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勉強なんて役に立たない

私は人並み以上に勉強ができる。これでも、京都大学に現役で入学しているので、謙遜しないでおく。しかし、勉強ができても、人生の役には立たない、と思っている。

京大卒という肩書が有利に働いた場面は、いくらでも、ある。しかし、学歴による恩恵を享受することと、勉強が役に立つことは、同じ意味ではない。

真に役立っているのは、あくまで学歴である。勉強そのものが役に立つかは、また別の話である。だが、何かに役立てようと目論む勉強は、大抵の場合、無駄になる。

この記事は、そんな勉強に関する話。



最近、「みんなで早押しクイズ」というスマホゲームにハマっている。その名のとおり、早押しクイズのゲームである。

当初は時々クイズで遊ぶ程度だったが、段々とランク上位を目指したくなってきた。クイズで勝つためには、知識を学ぶ必要がある。

そこで、単語帳アプリ「Anki」を活用することにした。簡単に説明すると、「Anki」とは「高性能な単語帳アプリ」である。

テキストだけでなく、画像や音声、数式を入力することが可能。それぞれの問題について、正答率のデータと、忘却曲線に基づいて、記憶の定着のために最適な頻度で、問題を出題してくれる機能が実装されている。

私は元々Ankiを活用していたが、本を読んで出遭った、知らない語彙を覚える程度で、一日あたりの勉強時間は、大して多くなかった。



▼参考記事


それが、クイズのために、様々なジャンルの知識を勉強し始めたことにより、毎日の中でAnkiに費やす時間が、増えていった。問題を作るだけ作って、肝心の勉強が全然追いついていない。

Ankiには、CSVファイルをインポートして、問題を作成する機能がある。少し前なら、問題をひとつひとつ手入力するのが面倒で、ここまでの問題を作成することはできなかっただろう。

現在は、AIがある。AIに「このジャンルに関する問題のCSVを作成して」と指示すれば、一瞬でファイルを作成してくれる。本当はハルネーションが起きていないか、内容をチェックする必要があるだろうが、趣味の目的だし、そこまで厳密にしなくてもよいと思っている。



そして、この広範な分野の勉強は、私のライフワークである「読書」と「執筆」とのシナジーが大きい。

知識が増えることで、読書の体験が豊かになる。今までは表層の部分しか理解していなかった事柄や概念、思想が、背景や関連知識を知ることで、より深く理解することができる。これは喜ばしい。

「調べたらAIが全部教えてくれるのに、わざわざ知識を覚える必要あるの?」と思う人がいるかもしれない。私はむしろ、AIを活用すればするほど、知識を自分の頭で覚えておくことの重要性は高まる、と考えている。

本を読むなり、人と話すなりする中で、何か分からない事柄があった際に、都度その事柄について調べるのと、自分の頭から記憶を引っ張り出すのとでは、圧倒的に後者の方が早い。当然、目的によってはファクトチェックが必要だろうが、それでも自分が知識として持っている方が、何を行うにしても効率的である。

それに、自分が知らない事柄について、「自分が知らない」と自覚するのは難しい。

今までの人生で聞いたこともないような事柄だと、自分が知らないと自覚するのはたやすい。厄介なのは、表層の部分だけは知っている事柄である。

この場合、「わかったつもり」に陥ってしまう可能性が高い。表層の部分だけわかったことで、その深い部分を無視してしまう。本当は、背景や文脈を理解することにより、表層を見るだけとは全く違う景色が広がっているかもしれないのに。

だからこそ、広範な知識を身につけることが、読書の質を高めるのである。読書の質が高まれば、自分が書く文章の質も高まることも、言うまでもない。



▼「わかったつもり」に関する面白い本


ただし、私は何も、読書や執筆に「役立てる」ことを目的として、クイズの勉強に取り組んでいるわけではない。

「役に立つ」とは何か?一般的に用いられる用法だと、「社会的な成功に繋がる可能性が高い」というニュアンスが含まれていると思う。

その意味では、勉強は役に立たない。勉強そのものが、収入の増加や社会的地位の向上に資するわけではない。勉強が、読書や執筆の質を高めると言っても、それらは社会的成功に繋がるとは限らない。全く意味が無いわけではないが、単に社会的成功を果たしたいなら、読書や執筆なんかよりも、遥かに手早く成功を手に入れる術は、この世にいくらでも、ある。

単に、今まで知らなかったことを知るのが面白いと思うからこそ、勉強しているのだ。

この勉強が何かの役に立つかと問われれば、「役に立つとは思っていない」と答えざるを得ない。例えば、二十四節気を覚えたところで、鬱は寛解しなし、収入は増えない。

しかし、二十四節気を覚えることで、季節の移り変わりに敏感になるかもしれない。そうすれば、毎日の散歩が、ちょっと面白くなるかもしれない。毎日の散歩が面白くなれば、生活が豊かになるかも、しれない。

ただし、これはあくまで「可能性の話」であることに留意。二十四節気を覚えたところで、人生が面白くなるとは、確実に言えるわけがない。だから、別に二十四節気を覚えても、人生の役に立たない。

勉強そのものが面白いものであり、そこで完結すると考えるべきだ。勉強以後の事象は、全て副次的効果である。当てにするな。棚からぼたもち。



勉強を面白く感じるとしよう。しかし、それは社会的成功よりも優先してまで、行うべきことなのか?

これは、人によって答えが異なるだろう。好きにすればいい。これで話は終わり。

ここから先は、私個人の考え。注釈にもならない、蛇足。

『三行で撃つ〈自由に、なる〉ための文章塾』という本がある。私にとっての、文章のバイブルだ。

同書に、こんな一節がある。

ところで、なぜおもしろいことを見つけなければならないのか。
それは、世界がおもしろくないからだ。
世界は愚劣で、人生は生きるに値しない。そんなことは、じつはあたりまえなのだ。世界は、あなたを中心に回っているのではない。宇宙は、あなたのために生まれたのではない。

出典:『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』

私は、この一文に、自らの過去を、肯定された。

社会は、「生きることは素晴らしい」というメッセージを、絶えず発している。うるさく感じるほどに。

一方、発達障害を抱えていた故に、幼少期から苦手なことが多かった私は、この世はなんて生きにくいのだろうと、物心ついたときから感じていて、歳を重ねるとともに、その感情も膨らんでいった。

社会からの、人生を賛美するメッセージと、自分のうちにある靄の乖離に悩まされることがあった。しかし、間違っていたのは、社会だった。

かのブッダも、「人生は思い通りにならない」と説いた。だから、人生は苦しい。愛する家族と死に別れること、不治の病にかかること、大きな後悔を嘆くことを、誰が望むだろうか。

しかし、生まれてしまったからには、仕方がない。阿鼻叫喚の地獄で、少しでも息をするために、私は世界に点在するであろう面白さを探す。だから、勉強している。



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