見出し画像

定線観測34 多摩川と街道

江戸時代、多摩川は東海道や甲州街道の交通の要所で、防衛上の理由で架橋が制限され、多くの渡しが設置されました。
街道で渡った多摩川を、上陸から5つの渡しの痕跡と共に河口まで辿ります。



拝島の渡し

日光千人同心街道

2025.03.30
東京都昭島市

拝島の渡し
日光千人同心街道の往還路に設置された渡し。八王子千人同心が日光勤番に赴く際の重要ルートで、拝島村が管理・運営しました。上州方面と八王子を繋ぐ人馬や物資の輸送に重宝され、明治・大正期まで広く利用されました。

滝山城址

日光に向かう道は数多くあり、日光道中・日光例幣使街道・日光御成道・日光壬生道と歩き他にないのかと探していた時に、日光千人同心街道を見つけました。

つくし

歩き始めたのは3月下旬、街道歩きの季節の中で一番美しい時期になります。
新しい草木の命が芽吹き、新緑が眩しく輝き、桜が咲き乱れ花びらが空を舞う。
遺構が少なくても街道歩きは楽しみ方が沢山あります。

昭島市に入ります
多摩川周辺の森

多摩川が近づき、滝山城址の山裾を下り始めると、河川敷周辺の森が眼下に広がり始めます。

拝島橋
全長 527.0m
架設年 1955年(現橋:1992年)

拝島橋
多摩川上流
茶色の岩場

アメリカのグランドキャニオンの様な、茶色の岩場が見えてきました。
上総層群(かずさそうぐん)と呼ばれる、多摩丘陵や房総半島に広がる堆積層。この付近ではクジラの化石が発見されています。

釣り人

いつも思うのですが、釣り人の根性は凄いなと思います。
何と向き合っているのか、いつの日か向き合って聞いてみたいと思います。

新緑
拝島の渡し 説明看板

橋の袂の公園の片隅に、ひっそりと拝島の渡しの説明看板があり、そこには往時の渡しの貴重な写真が飾られています。
浮世絵ではよく見ますが、写真は初めて目にしました。

多摩川を渡り、米軍横田基地を抜けて、桜が美しい武蔵野の台地を北上していきます。

日光千人同心街道を歩いた時の記録はこちら↓


日野の渡し

甲州道中

2021.09.11
東京都立川市日野市

日野の渡し
甲州道中の正式な渡しとして、1684年に幕府に公認されました。現在の立日橋付近に位置し、府中宿と日野宿を結ぶ要所として日野宿が経営。宿場の重要な収入源であり、新選組の隊士らも往来した歴史があります。

日本橋を出立して2日目、甲州道中で初めて渡る大きな川が多摩川。
その手前の茂みにひっそりと、日野の渡し場の石碑が建っています。

舟形の石碑

舟形の石碑に刻まれた説明文が、旅情をそそります。

日野の渡し碑
    立川観光協会 撰
    関 頑亭 書
日野の渡しの出来たのは
いつの頃だか誰も知らない
江戸時代中期貞享年間
この地に渡しが移されたことは
確かであろう
かつて信濃甲斐相模への人々は
この渡しを過ぎると
遠く異境に来たと思い
江戸に向かう人々は
江戸に着いたと思ったという

日野の渡しが江戸を感じさせる場所だったのですね。
私が茨城県に住んでいた小学生の頃、週末に車で都内の祖父母の家に遊びに行く時は、日光道中沿いの国道4号を行き来していました。
その時東京を感じる目安が墨田大橋、行きは大好きな祖父母に会えるのでウキウキしてて、帰りは明日から学校と思うとガッカリしていた記憶が蘇りました。

立日橋全景

立日橋が見えてきました。
多摩川自体の川幅はさほどではありませんが、水害による氾濫を繰り返してきたた結果、河川敷が広くなっています。

多摩都市モノレール

立日橋
全長 417.0m
架設年 1926年(現橋:1989年)

