最近読んだ本と雑談
相変わらずバカみたいに長いので、読みたいとこを適当に拾って読んでほしい。
阿満利麿「『歎異抄』講義」
おいおい、いきなり宗教講話かよ、と思われるかもしれないが宗教講話の何が悪いんじゃおどりゃボケ、池のコイの餌にしたるどぉ。
真面目に話すと私は浄土教の信者であり、我が信心はナックルカーブのように曲がりやすい。
この記事を読めばわかる。東に新しい小説出れば飛びつき西に面白い映画あればかぶりつき、軽挙妄動、思慮浅薄、私の魂は鴻毛より軽い。
このザマであるから時々きちんとした念仏者の話を聞きたくなるのだ。
その昔B'zというバンドが「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」という曲で、
そう信じる者しか救わない/せこい神様拝むよりは/僕とずっといっしょにいるほうが/気持ちよくなれるから
と高らかに歌い上げたが、阿弥陀仏の光は信仰を持たない者も照らしている。
釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。(強調は筆者によるもの)
だから、別に阿弥陀仏を信じようが信じまいが、その光は誰にもまったく等しく注がれているわけです。
なんかちょっとすてきでしょ。
くらいに思ってくれると、私も片割れの端くれの木っ端の切れ端の念仏者として、ちょっと面目が立つよ。
大岡昇平「俘虜記」とベンヤミン「暴力批判論」―「法」を、「天皇」を、「正義」を前に、私たちの魂はどこへ―
昔読んだときは起承転結がなくて退屈だな、「野火」の散文詩を思わせる文章の方が美しいよなと思ったが、今はダンゼン「俘虜記」派に寝返った。
やっばり「野火」はキリストという絶対者の提示の仕方にちょっと無理があるよ(天皇という偽りの絶対者を戴く日本軍という共同体に対抗する唯一の「よすが」ではあったんだろう)。
それに比べ、「俘虜記」の現実を引き写す語りの収集のつかなさに、今読むと、むしろ天皇制を撃つ底力がある。
(ちなみに現代版「俘虜記」を思わせる高橋弘希氏の「指の骨」は、才気は認めるが、大岡昇平の巨大な制度としての天皇制に対峙する緊張感を欠き、平野啓一郎氏の―泉鏡花を模した―短編「一月物語」に似て言葉が空転する感が否めない)
かの有名な下り、
天皇制の経済的基礎とか、人間天皇の笑顔とかいう高遠な問題は私にはわからないが、俘虜の生物的感情から推せば、八月十一日から十四日まで四日間に、無意味に死んだ人たちの霊にかけても、天皇の存在は有害である。(「天皇の存在は有害である」強調は筆者によるもの)
には、国体護持という―今も神社本庁が手放そうとしない―偽りの正統性を撃つ、生身の人間の声が響いている。
話は変わるが昔から私はカッコつけるのが三度の飯より大好きで、今はドイツのベンヤミンという思想家の「暴力批判論」を読んでいる。
(別の記事で紹介する予定だけど)特別に先行公開すると、法は自らの正しさを証せない。
例えば、A法の内部に、「A法は正しい」というA'法を置くとして、そのA'法の正しさはどこに求められるか。
そう、この先はA''法、A'''法、A''''法……という無限循環に陥る。
だからこそ、あらゆる「法」の正しさは常に、同語反復によって成り立っている。
Q.天皇はなぜ尊いのですか?
A.万世一系だからです。
Q.それは中国の易姓革命に依拠する形で成立した論理で、近代国家である大日本帝国はもちろん、現在の日本国において成り立つ論理ではなくないか。他の正統性を主張できないのか?
A.いや、天皇という存在は尊い。尊いから、尊い。
(私も、もしも阿弥陀仏について聞かれたら、同じことを口にしてしまうのだけど)
話を戻すと、昔心理学者の河合隼雄が、テレビで中学生が「なぜ人を殺してはいけないのですか」と問うたとき、大人が何か気の利いたことを知恵足らずの頭でセコセコ考えたことに対して、「殺してはいけないから殺してはいけない」という答えでいい、と述べていたのを覚えている。同意する。
確かにそれは、法に対する、人間が取れる倫理的な態度の一つだ。
法の正しさを問えば、そこには必ず人間存在の深淵が待ち受けている。実の娘を何年も犯し続けた親を殺してはならないのはなぜか。
人権―なぜそんな人間に人権など与える必要があるのか?
