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無我の創造性をどう育てるのか?|安心感から始まる、日本の人間形成

「創造性」とは何だろうか?

学習指導要領でも、主体的・対話的な学びや創造性を育むことの大切さが説かれて久しい。では実際に、どのように創造性を育てるのだろうか。

人を育てるには時間がかかる。書道という学びを続けてきて思うのは、日本的な創造性を育てるには“安心できる環境”と“自分の内側に没頭する長い時間”が必要だということだ。

子どもを育てる親として、スポーツや受験や検定など、ついつい短期的な結果を求めたくなってしまう自分がいる。そんな自分への戒めも含めて、時間をかけて創造性が育つプロセスを、日本文化の視点から考えてみたい。


1. 創造性と自我

私はかつて、アーティストと名乗った時期があった。書道を始め、自分の作品を売らなければという思いから「売れる作品とは何か」を模索していた。

書がアートであるということは、今でも否定しない。素晴らしい書作品は美術品である。ただ 、私は当時、だんだん苦しくなった。作品を作ろうとすると「良い作品を作りたい」「売れるものを作りたい」という「自我」が出てきてしまう。「これが書道なのだろうか」と自問自答する時期があった。

一方で、古典作品をひたすら真似て書く「古典臨書」を続けるうちに、少しずつこの「自我」が消えていくのを感じた。

「売れなくてもいいや」「自分らしくあればいいや」。

古典臨書を続けるうちに、そう思えるようになった。そして私は少しずつ、元来の自分の気質に合った「教育者」として、自分の書道教室をただ大切にできるようになっていったと思う。

2. 時間をかけて育つ創造性

私は大田区池上というお寺の街で書道教室を営んでいる。元気な子どもたちと生き生きとした大人たちが、互いに楽しく学びあう教室。

教室を始めて10年。小さかった子どもたちも、高校生、大学生となった。大人の生徒さんも、本格的な作品を制作するようになってきた。5年、10年と人の成長に立ちあわせてもらえるのは、とても恵まれたことである。時間をかけるからこそ可能な教育がある。

生徒さんたちの成長と変容を見ながら、「道」と呼ばれる日本文化は、人の中に何を育てるのだろうと考える。日本的な創造性は、人の中でどのように育っていくのだろうか。

※書塾花紅という「場」がどのようにできてきたのかについては、note「東洋の創造性と場づくり」をお読みください。

3. 無我の創造性が生まれるプロセス

では、どのような条件が揃うとき、創造性は育まれるのだろうか。ここでは、創造性を育てる「外的な場」と、その中で起こる人間の「内的な変容」に分けて考えてみたい。

①外的環境:安心して「自我」を育てられる場
A.衣食住の足りた日常
食べ物が足りない。眠れていない。そんな状態では、人は生きることそのものに多くのエネルギーを使う。だから、創造性を長い時間をかけて育てる教育には、まず安心して暮らせる日常が必要だと思う。
B. 見守ってくれる存在
人間は「誰かに見ていてほしい」という欲求を持つ。話を聞いてくれる人がいるから言葉を放ち、読んでくれる人がいるから書く。創造が生まれる場には、安心して自分を差し出せる他者の存在が必要である。
C. 評価を恐れず表現できる場所
評価されなければ生き残れない環境では、人は評価されるものを作ろうとする。自分の好きなもの、自分が面白いと思うもの。失敗してもいい。誰にも褒められなくてもいい。評価から少し離れて自分の表現を試せる場所で、「自分とは何か」を試し続けることができる。
D. 混沌と余白
ただし、安心できる環境とは摩擦のない環境ではない。世代も価値観も文化も異なる人がいて、ときにはぶつかり、悩み、葛藤する。「こうすれば成功する」という正解が、あらかじめ用意されていない余白も大切なのではないかと思う。
そんな安心感のある混沌と余白の中で、人は初めて、「私は何が好きなのか」「私は何をしたいのか」「自分とは何者なのか」を考えることができる。無我へ向かう前に、まず「自我」を十分に育てる段階とも言える。

②内的変容:無我に至る長いプロセス
こうした環境の中で、人は自分自身と向き合っていく。これは短期間で起こる変化ではない。5年、10年という長い時間の中で、少しずつ身体と心に起こっていく変容。
Ⅰ. 守――型に自我を預ける
自由は、ときに恐ろしい。「好きにやっていい」と言われると、人間は意外にも拠り所を欲する。
そんなとき、頼りになるのが「型」である。数百年という時間を経て受け継がれてきた型を、まずはひたすら真似る。技術を習得し、身体に染み込ませていく。「私はこうしたい」という自我をいったん脇に置き、先人の型に身体を預ける。その反復の中で余計な作為が少しずつ減っていく。
Ⅱ. 破――自我で型を超えようとする
型が身体に入ってくると、やがて「自分ならこうしてみたい」という冒険心が生まれる。
型を破ってみる。でも、思ったほどうまくいかない。型に守られていたときには自然に生まれていた美しさが、自分の意志で「良いものを作ろう」とすると、どこか作為的になる。
悩む。試す。観察する。そして、自分の力だけではどうにもならないことを知る。力を抜く。身体を緩める。呼吸する。少しずつ、「自分が何とかしよう」とすることを手放していく。
Ⅲ. 離――創造に身を委ねる
それでも創造を続けていると、あるとき、身体が自然に動いているように感じる瞬間が訪れる。
筆が勝手に動く。書いているのではなく、書かされているような感覚。深い呼吸の中で、身体が作為を手放していく。そしてふと、作品が目の前に現れる。ずっと生み出したかったものが、自分が生み出そうとすることを諦めた先で、生まれている。
私は、この状態を「無我の創造性」と呼んでみたい。