立日橋親柱

五街道に架かる橋とは思えない新しさ。
上を通る多摩都市モノレールと一緒に建設され、モノレール開業の11年前の1989年に道路が先に開通しています。

多摩川下流
橋の風景
多摩川上流

彼方に中央本線の多摩川橋梁と、奥多摩の山々の低い裾野が見えます。

日野市に入ります
ようこそ新撰組のふるさと日野へ

日野宿本陣は、土方歳三の義兄・佐藤彦五郎の自宅兼本陣。彼らも日野の渡しで何度も行き来したのでしょう。
日野宿を抜けると、甲州道中は徐々に標高を上げ小仏峠に入ります。

甲州道中を歩いた時の記録はこちら↓


二子の渡し

大山街道

2023.10.07
東京都世田谷区 川崎市高津区

二子の渡し
大山街道の多摩川を渡る要所に設けられた渡し。現在の二子橋付近で、江戸の赤坂から大山参りへ向かう多くの旅人や、各地の物資を運びました。江戸防衛上、橋の建設が制限されていたため物流の主役となりました。

急な坂

大山街道と矢倉沢往還は、古代東海道とも呼ばれ、富士山の噴火で道が塞がれるまで、現代の箱根峠が開通する前の主要道路でした。
東京の赤坂御門を出発して、渋谷付近のアップダウン以降、初めてと思われる崖の様な下り坂が表れます。

国分寺崖線

国分寺崖線(こんぶんじがいせん)。
急な坂の正体はこの崖でした。
多摩川が10万年以上の歳月をかけ武蔵野台地を削ってできた崖線。立川市から大田区まで全長約30kmに及びます。

行火坂

行火坂(あんかざか)。
坂が急すぎて、登り切ると身体が行火の如く温まるのが、坂の名の由来と言われています。
行火とは昔の炭を用いた携帯型暖房器具の事です。

玉川陸閘

玉川陸閘(りっこう)。
大正時代から地域に親しまれてきた多摩川旧堤防で、現代も水害から市民を守っています。

玉川陸閘

上の画像の左側のレンガ部分に白い縦の線が見えます。ここが溝になっており、多摩川の水位が上昇した際には、木の板をはめ込んで水を防ぐ役割を担っています。

多摩川堤防からの眺め

堤防を登り、川の流れと対岸を眺めつつ、渡し船で往来した旅人の姿を想像するのが大好きです。

武蔵小杉タワーマンション群
東急電鉄

二子橋
全長 440.0m
架設年 1925年

二子橋の風景

街道歩きで大きな川を渡る際は、自転車は通過していますが、ここまで歩行者が多い橋は、先にも後にも二子橋だけでした。
上の画像の光景に、往時の旅人の姿が重ね合わせられそうです。

多摩川上流
二子橋親柱

初代二子橋の親柱がちょこんと並べられています。1925年に二子の渡しに変わり、架橋された当時のもので、当時は斬新なシンボルだったと思われます。

二子の渡し 説明看板
大山街道
二子の渡し 銅版画

随所に二子の渡しの痕跡が残されています。
この先には川崎市が運営する、大山街道ふるさと館という施設があり、地域の街道愛が伝わってきます。

大山街道を歩いた時の記録はこちら↓


丸子の渡し

中原街道

2024.07.27
東京都大田区 川崎市中原区

丸子の渡し
江戸初期に始まったとされる、中原街道にかかる渡し。現在の田園調布本町と上丸子を結ぶ位置で、江戸への最短ルートとして急ぎの旅人や平塚からの物資に愛用されました。六郷に匹敵する大型船も常備されました。

中原街道。
東京都港区虎ノ門から神奈川県平塚市の中原御殿跡までを結ぶ道。
ご縁があり川崎市中原区の生涯学習プラザで、街道歩きの講演会をする機会をいただきました。
「地域を知らぬ者語る資格がなし」という自信の座右の銘に従い、下見を兼ねて中原街道を歩きました。

六郷用水跡

六郷用水跡。
多摩川下流部は六郷川と呼ばれ、その付近の農業用水路として開削された水路が六郷用水。徳川家康が新田開発の一環として行った事業で、測量から開発まで14年の月日が費やされています。

六郷用水 説明看板

上の画像、多摩川の地図を見ると東京都内を流れる大河とは思えないくらい蛇行しています。
暴れ川と呼ばれ流れが何度も変わった様で、未だに多摩川の両岸に同じ地名が残っています。