この点で法は貨幣と少し似ている。
本来は物の価値の代理人であった貨幣はいつかそれ自体が価値の王として君臨する。法もまた、あくまで正しさの代理人であるにもかかわらず、あたかもその外に正しさはないかのようにふるまう。
「レイプ魔は殺せ」やら「移民なんか死ね」やら、見るに堪えない罵詈雑言は人間の常で、阿弥陀仏が嘆き悲しまれるわけだけども、その私的な暴力行使を望む声の背後には、今ここの「法」の正しさを問いただす力が―善悪の判断は一度置くとして―地下水脈のように流れてもいる。
これをベンヤミンという―イザヤ・ベンダサンみたいな名前の―思想家は「神的暴力」と名づけた。
この論理はテロの肯定に通じるのではないか。そう思うあなたにもう少し詳しく話す。
人間が自らの正しさを自ら証だてられる。その考えは傲慢だろう。歪んだエゴに振り回される私たちが自らの正しさを確信する瞬間。それは私たちが、徴兵制を始めとする巨大な暴力装置にお墨付きを与える過ちと紙一重である。
だからこそ、もはや自らが法的な正しさの外にあろうと、あるいはそれを期に自らが人間の定めた善と正義の一切から遠く離れるとしても、ある行いを―その正しさはついに保証されないまま―選ぶこと。
地上の法の正当性に留まることを断念し、(私なら)「仏法」に従う。阿弥陀仏の誓願を信じる。
果てしない自己言及を繰り返す「法」のもたらす偽りの正しさを宙づりにする、本来の正しさは、個々人の私的な暴力性の行使に宿るのではないか。
「暴力性の行使」と言えど、何も殴ったり蹴ったりするのではなく、汚れた身なりの子どもがポケットに駄菓子を滑り込ませるのを目を閉じて見過ごし、私に冷たい悪意を向ける誰かのため祈るような、それはささやかな「法」の否定である。
文書として残せる確かさなどない。次の瞬間、その子が大人に腕をねじり上げられたら私は素知らぬ顔で立ち去るだろう。私の憎しみは私から祈る瞬間を忘れさせるだろう。
「法」として定めるにはあまりに無力な、一人ひとりの「人間」の、その魂の教える正しさに従おうとするあがき。
ベンヤミンの難解な文章の向こうに、私はこうした我々の真の尊厳をめぐる問いかけを見た。
後日もう少し具体的に話すつもりだが、明日のことなど誰にもわかりはしない。私は罪もない白猫を抱いて高速道路に飛びこむかもしれない。
そのときはフェルマーの最終定理みたいに、
「アボカドトマトナス氏の最期の論考は氏らしい透徹極まるものである。さて、氏がついに語り得なかったベンヤミンの思想可能性はどこか」みたいな本を「アボカドトマトナス―その未完の思想を追う―」みたいなタイトルで出してくれ。浄土で蓮の花に閉じ込められながら読むからさ。
大貫隆「終末論の系譜: 初期ユダヤ教からグノーシスまで」―救いは、かつて、今、これから、起きる―
最近、「さよなか」という方の「素敵なしゅうまつを!」という歌をよく聞いてる。カバーで、元はキタニタツヤ氏の曲だけど、可愛らしい女の子の声で歌われるとまた雰囲気が違っていいね。米津玄師氏の「KARMA CITY」を思いだす。
祈りの宛先が番外地なら/黙祷に意味はないと思う
この感情は生まれ持っていたって/気づいた頃に君は何処にもいないなんて/寄る辺なく夜に落ちていく
話を戻すと、本書は初期のユダヤ教から、モンタヌス主義(※1.)やグノーシス主義(※2.)といった異端に至る、様々な終末思想を追った500ページ以上の力作である。
※1.現代のペンテコステ派を思わせる、聖霊による異言を重んじた派
※2.神秘主義的な人神主義を奉ずる派