寧月書「無我から生まれる創造性」

4. 日本思想の中に見る「無我の創造性」

こうした「自分が作る」という意識を手放した先に創造が立ち現れるという感覚は、日本の思想や芸道の中でも繰り返し語られてきた。

能を大成した世阿弥は、「離見の見」という言葉を残している。自分が自分を見る視点を離れ、観客の側から自らの姿を見るような俯瞰の視点である。これは、芸道における「無我」を考えるうえで、とても興味深い。
哲学者の西田幾多郎は、主観と客観が分かれる以前の経験を「純粋経験」と呼んだ。「私が何かを見る」のではなく、まず「見る」という経験そのものがある。自分と対象との境界が薄れ、行為の中に没頭していく状態は、創造の中で起こる無我とも重なって見える。
そして鈴木大拙は、禅を西洋に紹介する中で、「無心」という東洋的な心のあり方を繰り返し語った。大拙の語る「無心」には、自我による判断や作為を離れ、自然に働くという感覚がある。

世阿弥、西田幾多郎、鈴木大拙。そこには共通して、自我だけを頼りに世界を捉えるのではなく、自我へのとらわれを離れることで、身体や創造が自由になるという思想が流れているように思う。

5. 創造性はアーティストだけのものではない

ここまで「創造性」という言葉を使ってきたけれど、創造性は、アーティストや起業家のような何か新しいものを生み出す人だけのものではないと、私は思っている。

教師が、目の前の子どもに合わせて言葉を選ぶ。
介護士が、その人が心地よく過ごせる方法を考える。
親が、今日ある材料で家族のごはんを作る。

私たちは毎日、与えられた環境や役割の中で、他者と関わりながら、小さな工夫を重ねて生きている。そこでは、「私らしさ」を強く主張することよりも、むしろ自分を少し脇に置き、目の前の人や状況をよく観察することから、よりよい答えが生まれることがある。

自分が創造するのではなく、関係性の中から創造が生まれてくる。私は、そんな名もなき一人ひとりの静かな営みもまた、創造性なのではないかと思っている。

6. お天道様のもとで、創造性を育てる

創造性は、教えれば身につく「能力」なのだろうか。

人間はもともと、創造する力を持っている。けれど、不安が強かったり、評価を恐れていたり、「こうしなければならない」という自我にとらわれていたりすると、その力はうまく働くことができない。

だから、創造性を育てるために必要なのは、何かをたくさん与えることではなく、まず、安心して生きられる場所をつくることなのではないだろうか。
安心できる場所で自我を育て、型を学び、失敗し、自分の力だけではどうにもならないことを知る。そんな長い時間の先で、人は少しずつ力を抜き、世界に身を委ねられるようになる。私は、そのとき、人間の中にもともとあった創造性が自然に動き始めるのではないかと思っている。それは、自我をなくすことではない。自分を持ちながら、自分だけで世界を見ないこと。

私はこれまで「お天道様」という日本の古い言葉について考えてきた。お天道様は、私たちを上から監視し、正しい行いを強制する存在ではない。自分よりも大きな世界があり、その中に自分も他者も生きている。そのことを思い出させてくれる、ひとつの俯瞰の視点なのだと思う。

その視点に立つとき、人は自分の利益だけではなく、目の前の人や周囲の世界を見ることができる。そこから、倫理が生まれる。
同時に、「自分が何とかしなければ」という力を抜き、世界をよく観察し、その中から生まれてくるものを受け取ることができる。そこから、創造が生まれる。

倫理と創造性。

一見すると別のもののようだけれど、その根には、自我だけに閉じこもらず、自分より大きな世界を見る力があるのかもしれない。

規律とあるがまま。
型と自由。
自我と無我。

どちらか一方を選ぶのではなく、その間を行き来しながら、人は少しずつ育っていく。だから、人を育てるには時間がかかる。

急がなくていい。
すぐに結果が出なくてもいい。

安心できる場所をつくり、型を渡し、そして、待つ。
人の中にある創造性が、その人自身のタイミングで花開くのを待つ。
それが、20数年書道を続け、10年間子どもたちと過ごしてきた今、私が考えている「無我の創造性」の育て方である。


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