「私」「わたし」「ワタシ」 / スピリチュアルにおける自己の3段階解釈
多くのスピリチュアルな教えや宗教において、自己というものが何層にも分かれている。
それは単なる自分とは何かという話ではなく、「私」が立ち上がった瞬間に、存在が階層として見えてしまう構造を示している。
名前があり、性格があり、日々何かに反応している「私」がいて、
でももっと奥には、静かに見ている「わたし」がいて、
さらにその奥には、何も言わずにただ在るだけの「ワタシ」がいる。
そんな風に、自己ってレイヤー構造になっているなと感じる。
以前この記事を書いたけど↓

今回はキリスト教の「父・子・聖霊」の三位一体や、東洋思想の「梵我一如」などと照らし合わせながら、「私」「わたし」「ワタシ」という三つの「自己」を定義してみた。
私は、この世界や自己の体験を理解するときに、こう定義したら混乱が減ったと感じてる。
「私」=キャラ、エゴ、ストーリーの主人公
これは物語の主人公。
好き嫌いがあり、悩み、傷つき、愛されたいと思い、社会で何かを演じている存在。いわゆるエゴ。
ただし、エゴ=悪ではなく、決して否定される存在ではない。
この「私」がいなければ、この世界での体験は何も始まらないから。

「わたし」=見ている側、本質、真我
このレイヤーは個人的な人生の中にいながら、反応の手前で見ている側。
ちょっと奥にいる本当の自分という感じ。
反応するでもなく、ただ見ている存在、深い部分で大丈夫と知っている部分。
キリスト教でいうなら「Son」、仏教で言えば「仏性」、ヒンドゥーで言えば「アートマン」みたいな感覚に重なる。

「ワタシ」=非個人的存在、全体性、神性そのもの
「私」や「わたし」のさらに奥にある、純粋な存在そのもの。
人格を超えた、全体性であり、非二元であり、非個人的な神性。
これは「Father」に対応し、あらゆるものの源泉。
名づけることすらできない、しかし確かに在る、とだけ言えるもの。

そして…「ワタシ」と「わたし」の区別がほどける「梵我一如」

「私は誰か?(私は何か?)」という問いは、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジなど多くの賢者たちが重視してきた問い。
物語としての「私」を生きつつ、その背後にある「わたし」を認識し、
ついには「ワタシ」として明らかになる。
その過程すべてが、「ワタシ」の中に現れては消える自己の現れであると気づくこと。
それこそが、スピリチュアルな旅の真髄、神のリラ。
楽しんでいこう、気楽にね♪
(…そして、全ての言葉は道標で決して真理じゃない。それが真理👁️)

※ホーリー・スピリットに関しては、私の定義する三段階の自己とは別の次元に属すると考えていて、今回は詳しく触れず別の記事で取り上げる予定。
※真我という言葉は、アートマン(個としての真我)を指す場合もあれば、梵我一如(全体と一体である真我)を指す場合もあり、文脈によって視点が変わる。本来は一義的に定義しにくい言葉だと私は感じている。
この記事では混乱を避けるため、真我はアートマン(個別の立場から語られる真我)として統一して扱って、梵我一如としての真我には踏み込まなかった。
