日本文化と俯瞰視点ー「道」から育つメタ認知|お天道様の思想②
ー本記事は、シリーズ「お天道様の思想」の第2回ですー
〜前回からの続き〜
書道、茶道、弓道。「道」と名のつく文化を始めると、「道」って何?という疑問にぶち当たる。「道」から私たちは何を身につけているのだろうか。
「道」を通して、「お天道様」について考えていく。
1.「道」の先に育つもの
書道は、書く「道」。「きれいな文字が書けるようになりたい」という理由から書道を始める人は多いけれど、実際に書いてみると、一文字一文字の美しさはまずまず整っても、紙面全体の構成が美しくない、書き直し、ということはとても多い。WORDのような“文字を入力してから中央揃え”という技が使えない。書きながらにして紙面構成を考えなければならない、これが誠に厄介である。
初学者の意識は、毛先にのみ集中してしまうもの。紙全体を見渡す余裕などない。書に向き合って数年を過ぎ、「型」を身につけて毛先への意識の必要性が薄らいでくる頃、徐々に、紙の余白を見渡しながら、構成の美しさを考えて書くことができるようになってくる。墨で黒を書いているように見えて、実は、残された白を描き出している。

そのとき、書いている自分とは別に、高いところから全体を見渡している視点が立ち上がってくる。
「道」という方法は、「自分を俯瞰して見る力」を育てる働きがあるのではないだろうか。現代の言葉を借りれば、メタ認知に近いのだろう。
2. 世阿弥の「離見の見」
この「自分を俯瞰して見る力」については、室町時代の能楽師・世阿弥が『花鏡』という書物の中で語っている。
世阿弥は、「観客席から見る自分の姿を想像せよ」と言う。客体化した自分の姿を見極めてこそ、洗練された舞になると。
この、離れたところから自分を見る視点を「離見」。その反対に、自分が意識する自己の姿を「我見」、と世阿弥は呼ぶ。我見で自分を見ていても芸は上達しないのだと。
書道に限らず、日本文化を語るとき「間」や「余白」という言葉がよく使われる。それもまた、この俯瞰の視点とどこかでつながっているのではないだろうか。
3. 内なる俯瞰者(メタ認知)
「型」を学ぶ。
あらゆる「道」はまず「型」を身につけることから始まるだろう。書道で言えば、楷書の「型」、行書の「型」、かなの「型」と、書体すべてに「型」がある。さらに楷書の中でも九成宮醴泉銘の「型」と孔子廟堂碑の「型」は異なる。多種多様な「型」を“身につける”ことで、表現の幅を広げることができる。

身につける。
それはきっと、考えずにも体が動く状態。手本を見ながら、考えながら、毛先の動き一つ一つに意識を向けて書く、その段階を越えた先に訪れる境地。体が先に動く。前頭葉で一つ一つをコントロールする感覚は、むしろ静まっていく。
「型」を身につけたとき、筆先への意識は薄らぐ。紙面全体を俯瞰する余力が出てくる。紙という大きな白をゆっくりと眺めながら、大きく大胆に、それでいて繊細に、踊るように書いていくことができる。“何者か”に書かされているような感覚。
その“何者か”を「内なる俯瞰者」と、私は呼びたい。
4. お天道様と「内なる俯瞰者」
さて、このエッセイでは「お天道様の思想」を語っていた。私の感覚では、お天道様という存在は、この「道」における「内なる俯瞰者」という不思議な存在に、近い。
私の中で、私のことを客体的に、「見ている」。
「見られている」。
もちろん誰でも「お天道様が見ている」という感覚は持ちうるのだろう。ただ、「道」を進めば進むほど、その感覚は少しずつ強くなっていくような気がしている。
〜次回へ〜
これまでの考察を踏まえ、現代の教育現場や職場における『規律と個性』をどう両立するかをまとめた、シリーズ第6回(主体性と倫理観はどう育つのか)を公開しました。
