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日本文化から育つ「お天道様」という生活倫理ー主体性と倫理観はどう育つのか

この記事では、現代の教育現場や職場で揺れる『規律(集団)』と『個性(自由・自分らしさ)』を両立させるヒントを、日本文化の『お天道様』と『守破離』の思想から紐解きます。
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ー本記事は、シリーズ「お天道様の思想」の第6回(中間まとめ)ですー

先日、大手企業で働いている友人と久々に会った時のこと。「若手の社員を育てるのに苦労している」というぼやきを聞いた。「社内の廊下ですれ違うときに挨拶ができない人がたくさんいる」と。

挨拶。規律。努力。社会との協調。
個性。多様性。自分らしく生きる。

私たちは、二つの間で揺れている。友人のぼやきは珍しいものではなく、多くの学校や会社で起きている、現在の日本社会の違和感と価値観のズレを代表しているだろう。

規律だけを教えれば、自分で考える力は育ちにくい。
個性を尊重するだけで社会との関わりを学ばなければ、倫理観は育ちにくい。

教育の潮流はどこに向かおうとしているのか。日本文化は個性を没させるのか。主体性と倫理観を共に育てる方法はないのか。

「お天道様」と「道」という日本文化から、考えてみたい。


1.「お天道様」という生活倫理

さて、これまで5回に渡り、「お天道様」という概念が育つ歴史を辿ってきた。

中国と日本の思想が豊かに混ざり合い、やがて貴族や宗教者たちのものだけではなく、農業を営み人を育てる日々の暮らしの中に翻訳され、「天道」は「お天道様」として、広く庶民に親しまれるようになった。

「お天道様が見ている」という倫理観。

強制されるものでも、ご褒美がもらえるものでもない。ただ、「お天道様が見ているから自分を整えよう」という内発的な倫理観が、日本にはあった。

2.規律とあるがままを両立させる

集団社会で生きていく以上、人間に倫理観は必要である。社会に出れば競争もあるし、そのためには努力も必要である。

一方で、人間は心と体のある生命であり、ひとつひとつの個体に固有性があり、尊重されるべきものである。

これは、どちらも正しい。規律は必要だがそれだけでは苦しくなる。あるがままだけでは社会は存続できない。

規律あるがままの両立。むずかしく思えるこの調和のヒントを、日本の育ててきた文化と「お天道様」という生活倫理の中に見出すことはできないだろうか。

「お天道様」という、自分の内側にあって自分を外から客観視する不思議な存在。内側から自分を律するそんな存在を、日本人はどう育ててきたのだろうか。

3.「道」という修養

書道・茶道・華道・弓道・柔道。日本には「道」という修養の方法がある。

いくつもの種類があれど、「道」と名のつくものには共通していることがある。それはいずれも、単なる技術の習得を目指しているのではなく、人間として成熟するためのプロセスであるということである。

書道であれば、美しい文字を書けることだけが目標ではない。型を学び、心身を整え、やがてその人自身が書に現れるところまで、自分を育てていく。「書は人なり」という言葉は、そのことを象徴している。

古典臨書という修養のプロセス

4.「守破離」の先に育つメタ認知

では、「道」はどのように人間を成熟へと導いていくのだろうか。

第2回で述べたように、書道は筆の毛先と同時に紙面全体を見渡す必要がある。私は長年の経験から、その過程の先に「自分を俯瞰して見る力」が備わっていくように感じている。

世阿弥は、この俯瞰視点を「離見」と呼んだ。

「道」の成長過程を説明する言葉として、よく「守破離」が用いられる。私はこの「守破離」を、日本文化が長い時間をかけて育ててきた「規律とあるがままを統合するプロセス」として読むことができるのではないかと思っている。

「守」は、型=規律を学ぶ段階。書道で言えば、古典の型を学ぶこと。社会で言えば、挨拶や礼儀を習慣化すること。

「破」は、身につけた型を破ってあるがままの自由を獲得する段階。書道で言えば、創作。身につけた型を一度破って自分らしさを表現する。社会で言えば、既存のフレームに疑問を持ち自分らしい挑戦をしていく段階。

そして、「離」の段階。この「離」は、歴史的には世阿弥の「離見」と同じ意味と捉えられてきたわけではないが、今回私はここに、世阿弥の「離見」を重ねて読み直してみたい。

「守」と「破」の段階を通った後、「離」は自分を外から「俯瞰して見る眼差し」を獲得する段階と見てはどうだろうか。自分を客観視することで、社会との調和を保ちつつ、自分らしさを発揮し、自分の役割を果たしながら幸福を獲得していく。

書道に取り組む時、何時間も書き続けていると、「上手く書こう」と思う自分が消えていく。自分で書いているのか、書かされているのか。その瞬間、書こうとしていた自分を、もう一人の自分が静かに見ているような感覚になる。

「内なる俯瞰者」。現代的に言うなら、メタ認知。道のプロセスとは、「守破離」という段階を通って、最終的に俯瞰したところから自分を見る力を養うという、そんな作業なのではないだろうか。

5.内なる俯瞰者とお天道様

さて、この「内なる俯瞰者」、自分の内側で自分を遠くから見る存在こそが、日本人が育ててきた「お天道様」という不思議な存在なのではないだろうか。

「お天道様」は自然の中にある太陽という存在に重ねられながら、太陽そのものを指すわけではない。仏やアマテラスのような一つの神格化された存在を指しているわけでもない。

私は、「お天道様」という外からの眼差しを、修養を重ねることで一人ひとりの内側に宿してくことができるのではないかと考えている。儒教的な厳しさと、老荘的な受容。その両方を兼ね備えた、時に厳しく、時にやさしい、不思議な存在。日本人は自分の中で規律を作り、自分らしさを発揮し、その両立を矛盾せずに実現してきたのではないか。

規律と個性の対立からメタ認知と日本の倫理観を育てるプロセス

6.日本の教育に残せるものは何か

教育は、知識を教えることだけではない。社会という場において、どのような人間を育てるかという問いである。

主体性、創造性、考える力。こう言った言葉が使われて久しいが、その方法論は教育現場で揺れているようにも見える。探究学習、個別最適化の時代がやってくる。

この時、私は「内なる俯瞰者」つまり「お天道様」の力が、主体性、創造性、考える力といった自立した個を育てる、一つのヒントになるのでは、という気がしてきている。

他者に寄らずに、自分を俯瞰して見て、考えて、動く。社会全体を見て、役割を果たす。さりげない仕事でも、誰も見ていなくても、評価に関わらず

これは決して、没個性ではない。「破」によって自分の感覚や創造性を取り戻した人間は、「離」に至って、規律か自由かのどちらか一方に固執する必要がなくなる。自分を俯瞰し、他者や場の動きを見ながら、その時に必要な形を選び取ることができる。それは、外から命じられたことに従う受動性ではない。自分の軸を持ちながら、周囲に応じてしなやかに形を変える、水のような柔軟さである。

そして、そのような力を育てるためには、安心の中で自分の内側に没頭し、試し、失敗し、自分の感覚を確かめる時間も必要なのだと思う。

「お天道様」とは、規律とあるがままを結ぶ生活倫理である。そして、「道」は、その人格を育てるために長い時間をかけて日本で確立された、日本文化の仕組みだったのではないか。

「道」には、人間性が現れ出る。それゆえに、この道を進み始めた時、日常生活のすべての場面において自分の人間性を意識するようになる。

そんな「道」のあり方、人を育てる方法論としての「お天道様」という象徴的な存在から、今後も考えていきたい。そして、それは日本の創造性につながっていくだろう。


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