのクレマトリりムで焌华されたした。

オシフィ゚ンチムのクレマトリりムIのために、鍛冶堎で倧芏暡な構造物を補䜜するこずはありたせんでした。芚えおいるのは、このクレマトリりムのために、鍛冶堎で、トプフ瀟の暡型に基づいお、遺䜓を炉に装填するための台車、火栌子、煙突甚の鉄補フレヌム、発生噚甚の火栌子、そしおガス宀からの換気管を補䜜したこずです。そのほか、より小芏暡な修理も行っおいたした。これらの䜜業に関連しお、私はクレマトリりムIを運営しおいたゟンダヌコマンドSonderkommandoで働いおいた人々を知っおいたした。

芚えおいるのは、ある時、ミ゚テク、ナれク、ノァツェクず䞀緒に発生噚の䞊でりサギを焌いおいたこずです。その時、ラッハマンがカヌビン銃を持っお、ガス宀前の郚屋のほずんど䞭たで入っおきたため、私はもう倖に出るこずができず、ラッハマンがクレマトリりムから出おいくたで、炉の埌ろに隠れお埅たなければなりたせんでした。その隠れ堎所から私は、ラッハマンが扉の埌ろに立っお、ガス宀前の二番目の郚屋に入っおくる人々を射殺しおいるのを芋たした。ゟンダヌコマンドSonderkommandoの囚人二人が、銃撃を受けお倒れる囚人を受け止め、脇ぞ運んでいたした。私の目の前で、ラッハマンは6人を射殺したした。党員ポヌランド人で、車でシロンスク地方から、おそらくミスりォノィツェから連れおこられた人々でした。

ブゞェゞンカのクレマトリりムのために、私たちはすべおのクレマトリりム炉の鉄補の枠、すべおの火栌子、遺䜓を持ち䞊げるための匕き䞊げ装眮、すべおの扉の金具、さらに炉の操䜜や穎での焌华に必芁なフック、火かき棒、道具類を補䜜したした。配管工たちは、これらのクレマトリりムの絊氎蚭備ず䞋氎蚭備を斜工したした。これらの䜜業の倧郚分は、珟圚私に瀺された鍛冶堎の泚文簿に蚘録されおいたす。

鍛冶堎では、ずりわけガス宀甚の停のシャワヌ、およびチクロン猶の内容物をガス宀に投入するための網状の柱が補䜜されたした。これは高さ玄3メヌトル、断面が正方圢玄70センチメヌトルの柱でした。このような柱は、互いの内郚に配眮された3぀の網から構成されおいたした。倖偎の網は盎埄3ミリメヌトルの針金で䜜られ、角材50×10ミリメヌトルによっお補匷されおいたした。このような角材は柱のすべおの角にありたした。䞊郚ず䞋郚では、角材によっお互いに連結されおいたした。網目は䞀蟺玄45ミリメヌトルの正方圢でした。第二の網も同じように構成され、第䞀の網の内偎に玄150ミリメヌトルの間隔を眮いお配眮されおいたした。この網の目は䞀蟺玄25ミリメヌトルの正方圢でした。角の郚分では、この二぀の網は鉄補の棒によっお連結されおいたした。第䞉の郚分は柱の内郚から取り出せる可動匏のものでした。それは薄い亜鉛板でできた䞭空の柱で、断面は䞀蟺玄150ミリメヌトルの正方圢で、䞊郚は円錐圢、䞋郚は平らな正方圢の底郚になっおいたした。この柱の瞁から玄25ミリメヌトル離れた䜍眮には、薄い板状の棒によっお板金補の角材が取り付けられおいたした。これらの角材には、䞀蟺玄1ミリメヌトルの现かい網が匵られおいたした。この網は円錐の基郚で終わっおおり、そこから䞊方ぞ、網の延長ずしお、円錐の頂点の高さたで板金補の枠が䌞びおいたした。チクロン猶の内容物は䞊から分配甚の円錐の䞊に投入され、それによっおチクロンが柱の四぀の偎面すべおに均等に散らばるようになっおいたした。ガスが揮散した埌、䞭倮の柱党䜓を取り出し、颚化したシリカを陀去したした。ガス宀の換気甚ダクトは、ガス宀の偎壁の䞭に蚭けられおいたした。換気口は亜鉛板補の蓋で芆われおおり、その蓋には円圢の穎が開けられおいたした。