で、キリスト教をアカデミズムの側面から知りたい方はぜひ読んでほしいな。逆に信仰について知りたい方は無理に読まなくていいよ。
知識を蓄えるのは、まあ確かに謎の独自解釈をして謎の新興宗教に嵌まらないために多少は必要だけど、信仰の枝葉だからさ。茂みモサモサで幹ポッキーの信仰なんて困るでしょ。
一番好きなのは「過去の中に到来している未来―パウロ」の章。
ギリシア語聖書には「廻説的用法」という使い方があって、無理やり日本語にすると例えば、
(略)私はキリストのゆえに損失と思うようになってしまっている。
とマイナスの意味づけ(「……してしまっている」)抜きでは表現できないんだけど、本来は「過去における一回的な決断が現在にまで継続することを表している」。
いわば、過去における信仰が、そのある一地点で終わらずに現在まで継続する―決して「古びた昔のこと」にならず、現在と共に常にそこにある―難しいね。
私たちは過去→現在→未来という一直線の時間で生きることに慣れてしまって、宗教が本来持っていた豊かな時間を感じ取るのが、とても難しくなっているから。
ただね、浄土教も少し似てるんだな。
確かに阿弥陀仏が本願を示されたのは遠い昔のことだけれど、それは私たちの暗く汚れた今日の隣で、私たちの今日を照らしておられる。
また、無数の菩薩が今日もこの世に訪れ浄土へ私たちを導き(還相廻向)、私たち凡夫は死んだ後に浄土へ迎え入れられる(往相廻向)。その迎えを待つのも今日である。
阿弥陀仏の誓願という過去が現在に流れこみ、現在の称名は未来の往生の確かめであり、その未来の自在に衆生を救うための菩薩行は今日という日に、まさにかつての凡夫によって行われている。
過去の救い、現在の救い、未来の救い。
それぞれが、異なる色の薄布を重ねて、日に当てて色を混ぜるように、互いの時に流れこんでいく。
パウロの救いの終末は、神秘主義や人神思想の平坦な一本道のそれに比べ、本当に豊かである。
(追記)ちなみに日本語で表現できないものと言えば英語のコロンやセミコロンだけど、実は明治初期には、それを白抜きの「、」で表現していた時期があったらしいね(村上春樹氏と柴田元幸氏の「本当の翻訳の話をしよう」より)。廻説的用法や白抜きの「、」の使える日本語(なんか夢があるね)。
その他読んだ本
【1.現代文学とか】駒田隼也「鳥の夢の場合」☆/王谷晶「ババヤガの夜」☆/山下紘加「ドール」☆/押井守「ゾンビ日記」☆☆/畠山丑雄「地の底の記憶」☆☆☆/郷静子「れくいえむ」☆☆☆/平野啓一郎「決壊」☆☆☆/三島由紀夫「軽皇子と衣通姫」☆☆☆/島尾敏雄「出孤島記」☆☆☆☆/三島由紀夫「仮面の告白」☆☆☆/犬怪寅日子「羊式型人間模擬機」☆☆☆☆☆/小田雅久仁「オレオ」(「猫に蹂躙されたい人に贈る25のショートホラー」)☆☆☆☆☆/夏目漱石「私の個人主義」☆☆☆☆
駒田隼也「鳥の夢の場合」
幽霊が出ると聞いて「雨月物語」好きの筆者は読んだが、作者の着想を整理せず放りこむ作で評価はできなかった。現代日本における幽霊の存在論的困難の乗り越えを見たかったんだけど。
幽霊は死と生の境に立ち私たちの存在の根拠を揺らす。「白峰」「仏法僧」の凄みもそこにある。
あやなき闇にうらぶれて、眠るともなきに、まさしく円位円位とよぶ声す。眼をひらきてすかし見れば、其形異なる人の、背高く痩せ衰へたるが、顔のかたち、着たる衣の色紋も見えで、こなたにむかひて立てる(略)
(略)阿修羅ども御迎に来ると聞え侍る。立たせ給へといへば、一座の人々忽ち面に血を潅ぎし如く、いざ石田増田が徒に今夜も泡吹かせんと勇みて立ち躁ぐ。
王谷晶「ババヤガの夜」
