『殴り殴られ詩人酒場』ep.100「いつかの少女、あの日の坊」
「坊ちゃん、走らないで。転びますよ!」
出合頭の鶺鴒を、道先案内に仕立て上げた。
俺はみおちゃんの言葉を聞かないふりで、走り続ける。
──坊ちゃん
彼女にとってのそれは、なかなか言うことを聞かない、ほんの少し手の焼ける小さな子どもなのだ。
だから坊ちゃんとして振る舞っているだけだ。
「坊ちゃん、本当に。止まってください!」
随分と声が遠い。
ちらと振り向くと、みおちゃんはほとんど進んでいなかった。
着物の裾を気にして、髪なんかもおさえて。
頬の赤らみは、遠巻きにもわかる。
ただあれは、紅をさしているのだろう。
あの頃とは、何もかもが変わってしまったのかもしれない。
出会った頃の彼女は、今より皮膚の色が濃く、頬は霜焼けで真っ赤だった。
みおちゃんは俺よりずっと足が速かった。
追いかけっこをして勝てた試しがない。
どれだけ俺の方が前にいたって、あっという間に追いついた。
そして、「捕まえた」と言って笑い、逃げようとする俺と目が合うと、ちろっと舌を出してから、お仕置きだとかなんとか言って、くすぐった。
それで俺がひっくり返ると、馬乗りになって、「ごめんなさい、もうしません」を言わせるまで絶対にやめなかった。
「やめて」と口では言いながら、その実、指先が触れるむず痒さも、背が泥で湿る感覚も、大好きだった。
もう一人の女中のハルさんの呆れ顔も、髪を濯いだ時に出てくる泥水も全部、可笑しかった。
足を止めて、振り返った。
みおちゃんはようやく五軒前の荒屋の前を過ぎたところだった。
やはり裾の合わせを気にして、随分と小刻みに走っている。
着物の裾なんかどれだけはだけようが土にまみれようが気にも留めなかった。
あの日の無邪気さはもう、どこにもないように思われた。
無論、それは彼女と俺とが甘やかな時間を一本の吸い管で吸い上げたとか、そんなようなことではない。
むしろ、一度でもそんなことがあった方がよかったのやもしれぬ。
当時の俺たちはあまりにも無垢だったのだ。
否、無垢であろうと努めたのだった。
大人どもの邪に、気づかぬふりを貫いたのだ。
一歩、みおちゃんの向かってくる方へ下駄をずらす。
土煙がさらさら駆けていった。
もう一歩ずらして足を止める。
「坊ちゃん……」
背も高く、力も強く、いつだって俺より先を歩いていたはずだ。
「お待ちくださいとあれほど……」
お国訛りを揶揄われても、平気な顔して笑っていたはずだ。
そのお国訛りも、今日は努めてしまい込んでいるように感じる。
俺はそれが寂しいのだ。
しかし、隙間からはみ出ているその端っこが、やたらにいとおしいのだ。
「なあ、みおちゃん。」
「なん……えっと……」
「鶺鴒ってのはさ、あんなに立派な羽根があんのに、どうして走るんだろうな。」
みおちゃんは膝を押し込み、前屈みのまま、咽喉の撥ねるような呼吸をしている。
「坊ちゃん。なら聞きますけんど……今、おいくつですか?」
「お。それ、好きだね。」
「好きとかそんなことでねェ……」
「二十一。もうあと何日かしたら二十二になるよ!」
「ああ……あの頃は可愛かったのに。」
「なんか言ったかい?」
己の声が、憎たらしかった。
首元に出っ張る骨が、そこを伝って喉から出て舌やら歯やらでこねくり回されて耳へと届くこの声が、本当に、本当に憎かった。
「もう、行こう。」
俺はみおちゃんの手を掴んだ。
「ちょっ……朔坊!」
躊躇う彼女を無理矢理に引っ張って、俺は走り出した。
はじめこそ、草履の音は細かい音を刻んでいた。
俺は苛立った。
容赦なく走り続けた。
だんだんと、草履の接地する音は長く間のあくように変わった。
速度を速める。
俺の腕が、肘が、引っこ抜けそうな程に後ろへと引かれた。
ごめんな、みおちゃん。
そんな気持ちとは裏腹に、俺の足はブレーキを悪くした電車の如くただひたすらに走り続けた。
もし彼女が転げそうになったなら、その時は抱き止めてやるんだ。
そう心に決めて。
でもその為には、まだ走ってもらわなければ困る。
ここで転ばれたって、俺にはどうすることもできないのだ。
知らない巡査の胡乱な眼つき、喰えない記者崩れの「かけおちかい?」なんてにやつき、そんなものを振り切ったところで、ようやく足を止めた。
「ほら、みおちゃん。福寿草だ。」
「坊ちゃん。」
みおちゃんは、俺をキッと睨んだ。
裾の泥をはたき、はだけた合わせを直している。
「茶屋ならいくらだってあったじゃないか……どうしたって、こんな、遠くまで……」
はっとして口をおさえ、目を見開いたみおちゃんが、わっと笑い出すまでにはそう時間を要さなかった。
福寿草の色がどんなであったかさえも忘れるほどに二人して笑った。
「芋臭ェ、恥ずかしいや……」
疾走の熱か、恥じらいの熱か。
赤い頬は艶やかであった。
彼女の言う芋臭ェ言葉が、俺は好きなのだ。
甘く、温かい、満ち足りた匂いのするその言葉が。
「で、坊ちゃん。茶屋は?」
「もうちょっと、先。」
ええっとうなだれたみおちゃんの腹のあたりで、何かが唸った。
くっくっと笑う彼女は俺の顔を見上げる。
何も聴こえちゃいない。
「鶺鴒の鳴き声かね、あれは。」
「いんや、ありゃあ椋鳥だ。」
「そうかい。」
茶屋の旗のはたはたとひるがえるのが、もう眼前まで迫っている。
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勝手に百回記念でカバー画像を変えたわけだが気に入らないのでしばらくデザイン迷子になりそうです。
ウィッス。
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主人公・上原朔也の幼少期の日記です。
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我が小説史上最も読んでいただきました。
ありがとうございます。
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二番手は恋愛小説「水辺のつつじ」のep.66です。
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好きなバンドのライブに行く時の気持ち。
高校二年の井上と白石の夏の思い出、連載中です。
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ちょうどライブ観終わったところ。
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【妄想?】
ぴったり一年前の記事。
犬妄想が止まらなかったんでしょうね。
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ゆきお様・解説
無垢でいられた日々とは?
子どもと大人の違いとは?
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ポテトチップスよりも
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