宇奈根の地図
出典:地理院タイル(標準地図)
等々力の地図
出典:地理院タイル(標準地図)

宇奈根と等々力の地図を見ると、多摩川の両岸に存在しています。
江戸時代は、東京府の旧宇奈根村と等々力村は多摩川の左岸にあったひとつの村でした。
度重なる多摩川の氾濫によって流路が変わり、村を川が寸断し神奈川県内にある飛び地状態になりましたが、1912年に完全に神奈川県に分割され、現在の状態になっています。

多摩川堤防
堤防の階段
多摩川と丸子の渡し跡
丸子の渡し跡 説明看板
島田さん

ここで、街道歩きが大好きな川崎市在住の島田さんと合流。
中原区を案内していただきます。

丸子橋全景

丸子橋
全長 405.6m
架設年 1934年(現橋:2000年)

初代丸子橋親柱
丸子橋の風景
多摩川下流
丸子の渡し標柱

島田さんに教えていただかないと、わからない様な場所に、丸子の渡しの標柱がありました。

丸子の渡し 説明看板

これはいい写真ですね。
この後に小杉御殿などをご案内いただき、喉が渇きましたので本日の最大の目的地に向かいます。

三ちゃん食堂
乾杯!

真夏に歩いた後のビールの味は別格です。これ以上はもう歩けないので、続きはお盆に歩く事にしました。

お盆最終日の8/15に、中原街道の続きを歩いた際に平塚市内で目にした面白い風習を紹介します。
この地域ではお盆の時期に、玄関先に"お盆のナスモリ"と呼ばれるお供え物を備える習慣がある様で、幾つも目にしました。
その中からお気に入りの3枚を紹介します。

平塚市 お盆のナスモリ
平塚市 お盆のナスモリ
平塚市 お盆のナスモリ


中原街道を歩いた時の記録はこちら↓


六郷の渡し

東海道

2023.03.25
川崎市川崎区 東京都大田区

六郷の渡し
六郷の渡しは、江戸周辺で最も重要な幕府公認の渡し。江戸初期には大橋が架けられましたが、洪水での流失や軍事的な目的から、明治初期まで渡し船による往来が続きました。

六郷の渡し道標
六郷の渡し説明看板

多摩川を渡る街道で、最後に紹介する道が最も河口に近い東海道。
河口付近は六郷川とも呼ばれていたため、渡し船は六郷の渡しと呼ばれました。

川崎宿の由来

川崎宿。
家康が東海道を整備した当時は、品川宿と神奈川宿の間宿(あいのしゅく)でしたが、三代将軍家光の時代に宿駅に追加制定されました。

川崎大師の参道

六郷の渡しの袂から多摩川沿いに海に向かって、川崎大師の参道が続いています。
川崎大師の正式名称は平間寺。
第11代将軍・徳川家斉が厄除け祈願として公式参拝して以来14代将軍まで合計4人の徳川将軍が参詣しました。
その事が影響し全国的に有名な厄除けスポットとして繁栄し現在に至ります。

かわさき宿交流館
六郷の渡しパネル

六郷の渡しや川崎宿については、川崎宿の中心にある、かわさき宿交流館に詳しく展示されています。
こちらは東海道内屈指の街道資料館で、全ての宿場の紹介もされていて、おすすめの場所です。

六郷橋
全長 443.7m
架設年 1874年(現橋:1997年)

六郷橋常夜灯
東京都に入ります
多摩川下流

この先4kmほど下流が江戸時代の多摩川の河口でしたが、現在は更に4kmほど先まで埋立地や羽田空港が続いています。

六郷橋の風景
桜の花と六郷橋

六郷橋を渡った日が、大阪の高麗橋から東京の日本橋まで、東海道五十七の長期行軍最終日。
桜と雨が降る中、日本橋で街道仲間に迎えられ、上野公園に花見に行きました。

東海道を歩いた時の記録はこちら↓


定線観測シリーズは他にも、巨樹・熊・桜・酒・鉄道など、様々なテーマで記録をまとめています。
詳しくは目次をご覧ください。

いいなと思ったら応援しよう!