ひょんなことから腕っぷしを見込まれた女、新道依子がホモソーシャルのヤクザ社会に投げこまれ組長の一人娘の尚子を守る話だが、既視感が強すぎる。
そこを痛快娯楽ならばと見過ごすにせよ―村上春樹氏の「1Q84」の殺し屋青豆の人物造形に通じる―リアリズムの軽視と、話の展開に歌舞伎的「見得」が先行する感が否めない。
懐古主義者と呼ばば呼べ。ドストエフスキーの「罪と罰」の、スヴィドリガイロフとドゥーニャのやり取りの緊迫を求める。
(略)おや!それはわたしの拳銃だ!古い馴染の拳銃だ!あの時わたしはそれをどんなに捜したかしれない!……わたしが田舎でご教授の光栄を有した射撃の稽古も、やっぱり無駄にはなりませんでしたな」
「お前の拳銃じゃない、お前の殺したマルファ・ペトローヴナのじゃないか、悪党!あのひとの家の中には、お前の物なんか一つだってありゃしなかった。わたしは、お前がどんなことをするかしれない人間だと思ったから、これを取っておいたんです。一足でも踏み出してみるがいい、わたし誓ってお前を殺すから!」
ドゥーニャは半狂乱であった。彼女は拳銃を上げて身構えた。
追記:だいぶ前にある人のフォークナーの評論を読んで非常に納得した下りがある。
優れた小説では、登場人物の立場は現実や社会のくびきを超えて揺れ動く。老婆や少女や病人……無力とされた者が機関銃を振りかざし、青年や王や名士が一敗地に塗れる。
尚子を守るはずの依子が逆に―例えば心理的に―守られるなど、その関係性がもう少し揺れたら私ゃ楽しい。
山下紘加「ドール」
新人賞は時々「ワンイシュー小説」が受賞する。 介護とか仮想通貨とかAIとか、そのとき流行りの素材を小洒落た手つきで調理した、百ページ少しの作品である。
私は結構好きである。小説はこんくらい適当に書いてもいいなと思えて。
本作の掲げるイシューはラブドール。それを偏愛する(差別語だが)「ナード」の話。
ただ私は十代の自意識過剰性に興味が持てない。それと肝心のラブドールとの絡みが悪いので評価は低め。
まあ、要するに「女体」は好きだけど「女」は嫌いな男の歪さを巡る話だけど川端康成の「眠れる美女」の退廃趣味はない。どちらかと言えば川上未映子氏のいじめ(本来は校内犯罪と呼ぶべきだが)を扱った「ヘヴン」が近いかな(これはニーチェが未消化すぎ。文体はすばらしい)。
押井守「ゾンビ日記」
押井守の小説は読むに耐えないことに定評がある。「ガルム・ウォーズ/白銀の審問艦」は中学生男子の自由帳ファンタジー。「番狂わせ/警視庁警備部特殊車輛二課」はサッカーおたくの戯言。
のだが奇跡的に面白かったのが本作「ゾンビ日記」。
なお続編「ゾンビ日記/死の舞踏」は何一つ記憶に残らないし、本作とて本筋は忘れた(確かゾンビと闘うスナイパーの話)。
ただエーリッヒ・フロムまで引用して繰り広げられる本筋をぶった切るウンチクだけがひたすら面白い(ほぼ悪口だろ)。
でもホントもっとバカみたいにウンチクだけで話を作れば立派なポストモダン小説として大手を振って歩ける。
「かくして令和七年七月七日「押井守を芥川賞作家に押し上げる支援団」は結成されたぁ。しかぁしこれが二年後、「八・八革命」、別名「立ち喰いそば革命」における武力闘争の要となることは、この時点では誰一人として予測し得なかったのである……」(cv:千葉繁)
畠山丑雄「地の底の記憶」
柳田国男の愛した山中他界観(※死者の魂が山中に宿るという死生観)は万葉集に色濃い。
秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山道知らずも
山振の立ち儀ひたる山清水酌みに行かめど道の知らなく
