オープンリーゲイとクローゼットの狭間のアウティング
プライド月間に合わせた先日の記事で、かつての同僚 Dくんにまつわる話を書いた。
Dくんはオープンリーゲイ。僕はクローゼット。
そもそもこれらの言葉ってどの程度社会に浸透しているんだろうね。僕自身、なんとなくの意味で言葉を使ってきた気がする。
というわけで、chatGPTに質問した結果の回答が以下。
●オープンリーゲイ(Openly Gay)
自分がゲイであることを隠さず、公にしている人を指します。(中略)ただし、「オープン」である範囲は人によって異なります。家族には話しているが職場では話していない、というケースもあります。そのため、「完全に全員に公表している」という意味とは限りません。
●クローゼット(Closeted)
自分がゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどであることを周囲に明かしていない状態を指します。「クローゼット(closet)」は「押し入れ・戸棚」という意味で、「性的指向や性自認を隠している状態」を比喩的に表現したものです。
補足
実際には「オープン」と「クローゼット」は白黒はっきり分かれるものではなく、グラデーションがあります。
引用の太字のところに注目したい。つまりオープンリーもクローゼットも特定の状態を明確に定義した言葉ではないということ。職場でオープンにしているからといって家族にはカミングアウトしていないかもしれないし、クローゼットを自称している人だって、ゲイの友人がいたりゲイバーに飲みに行ったりはしている人も多いので、完全に誰にも言わず隠しているわけでもない。そう、グラデーションなんだよね。
(もちろん、本当の本当に誰にも言わず自分の心に秘めている人だっているはず。彼らの存在を軽んじるつもりはないので、そのことはあえてここに記しておきたい。)
僕はかつて、このグラデーションという感覚がすっかり頭から抜けていて、間違いを犯した。Dくんに対してひとつ謝らないといけないことがある。
*
それは僕が会社員を辞めて、まだ彼は会社にいたころ。ようやく時代にダイバーシティの風が吹き出した2010年代初めの頃のこと。僕はライターとして社会のダイバーシティ推進の取り組みについてよく取材をしていた。
最初のうちはもっぱらママたちのこと、その次に今や死語となったイクメンについて。次第にシニアや障害者、外国籍の人々を記事で取り扱う頻度が増え、稀にセクシャルマイノリティがテーマの取材をすることもあった。企業内研修の取り組みとか、LGBTQ+をターゲットとしたサービス開発とか。
そうした仕事を通して、ある女性と知り合った。その人はストレート女性で、セクシャルマイノリティの当事者ではなかったけれど、社会の不平等をビジネスを通じて解決したいという志を持った人だった。身近な友人や家族にLGBTQ+がいるとか、特別な思い入れがあるとかではなく、「純粋にパイが大きくマーケットとしても魅力的だから」というカラっとした物の言い方が僕は好きだった。この人ならお涙頂戴の物語としてマイノリティを消費しない。そう信じられる雰囲気があった。
サービス検討のためにはもっと当事者の声を集めなければいけない。そういう彼女に、僕は協力したかった。そのサービスで幸せになれる人がひとりでも増えればいいなって。
でも、「自分も当事者なんです」とはどうしても言えなかった。その場に馴染みのカメラマンや編集者が同席していたせいもある。ただ、もしあの取材が二人だけの密室で行われていたとしても、カミングアウトできた気がしない。今となってはバレたならバレたで良いかなと思いはじめているけれど、それでも自分から積極的に言うことには抵抗がある。ましてや当時の僕にとっては絶対に漏れてはならない秘密だった。
そのくせ、僕は思わずこんなことを口走っていた。
「元同僚にゲイがいるんですけど、よかったら紹介しましょうか」
そう、Dくんのこと。女性の企画するサービスが少しでも上手くいけばという気持ちでの申し出だったし、Dくんの何かのきっかけになれば良いかなとも思った。……なんてきれいごとを並べることもできるけど、本音は「僕が」そうしたかったからなんだと思う。
そうした自分のエゴが先に来ていたからだろう。配慮に欠けていた。思わずDくんの名前や勤めている会社の名前や、パートナーの存在(同棲しているのは聞いていた)までペラペラと話してしまった。「彼は僕と違ってオープンリーゲイだから他の人に話しても構わないだろう」という身勝手な思い込みで。
ぜひ話を聞いてみたい。そう女性から言われたが、さすがに無断で連絡先を教えるのは憚られて、一旦僕がDくんに了解を得てからということになった。こういう個人情報の扱いはアンテナが立つのに、あと一歩配慮が足りなかった自分が本当に情けない。
Dくんに事情を説明したメールを送ると、翌日には返信が来た。「しろちゃん久しぶり。大丈夫よ。今度またみんなでご飯行きましょう」と短いメッセージ。下にはDくんのプライベートの連絡先がついていた。快諾してくれたことに安堵してそのメールを転送。良い橋渡しができた、くらいにしか思っていなかった。
*
その対応がとても危なっかしいものだったと気づいたのは、数年後に社会で起きた悲しい出来事のおかげでもある。一橋大学アウティング事件。事件の詳細や是非についてはここで触れない。ただ、この事件を通してアウティングというものを改めて考えさせられた。
ある人が自分にセクシャリティをカミングアウトしてくれたとして、それはあくまでも自分との関係において打ち明けたのであって、誰にでもフルオープンにしたいのではない。誰に伝えるかどこまで教えるかは本人が決めること。そんな当事者として基本中の基本の感覚を僕はDくんに対して持てていなかった。
実際にはDくんは特に嫌な気持ちにはなっていないかもしれない。むしろ誰かに頼られることが嬉しかったかもしれない。でも、それを決めるのは僕じゃない。もし自分が同じことをされたらどう感じるか。その観点がすっぽり抜け落ちていた。あのときのDくんからの返信「大丈夫よ」は、本当に大丈夫だったのだろうか。大人な対応をされたのだろうか。僕はいつか、Dくんとこの日のことを話をしてみたい。
鈍感なストレートの無遠慮な行為ではなく、繊細なクローゼット(自称)の僕がやらかした。その事実を今でもときどき思い出しては恥ずかしくなる。
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