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文字は、呼吸する

今日も、アオギリさんは机にこぼれた文字をかき集めるようにして新聞を読んでいた。

──「アオギリさん」というのは勿論、仮名だ。
今日も青い杖をかつかつ鳴らし、僕の隣によっこらせ、と腰をおろした。
そしていつも通りに微笑んで、「君はえらいね。毎日お勉強、頑張っているね。」と言った。
僕はこういう時、どう返すのが正解かわからない。
とうに学校を出て、食い口はまあ、かろうじてあるとはいえ不安定収入の身の上。
同級生は大抵、もう結婚して子どもがいたり、そうでなくても会社で主任だとか、プロジェクトリーダーだとかそんなようなものを任されていると聞く。

僕がようやく苦い笑顔で頭の後ろを掻いた時、アオギリさんはもう、新聞をめくり始めている。
真新しいインクと、桐箪笥から出したばかりの布の匂いが混じりあって漂ってきた。
いつまで続くのだろう。

もう、半年になる。
僕は毎朝、開館と同時に図書館へ行く。
時たまパソコンのキーボードをぽつぽつ叩いては、伸びをする。
こんなことで、いいのだろうか。
アブラゼミからツクツクボウシへと主旋律の移った今朝も、僕はアオギリさんの隣でぼんやりと無色透明の不安をふうっと吐き出した。

「今日も、それですか。」
本棚から本を一冊、抜き取った時のことだった。
彼は、今日も、と言ったけれど本当は二日ぶりだ。
借りられていたのか、修繕中だったのか、はたまた小旅行に行っていたのか、お目にかかれずにいた。

「ええ。」
僕はその本を抱きかかえるようにして持つ。
たかだか文庫本、大の大人がそんな持ち方をするのも不気味だとはわかっている。
それでも──

「お好きなんですね。」
彼は脚立にまたがって、何やら呼びかけている。
「おーい、どこ行っちゃったんだ。隠れてないで、出ておいで。」
始まった。
僕は、これに弱い。
つい、笑ってしまう。
その度に彼は、失礼しました、と恥ずかしそうに頭のてっぺんを掻いて、どういうわけか慌てて名札を裏返す。
裏返したら裏返したで、図書館に遊びにくる子どもたちがよこしたらしい四葉のクローバーの押し葉だとか、誰かの白黒の顔写真だとかがごちゃ混ぜに入っているものだから、一度ヒビの入った笑いの壺は修復もままならないうちに粉々に崩れ去ってしまう。

「原田君、シッ!」
同業者ではなく、来館者に注意された彼は決まり悪そうに本棚の方を向き直し、背表紙を指先で上から下へそして右斜め上へと滑らせていた。
僕は少し、くらくらしてきて窓の外に視線を逃した。

「毎日、熱心ですね。」
声が降ってくる。
互いに目を合わせないまま、会話を続ける。
「いいえ、全然。」
「またまた……」
近年、来館者数は減少する一方だと聞く。
それにしては、少子化だと騒ぐわりには土日ともなれば小学生たちが昆虫図鑑を囲んで悲鳴を上げているし、平日の絵本読み聞かせの時間には赤ちゃんの笑い声が館内に溢れる。
僕が属す年齢層を見かけないのは、皆、勤めに出ているからだろう。

僕はさっきの文庫本を抱きかかえたまま、脚立の下に佇んでいる。

「それ、僕も好きなんです。」
彼の言う、それ、は僕が抱えている本で間違いないだろう。
そうなんですね、なぜ、そんな簡単な言葉すら出てこなかったのだろう。
僕は黙り込んでいる。
ちょっと、冷房が効き過ぎてはいませんか。
関係のない方に思考を流した。

「いつもその本、側に置いてますね。」
脚立をたたみながら、原田さんは僕の隣に立った。

「……読めない……」
「え?」
「……読めないんです。」

誰かと誰かのスマートフォンが着信音で輪唱する。
彼は誰にともなく、館内マナーモードでお願いします、とマニュアル通りの言葉を言い切ると、僕を読み聞かせスペースに通し、カーテンを閉めた。

「文字が逃げていくんです。いいえ、逃げるというか、溢れるというか……」
彼は頷いた。
「それでも、あなたはその本を側に置いてらっしゃる。」
僕はうつむきついでに、腕の中の本を見遣った。
「僕はね、思うんですよ。表紙の手触りが好き、でも。この本の、このページをめくる時の音がたまらない、でも。なんだっていいんじゃないですか。インクの匂いを嗅ぐでも。」
彼は、絵本を並べ直しながら続ける。
「司書としてはいただけませんけど……コーヒーのしみが多いページは、立ち止まった人が多い証だとか。落書きのあるページには何かそうしたくなる、人間を掻き立ててしまう力があるんじゃないかとか。」
僕はあの文庫の表紙を撫でる。
この本の、どこに自分は惹かれているのだろう。
「だからね、僕、図書館巡りが好きなんです。旅先でも図書館行きますし。」
「コーヒーのしみと、落書きを探しに?」
「おかしいでしょう?」
「いいえ、全然。」

並ぶ背表紙の文字が本棚からばらばらとこぼれ落ちてくることがある。
ゴシック体は床を転げてどこまでも行って、児童書コーナーの壁に当たってひっくり返って止まる。
その瞬間に、ベビーカーに乗った赤ん坊がけらけらと笑ったりなんかする。
僕も一緒になって笑いたいけれども、一応は我慢して口を一文字に結んでいる。

明朝体の「くにがまえの字」だけは背表紙になんとかしがみついて、まるで僅かな凹みにしがみついたみたいに固まるし、門構えの字は決まって門を残して中身だけが遊びにいく。
空になった門にはときたま新たな客人がやってきたりするけれど、門はまあまあ選り好みして、極めて淡々と入店拒否のレッテルを貼りつけていく。
馬は歓迎されるけど、犬や羊なんかは追い返されていたし、猫はそもそもどこにも寄り付かなかった。
心はいつだってバラバラだったけれど、草で仕立てた帽子をかぶせると、途端におすまし顔になった。
──
草の帽子はよくお似合いだった。

僕は、コーヒーのしみだらけのページを開いて、窓の外を見る。

夏空のもと、馬が駆け、オニユリの蕊が雄と雌とで踊っている。
僕はキーボードを叩く。
その文字ですら、どこかへ転げていってしまう。

僕の隣では、アオギリさんが新聞を読んでいる。
その反対側では背表紙が真っ白になっている。

それでも僕はまた明日、この席に座っているのだろう。


【習作】
#なんのはなしですか 、回収週ということでなんのはなしかいつも以上にわからないものを。
いやはや、連載はやはり長くなってくると妙なこだわりが生まれて上手く書こう、上手く書かねば……という邪心が出てしまってだめですね。
納得いかなくて。
詩人酒場はep.100を控えております。


というわけで100回直前SP(いいように言うな、要はスランプ性の逃げ)、上原朔也の小説より一部抜粋した「人間の欠格事由」。


油彩ががテーマの習作。


緊急地震速報の後に見た夢。


習作の連載「井上と白石」シリーズ。
ライブ開始直前です。


いつもの、ep.100目前の大正時代はこちら。


恋愛小説。
シリーズ内で一番人気のあったエピソード。


エヴァンゲリオン×川端康成


ゆきお様・解説
空間の意味とは……?
メタでの意味と理由、そこまで深掘りしてくださっています。

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