街路の隙間に宿る「公共」の再構築:管理から「手入れ」への転換
ポタジェガーデンのボランティアを通じて土に触れるようになると、風景の解像度が劇的に変わる。これまで単なる背景だった街路樹の根元――わずか数平米のアスファルトの切れ目――が、一つの生態系として立ち現れてくるのだ。
「安定した極相」の貧相さ
日本の多くの街路で見られるのは、乾燥して固まった土面が剥き出しの場所か、あるいは旺盛な「雑草」が繁茂しきった場所である。植栽管理の年間計画という公的な視点から見れば、これらは低コストで維持される一種の「安定した極相」なのかもしれないが、貧相に見えることも確かだ。
しかし、一歩踏み込んで観察すると、両極の極相だけではとらえられない多様さがある。例えば、近所の街道では、道路の東西の歩道の街路樹で植生に著しい差異が生じていることに気づく。一方は不毛な荒野のようであり、もう一方は多様な植物が入り混じる緑の帯となっている。そのような対照性が見られる区画がある一方で、少し歩くと東西が逆になっていたり、両側とも荒れていたりする。
このような差異を単純な地理的違いで理解するのは難しく、何らかの人の関わり方の違いが介入要素として存在しているのではないかという感を否定できない。
街路樹根本の地面の「もったいなさ」
現代の都市空間において、街路樹の根元は「行政が管理する公有地」である。そこでの勝手な植栽や手入れは、往々にして管理上の逸脱として扱われる。しかし、ポタジェ(実用と観賞を兼ねた菜園)の手入れがもたらす喜びを経験した者にとって、この制度的な断絶は実にもったいないものに映る。
ポタジェでは、一つの区画の中に、複数の野菜を植えることが一般的で、さらにコンパニオン・プランツという主として植える野菜にプラスの効果をもたらす、花やハーブを植えて、収穫の効率よりも、植物の生長過程の美しさも追求する。日々、土の状態を伺い、枯れ葉や雑草を払い、多様な種を共生させる「ごまごまとした手入れ」は、単なる労働ではなく、都市におけるQOL(生活の質)を高める創造的な営みだ。
ポタジェの区画の大きさからすると、街路樹の植えられているスペースは、決して狭くはない。だから、「色々な試みができるだろうに」と思ってしまう。
街路樹根本の地面をポタジェへ
そこで検討してみたいのは、市民の発意に基づき、街路樹の足元を「市民の庭」として開放する試みである。これは単なる予算削減のためのボランティア活用ではない。管理主体を「行政」から「当事者としての市民」へとグラデーションのように移行させる、タクティカル・アーバニズム(戦術的都市計画)の実践である。
もし、地域住民が責任を持って街路樹の根元をケアできる仕組みが整えば、そこは「荒れた空地」から「小さなコモンズ(共有地)」へと変貌するだろう。画一的な植生ではなく、地域の個性が現れる多様な緑の連なり。それは害虫の温床になるどころか、適切な攪乱(手入れ)によって、都市の生物多様性を支えるミクロな拠点となるはずだ。
街路を歩く人々が、誰かの手入れの跡に季節を感じ、自らも土に指先を触れる。こうした小さな関わりの集積こそが、無機質な都市空間に「公共」の魂を吹き込む。管理という冷ややかな言葉を、手入れという温かな手触りへと書き換えていくこと。その可能性は、私たちの足元にある、あの小さな土の面にこそ眠っている。