収容所のSS隊員たちは、収容所内で起きおいるこずをすべお圌らに密告するような、囚人の䞭からの密告者を遞び出そうずしおいたした。密告者を遞ぶ際には、さたざたな方法を甚い、死刑になるこずが確実な者たちに察しおは、呜を救うこずを条件に密告者ずしお働くよう説埗しようずしおいたした。

私が知っおいるこの皮の事䟋ずしお、ペヌゞェクずいう囚人がいたした。圌の詳しい身元は知りたせん。17歳の少幎で、ポヌランド人であり、ブゞェスコ出身でした。そしお、私の鍛冶堎で働いおいたカゞミェシュ・ザペンツ番号261ず芪しくしおいたした。1943幎、ザペンツは私のずころぞ、鍛冶堎のKolonnenfÃŒhrerである私に、このペヌゞェクを鍛冶堎に受け入れおもらえるよう取り蚈らっおほしいず頌んできたした。私はザペンツず良奜な関係にあり、圌の知人であるペヌゞェクを助けたいず思ったので、実際にペヌゞェクが鍛冶堎に受け入れられるよう手配したした。ペヌゞェクを芳察しおいるず、圌は、いわゆるUnterkunftの倉庫から買ったり、あるいは盗んだりした品物を売買するために、仕事堎からしばしば抜け出しおいるこずが分かりたした。ある日、ペヌゞェクが仕事に姿を珟さなかった䞀方で、私は、圌がSS隊員にカヌテンを運んでいるずころを捕らえられたこずに関連しお、政治郚で取り調べを受けた埌、11号ブロックの地䞋壕に収容されたずの報告を受けたした。1週間ほどしお、ペヌゞェクは再び仕事に姿を珟したした。ペヌゞェクに問われおいたような行為に぀いおは、通垞ならば銃殺されおいたので、私は圌が戻っおきたこずに驚き、どのようにしお死を免れたのかを尋ねたした。圌は曖昧な返事をしたした。そこで私は圌をより泚意深く芳察し始めたした。SS隊員が目的もなく圌を地䞋壕から釈攟したはずはない、ず考えたからです。ほどなくしお、昌食の時間に、ペヌゞェクが柵の穎を通り抜け、女性甚のハンカチを服の䞋に隠しおいるのに気づきたした。その時、政治郚のSS隊員が圌のずころぞやっお来お、圌を身䜓怜査し、ハンカチに手を䌞ばしたしたが、それを取り䞊げず、圌の手元に残したした。そしおペヌゞェクず少し話をしお立ち去り、ペヌゞェクに自由に行動する䜙地を残したした。私はこのこずから、ペヌゞェクが政治郚の手先ずしお働いおいるに違いないず察したした。そこで私は圌ず率盎に話をし、ペヌゞェクは、地䞋壕に入れられおいた時、すでに「死の壁」の前に立たされ、銃殺されるずころだったが、最埌の瞬間に釈攟された、その条件は政治郚の密告者になるこずだった、ず私に打ち明けたした。たた圌は、SS隊員に芋぀かったハンカチに぀いお、そのSS隊員ずの取り決めに埓っお、電気郚門にいる囚人の䞀人に売り、その囚人の匕き出しに入れおおくこずになっおいた、ず話したした。そうすれば、そのSS隊員は埌からそこからハンカチを取り出し、その囚人を逮捕しお、圌が誰ず商取匕をしおいるのかを知るこずができる、ずいうものでした。そこで私はペヌゞェクず真剣に話し合い、このような密告者ずしおの仕事が仲間の囚人たちにずっおどのような意味を持぀のかを圌の良心に蚎え、そんなこずをやめるよう芁求したした。この話の圱響を受けお、ペヌゞェクはそのハンカチを電気郚門ぞ持っおいきたした。しかし、SS隊員ずの話に埓っお入れるはずだった匕き出しには入れず、すべおの囚人が利甚できる䜜業堎の䞀぀の共甚の匕き出しに入れたした。そのため、SS隊員が捜玢を行った際、その共甚の匕き出しの䞭からハンカチを発芋したしたが、それが誰のために甚意されたものなのかを突き止めるこずができたせんでした。そこで圌は、誰がこれをそこぞ持っおきたのかに぀いお情報ず説明を芁求したした。囚人たちはペヌゞェクを指したした。するずSS隊員はペヌゞェクに、そのハンカチが誰のために甚意されたものなのかを明らかにするよう芁求したした。しかし今床はペヌゞェクはその囚人を密告せず、自分がそれをさらに売る぀もりだった、ず答えたした。その結果、圌は再び政治郚に拘束され、その2日埌に銃殺されたした。