時代は流れて令和。山を切り崩し海を埋め立て死は病院と老人ホームと葬儀場の三すくみのスクラムに押し潰されつつある。
しかし人間の死をめぐる問いは一向に解決しておらず、その空き地にスピリチュアルや新興宗教が夏草のように跋扈したわけだが、何も文学が取り組まなかったわけではない。
三島由紀夫の明るい虚無の庭、大江健三郎の死と再生の森、中上健次の何もかもが赦される路地、村上春樹の白樺の林と世界の終わり、小川洋子の少しずつ事物が消えていく島……
自らの死に場所を探すのは(谷に向けて歩く象に限らず)我々の本能なのかもしれない。
本作も、宇津茂平という「なだらかな湿地帯が広がる日本海側の平野」が舞台だが、この記紀神話の黄泉比良坂を連想させる名前は単なる偶然ではなく、その通り、これは架空の死の国である。
とりわけ作中の、ラピズラズリが敷き詰められた地底湖の物語には死の匂いが漂う。筆者は極楽の無数の宝石―なお当時のインドで宝石は清浄なるものであって単なる華美趣味ではない―を連想した(親鸞はこうした極楽観が招く誤解を避けるため光の溢れる「浄土」を説いたという話もある)。
カフカの奇妙な寓話から存在の不安を抜いて、死への憧れを加えた、不思議な魅力ある作品である。
郷静子「れくいえむ」
戦中の女学生の姿を母や友人との書簡を交えつつ書いた芥川賞受賞作。
戦争について語るとき、国家や民族という共同体にせよ西洋の人権意識にせよ、そこにもたれれば作品から個人のまなざしが喪われる。
本作も定型句に流れた部分は否定できないが、一方でこの下りは強く記憶に残る。
(略)三人の幼児たちが(略)必死になって持ち出した罐を勝手にかきまわして、非常食の乾パンを夢中で食べていたのである。(略)その子たちの母親は(略)背を向け(略)居眠りをよそおっているのだった。(略、子どもたちは節子に気づくと泣き出す、その声を聞いた母親は)小さな子のしたことですからかんべんしてやってください。(略)きっとお返ししますから。(略)図々しいったらありゃしない。知ってて知らんぷりしてたくせに。隣家の主婦が(略)聞えよがしに言った。(略)節子の胸をやり場のない憎悪がかけめぐった。(略)
何が英霊だ!あの戦争を忘れないだ!人間は醜い!いつも、いつでも醜い!
こうした人間の醜悪を覆い隠し、戦争を単なる台風や洪水のような災害として捉える眼差しを私は激しく憎む。
平野啓一郎「決壊」
私はこの人は平成日本のトルストイと思っている。褒めていない。文章の見事さに時々自分で惚れ惚れしてそうな感じと、作品から偶然性が巧みに排除された心地よすぎる読み心地が絶妙に鼻につくのだ。
……本作は平成中期の、インターネットが普及し始め凶悪な少年犯罪が―実際は一九八三年をピークに減少傾向にあったが―増えた雰囲気があり、共同体が崩壊し「公」の歯止めなき「私」の増長が日本を滅ぼすみたいなことを文化人と小林よしのり氏が声高に叫んだ、あの混沌の時代を舞台とした長編小説である。
「時代性」を書くとき作家の目は静かに距離を取るべきだが、そこが駄目で、社会派の志向は認めるが批判意識が不十分である。
ただ途中に三島由紀夫の「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」と「カラマーゾフの兄弟」のイワンと悪魔の対談のパロディがあって、私は楽しかった。君が楽しいかは知らない。
現代日本は理念もないまま市民の命を擦り潰してたどり着いた偽りのユートピアであり、三島の美学は、
《……なぜ、愚劣なる者どもは、私を追いつめようとするのか?
