私見:日本キリスト教史研究の思想的意義 第二回
(前回の続き)
3. 神学概念の再考
前回、日本キリスト教史研究の基礎的な作業として「テクストや活動の記録など、事実として存在するものに客観的に表現された日本人キリスト者の生をできるだけ内在的に解釈し理解する」というのを無造作に挙げたが、ここに考えるべき問題が潜んでいる。それはキリスト教神学概念の再考である。
3-1. 理論とは別のしかたで
キリスト教神学は西欧の文脈では元々弁証学すなわち護教として出発した。キリスト教信仰がその都度の場所や時代の主な思想的潮流とコミュニケーションをとりつつ自らを弁護したさまざまな思索の集積がキリスト教神学である。具体的には、古代ではプラトンやアリストテレスをはじめとする高度なギリシア哲学、中世では再発見されたアリストテレス哲学や輸入されたアラビアの学、近代では人間の経験を基礎とする諸科学に対し、キリスト教の自己弁証として神学は発展してきたのである。したがって西欧のキリスト教神学は高度な理論性を過去の遺産として持っている。率直に言えば、日本のキリスト教がそれに理論でもって立ち向かうには無理がある。むしろ、スコラ学の論理性に感銘を受けて無教会からカトリックに改宗した田中耕太郎のように、その理論的完成度の魅力に取り込まれるだけであろう。日本キリスト教史の意義を神学における理論性に求めるならば、日本のキリスト教は西欧の蓄積、特にカトリックのスコラ学の蓄積にはかなわないだろう。逆に言えば、日本キリスト史の独自の思想的意義は理論性とは別のところに求められなければならない。それも「事実として存在するものに客観的に表現された日本人キリスト者の生」に立脚したものが求められなければならない。では、それは何か。
3-2. 実践を導く知としての神学
私見を開陳すれば、この問題を解く限りは前回の記事で無造作に用いた「信仰的営為や思索」という言葉である。このフレーズは過去の日本人キリスト者の生が何らかの実践という形で客観的に外に表現されていることを示唆している。重要なのは、いかなる実践であれ、それが現実に行われる際には何らかの知の導きが必要だということだ。急激に近代化する日本社会の中でキリスト者である自分はいかに生きていくべきなのか。どういう状況でどういう実践をすれば神の御心にかなう愛の働きとなるのか。この問いに対する倫理的な思索や神学的な反省なしで「信仰的営為」を実践することは不可能である。自分の生き方に対する倫理的かつ神学的な問いかけがキリスト者の「信仰的営為」すなわち実践の地平を切り開いていく。ならば、その実践を導く知としてその問いや思索をキリスト教神学の研究対象とすることは十分に可能なはずである。ここに、西欧ではなく日本のキリスト教史に着目する思想的意義がある。キリスト教神学を、さまざまな学問とキリスト教信仰とのコミュニケーションによる理論的護教としてではなく、むしろその都度の状況におけるキリスト者の実践を導く知として再定義すれば、日本キリスト教史は歴史を素材とした、キリスト教神学の実践的な倫理的な知の地平を問う格好の素材となるのである。
さらに言えば、キリスト者の場合、この問いは神の愛の認識すなわち神の啓示と不可分である。どういう状況ではどういう実践をすれば神の愛の働きとなるかという問いは究極的には、この状況では何が神の聖旨なのか、どうすれば神の聖旨を知ることができるのか、という神認識の問いに帰着するからである。したがって、実践を導く知としてキリスト教神学を再考することは、愛の実践に必要な神認識の鍛錬として神学を再定義することであり、神認識をもたらす神学的認識論を探求することである。理論的な護教が存在や存在者すなわち存在論を問題にしているならば、実践を導く知が問題にするのは認識、それも倫理的な実践と密接に結びついた認識論なのである。
3-3. パウロ書簡の思想との交差 内村鑑三の場合
日本キリスト教史の思想的意義ということで何か新奇なことを書いているように思われるかもしれないが、実践を導く知を問う思想は聖書のうちにも見出すことができる。ここでは内村鑑三のフィリピの信徒への手紙の注解を取り上げたい。扱うのは全集10巻に収録された「歓喜の福音(腓立比書と其註解) 第一章」というテクストである。このテクストはフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までの注解であり、以下の引用は9節「また爾曹の愛智識と諸の智慧の中に益大に爲て最も勝たる所を辨へ知り」(明治元訳、新共同訳では「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、」)の「智慧」の注解である。一読して分かるように、読者に対して知的道徳的な鍛練を経ることで愛において霊的に成長することを求めるテクストである。内村はこれをどのように注解しているのか。
「○「智慧」 判断力(aisthēsis)なり、之を今日世に称する常識(コンモンセンス)と称するを得ん乎、即ち善と悪、美と醜、真と偽、とを直覚的に判別するの力を指して云へる詞なるが如し、真正の智慧(wisdom)は実に此の如きものなり、真理を味ふ深く、之を応用する久しきに渉て吾人は此智慧に達するを得るなり、之をば称して一名練達といふなり、「患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず」と云へり(羅馬書五章三、四節)、此霊能なくして完全なる基督教的生涯を送る能はず。」
興味深いのは「常識」概念である。内村はここに出てくる「智慧」(ギリシア語原文ではαἴσθησις)という単語を「常識」(ただし日本語の「常識」ではなく英語のCommon senseの訳語としての「常識」)と注解し、信仰生活において「常識」を鍛練して「練達」の域に達する必要を説いている。でなければ、「此霊能なくして完全なる基督教的生涯を送る能はず」なのである。彼は霊性と実践における何らかの鍛練を求めるパウロの思想を理解し、それを「常識」というCommon senseの訳語に込めて日本の『聖書之研究』の読者に発信していた。内村はパウロの思想に共鳴し、実践を導く知の意義を理解し、近代日本という文脈のなかで実践していたのである。その内実は彼のテクストと実践のうちに客観的に見出されるはずである。私見だが、神学的にオーソドックスで新しいものはないとされる内村を研究する意義は、評価するにせよ批判するにせよ、ここにあるのである。
その三に続く
※全文公開です。もし良ければ、研究と生活のために支援をお願いします。
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