密告者ずの協力以倖にも、SS隊員たちは収容所内で䜕が起きおいるのかに぀いお情報を埗るため、別の方法も詊みおいたした。その䞀぀が、1942幎にOberscharfÃŒhrerのパリチュが囚人たちに呌びかけ、匿名で手玙を15号ブロックに蚭眮された黒い箱に投凜し、囚人に関する事柄や収容所内の状況に぀いお収容所圓局に知らせるよう求めたこずでした。この箱は毎朝、パリチュ本人が盎接空にしおいたした。ずいうのも、その箱の鍵を持っおいたのは圌だけだったからです。そしお実際、パリチュがその箱から、䞀床に倚数たたは少数の匿名の密告曞を取り出すこずが䜕床もありたした。箱は人目に぀く堎所に掛けられおいたので、そこぞ玙片を投凜するのは、たいおい倜間でした。これはパリチュがブゞェゞンカのゞプシヌ収容所ぞ移されるたで続きたした。ずいうのも、それ以埌はその箱はもう䜿甚されなくなったからです。

収容所内を自由に移動できたため、私はさたざたな囜の出身で、さたざたな階局に属する倚くの囚人たちず話をし、接觊する機䌚がありたした。圌らの倚くは私に特別な信頌を寄せ、䜕䞀぀私に隠したせんでした。そのため私は、収容所内で公然ず起きおいたこずだけでなく、秘密裏に起きおいたこずに぀いおも、非垞によく知っおいたした。このこずを螏たえお私は、オシフィ゚ンチム収容所内には、統䞀された指導郚の䞋に組織された郚隊を擁するような倧芏暡な囚人の政治組織は存圚せず、ずりわけ、SS隊員や密告者たちに知られるこずなく、そこで䜕らかの歊噚を秘密裏に集めるための条件も可胜性もなかった、ず断蚀したす。確かに、収容所内では倚くのこずを秘密裏か぀䞍法に実行するこずに成功したした。しかし、それは数人ないし十数人の人々の協力ず、個々人の献身によっお成し遂げられたものでした。このような堎合、それぞれ個別の行動が散発的に行われたしたが、それらが結び぀けられ、政治的あるいは軍事的性栌を持぀䜕らかの組織された最高叞什郚によっお指揮される、䞀぀の蚈画的な行動に調敎されおいたわけではありたせん。したがっお、ここ数日の間に、この問題に぀いお、新聞であれ、あるいは元オシフィ゚ンチム収容所囚人たち個々人によるものであれ、オシフィ゚ンチム収容所内には、さたざたな囜籍の者たちを含む倧芏暡な秘密組織が存圚し、しかも収容所内に特別な歊噚庫たで蚭け、適切な時期にそれを収容所圓局ずの戊いに䜿甚するための歊噚を準備しおいた、ずいう趣旚の発蚀や声明が珟れおいるこずには驚かされたす。私は、そのような組織が存圚したこずに぀いお䜕も知りたせん。この組織の存圚に぀いお語りながら、その指導者たちの氏名が挙げられおいないこずにも驚きたす。ずいうのも、今日の状況では、それを明らかにするこずは危険でないばかりか、むしろ名誉ず栄誉をもたらすはずだからです。

すでに述べたように、私はオシフィ゚ンチムから移送されおマりトハりれンぞ送られ、そこからラむプツィヒ近郊のグレディッツぞ移されたした。この劎働分遣隊が解散された埌、私は移送の途䞭で逃亡し、埒歩で、その埌は茞送手段を利甚しお、自宅ぞ垰りたした。

報告が読み䞊げられた。以䞊で、1945幎6月19日、この調曞を終了した。

▲翻蚳終了▲


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