孤独な殺人者の手は、やはり、奴らの血で穢されねばならない宿命なのか?……(略)
とチープなエゴの自己承認欲求に、イワンの魂の果てしない狂気は中学生友哉とのちゃちな対話に、それぞれ矮小化される。
ただまぁ、やはりこの作家は人間的な価値観を―ヒューマニズムを―あまりたやすく信じすぎるし、本作の弱さも概ねそこによる。
とはいえど、作中で凶悪殺人の冤罪を被る崇の造形は平野氏自身を思わせる。的が少しずれているが、本作は氏なりの、時代に対する応答責任の表明かもしれない。
本作の最後、無名の運転手が鉄道を暴走させる―何の前触れもなく。内なる暴力を抱える「個」の集団に、これから崇は、作家はどう向き合うのか。
文句を言ったがよくできた作品で、楽しく読ませてもらった。
三島由紀夫「軽皇子と衣通姫」
これは橋川文三という思想家が述べていたことだが、日本は恋愛が社会に対立しない。
本来、個人的な性愛―難しく言えば「エロティシズム」は社会全体の存続と相容れないが、昨今流行った「あの花が咲く丘で」といい、日本の恋は体制迎合一辺倒の頰かむりを決めこみ、ジュリアン・ソレルの激しさは毛頭ない。
三島由紀夫が本作のずっと後に書く「永すぎた春」は戦後日本の若者の、観覧車でソフトクリームを口移しするような恋愛観へ差し向けられた悪意の書だが、哀れなことにその後も日本の恋愛小説は内向きに次ぐ内向きで―その後の「ノルウェイの森」しかり「キッチン」しかり―、三島は「葉隠」まで持ち出し―いわく恋は秘すほうがいいとか―おっ死んでしまった。
本作は古事記に出てくる近親相姦によって島流しとなり死ぬ兄妹の軽皇子と衣通姫の物語で、三島が戦後という時代の生き方を投影したとよく言われるが個人的にそこはどうでもいい。
むしろ社会の個々人の性愛に向ける「おおらかな」合意がもたらす「明るい家族計画」という語のおぞましさ―人間の生を管理するなんという傲慢!―から逃れ、一匹の獣と獣のように睦む男と女の姿を書いた、三島一級の恋愛小説。
後に中上健次が連作短編「千年の愉楽」で引き継ぐ。
窓はあけ放ち、沈みゆく月がふしぎにみづみづしい名殘の光をひろげるその光の反映をたよりに、二人はしめやかに湯にひたり、叉稚子のやうに戲れ合つた。
島尾敏雄「出孤島記」
「スイサイド・ボート」(自殺艇)と呼ばれた特攻兵器「震洋」に乗ることを―不可逆の死を―運命づけられた「私」の、終戦間際の実感を書いた短編―作者の実体験である。
私はその頃の時間の感じに自信がない。時は進んでいたのか、逆行していたのか、あるいはまた停止していたのか(略)私にとって歴史の進行は停止して感じられた。私は日に日に若くなっていった。(略)私の世の中は南の海の果ての方に末すぼまりになっていた。その南の果ての海は突然に懸崖になっていて海は黒く凍りつき、漏れた海水が、底の無い下方に向って落ち続けていた。
私はそこから落下するために、毎日若くなって行った。(略)
死の実感を伝える言葉だ、あまりに生々しい。
三島由紀夫「仮面の告白」
私ゃこの小説はアウグスティヌス「告白」のパロディと思ってる。
アウグスティヌスの「告白」が己の罪を懺悔し神に至るなら、三島の「仮面の告白」は焼き滅ぼされるべき「ソドミー」としての自己のみを露わにしていく。
三島の作家としての目はすでに明らかだけど、物語としてまとめる意思が強くないから大抵の方は面白くなかろう。
なので引用は一つに留める。東京大空襲後の人々の描写。
(略)私は革命がもたらす昂奮を理解した。彼らは自分たちの存在を規定していたもろもろのものが火に包まれるのを見たのだった。人間関係が、愛憎が、理性が、財産が、目のあたり火に包まれたのを見たのである。(略)彼らは火と戦ったのではなかった。彼らは人間関係と(略)、愛憎と(略)、理性と(略)、財産と戦ったのである。(略)子供を救おうとして死んだ母親は、他ならぬ子供に殺されたのである。そこで戦い合ったのはおそらく人間のかつてないほど普遍的な、また根本的な諸条件だった。
