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『狂い咲く、フーコー』──重田園江先生による一撃(その3)

 その3に入る。

 その2はこちら↑

 「その2」で述べたとおり、『狂い咲く、フーコー』(以外「本件書籍」)において、重田園江は、大きく二つの問いを投げかけた(次に掲げるとおり)。

1 フーコーの全体像をどう捉えるか
2 フーコーと新自由主義との関係をいかに論じるべきか


 1の問いは大変分かりやすいし、フーコーを問わず様々な思想家なり哲学者なりについて論じる場合に問われやすいものであるともと思う。
 問題は2の問いであり、些か専門的な内容であるがゆえに、少々踏み込んだ議論となることは免れず、一般的な読者(私も一般的な読者なのだが)にとってはついていくのが難しく感じられるかもしれない。
 しかし、重田が1の問いを示した際に付言していたとおり、フーコーに親しんでいない人にも『フーコー研究』の議論の扉が開かれていることが理想である。
 私なりに、本件書籍で繰り広げられた2の問いをめぐる議論の要旨を以下に纏めてみたい。

★★★

 「新自由主義っていわゆる「ネオリベ」のことでしょ?」というざっくりした理解は有しており、大体の位置づけは分かっているつもりなのだが、今一度、私が愛用している『辞林21』(高校生の頃から使っているので少々古いが)で「新自由主義」を調べると、次のとおり説明されている。

政府の積極的な民間介入に反対するとともに、古典的なレッセフェール(自由放任主義)をも排し、資本主義下の自由競争秩序を重んじる立場および考え方。

『辞林21』(三省堂)

 次に、これまた私の愛用する『ランダムハウス英和大辞典 第二版』で neo-liberalism を調べると、次のとおり説明されている。

ネオリベラリズム、新自由主義:1960年代末期に始まった米国自由主義運動の所産;豊かさの限界を認め、新しい実践的な政策を模索。

『ランダムハウス英和大辞典 第二版』(小学館)

 これだけでは漠然として分かりにくいが、要するに、古典的な自由主義とは時代を異にし、20世紀半ば頃まで経済学で主流となっていたケインズ学派に対して批判的な立場をとり、ある意味での「揺り戻し」としてケインズ前の自由主義を指向する考え方である。
 おさらいすると、1929年に始まる世界恐慌により各地で大量の失業者が発生したが、これを受け、自由放任主義による経済では資本主義は破綻してしまうとして政府の経済への積極的介入を唱えたのがケインズであった。
 ケインズの考え方は急速に普及し、第二次世界大戦後には先進国がこぞってケインズ政策を採用するようになった。
 これにより、戦後は1930年代のような恐慌は起こらなくなったが、1970年代の石油危機を経てスタグフレーション(失業等の経済停滞とインフレ(物価水準の継続的上昇)の同時発生)に各国が悩まされるようになり、ケインズ理論に異を唱えるマネタリズムなどが注目されるようになった。
(以上の世界恐慌からのおさらいの箇所は、私が高校生の頃に使っていた政治経済の資料集を参考にした。)

 新自由主義は、このマネタリズムを含め、基本的にはケインズ理論へのアンチテーゼである。
 自由放任主義を旨とし、政府による市場の介入を基本的には否定するのだが、ネットで調べてみると、古典的な自由主義とは異なり、全く政府が介入しないというより、むしろ、自由競争市場の安定的運営のための介入はそれなりに行うということではあるようだ。
 まあいずれにせよ自由競争を優先するということには違いない。
 イメージで言えば、80年代のサッチャリズムやレーガノミクス、日本で言えば中曽根による国鉄民営化、小泉による郵政民営化などを思い浮かべるとよいし(現首相の高市も新自由主義者の系譜に位置づけられるだろう)、アメリカでは先述のレーガノミクスのレーガンを始め、共和党の輩出した大統領面々の考える施策がそれに合致すると考えてよい。
 「小さな政府」を指向する新自由主義は、往々にして競争の過熱や格差を生み出し、弱者は切り捨てられがちとなり、一般的に優しくない社会を生み出すので(新自由主義を主張する人々は、外交問題についても強硬的/好戦的だ)、私を含むリベラル(政治でいうリベラルは、経済でいうリベラルとは全く異なるのでややこしいのだが)寄りの人からは頗る評判はよろしくない。

 そんな新自由主義だが、フーコーが新自由主義について講義の中で触れた1979年においては、第二次石油危機(1978年)を経て、イギリスではサッチャーが首相に就任し(1979年)、アメリカではレーガノミクス前夜であった(レーガンの大統領就任は1981年)。
 本稿の「その2」でも述べたとおり、重田によれば、フーコーは新自由主義について1979年の講義以外ではほとんど言及していない(重田園江『フーコーの風向き』p.385)。
 また、重田によれば、フーコーは自らの統治性研究の構想の中で、必要な限りにおいて特定の観点からのみ新自由主義を取り上げた(本件書籍p.32)。
 そして、フーコーの新自由主義論自体が未完成であり(『フーコーの風向き』p.385)、その背景にある意図が明らかになっていない以上、彼自身による限定や留保を超えて議論を広げる際には注意が必要であると重田は主張する(本件書籍p.28)。
 『フーコー研究』に収録された箱田徹の論文の冒頭にあるとおり、フーコーと新自由主義の関係は、今日に至るまで何かと物議を醸すものであるらしい。
 逆に言えば、それだけフーコーによる新自由主義論は(未完成であるからこそ)その解釈に幅があり、後世の論者が自らの思想に寄せて論じてしまう虞などもあるということなのだろう。
 次回は、重田からの問いに対する各執筆者からの応答について見ていきたい。

(その4に続く)

↑その4はこちら

(本記事においては、タイトル中の記載を除き、敬称略とさせていただいております。何卒ご了承ください。)

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