私は目ざましい劇が人間の面にのこす疲労のあとを彼らに見た。私に(略)熱い確信がほとばしった。ほんの幾瞬間ではあるが、人間の根本的な条件に関する私の不安が、(略)拭い去られたのを私は感じた。叫びだしたい思いが胸に充ちた。
ここでもアウグスティヌスを参照してみようか。
アウグスティヌスは、人間は一者なる神に対して、常に「多なるもの」であると述べた。過ぎ去りゆく被造物に―人間関係に、財産に、子どもに―心を奪われ神を見喪う。
けれどそのどれも自己の存在のすべてを受け止めない、だから、私たちはいつも不安である。
ただ神との出逢いのみ、人の不安を等しく拭い去る。
「仮面の告白」のこの場面では火が―避けられない滅びが、必然としての死が―残酷な神に姿を変え「多なるもの」としての人間を焼き尽くしている。
「私」はそこに、自己の存在への絶えざる不安を超える何か―あるいは絶対者の影―を見たのではないか。
※ネタバレを含みます
犬怪寅日子「羊式型人間模擬機」
ラカン分からんこらあかん―なんて詩が収められているのは飯島耕一氏の「さえずりきこう」。
この楽観的に読めないラカンという精神学者は、「鏡像段階」という説を唱えた。
何でも子どもが鏡を見つめるとき「自己」を再発見するという話で……分からんラカンはつまらん。
でも、これはデカルトと対比する形で考えると面白いわけよ。
「我思う、故に我あり」―ヨーロッパの野蛮人どもの近代を支えたのはこの定理だけど、ラカンの説によれば違う。
人は自身である前に、まず「他者」として自己を再発見する。
「私」が他者を見つけるんじゃなく、他者としての「私」を見つけて、人間はやっと「私」になれる。
いわば人間の自我の危うさを突っつく話だわな。なんせドッペルゲンガーが出ただけで精神が狂うもんな。
私の記事の九割八分はこの手のもっともらしい戯言で構成されている(残りは打ち間違いだろう)。
これはある奇妙な一家を見つめるU(愛称はゆゆ)という召使いロボットの話で、その語りの自我のなさはカズオ・イシグロの「日の名残り」を思わせる。
凶悪殺人の新聞で沸かすお湯、野生を忘れさせられる鰐、両性具有の乙女に本来の一人称が「おら」の木登りマダム……センス・オブ・ワンダーで溢れたこの話の最後は、驚きの事実が―バラエティ番組の引き伸ばしみたいで嫌だな―明かされる。
U(ゆゆ)は、youだった。
性別不詳のこのロボットは、月が満ちるように日一日と人間に近づいていく。
そのUが人となり、人格を持って、本作は終わるのだ。
それは子どもが鏡の向こう側に、「私」を見つける朝のように、革命史を歴史家が書くため「革命とは」と書き出す夜、すべての革命が命を落とすように、この奇妙な一族の物語も、子どもの歌のような語りも滅ぼして、you―認識する者、語り伝える者、記録する者、判断する者、裁く者、あるいは神―は立ち現れ、覚え間違いの詩を謳う代わりに詩人の生前好んだタラバガニの産地を調べ始め、「小説」が、サラリーマンの鈍いあくびとともに、アルバイトの貼る値引きのシールとともに、ようやく始まる。
まあ要するに素晴らしい傑作であるから、ぜひ読んでほしい。ちょっと読みにくいけど、音声優位の言葉―樋口一葉・泉鏡花系列―として読めば割と筋が通ってる。
それから「人間になる」ことが相対化される視点は、川野芽生氏の「人形街」(「無垢なる花たちのためのユートピア」収録)を思いだした、非常に美しい幻想短編。
小田雅久仁「オレオ」
ホラーは苦手だけどこの話は楽しく読めた。霊感のある青年が出会う不思議な魔法の物語。
雨の日の野良猫は、みんな秘密の猫の街に隠れてるんだって。
物語が人を癒す術を見事に示している。
夏目漱石「私の個人主義」
夏目漱石はエゴイズムに振り回される人間の普遍の相を捉えた、日本では珍しい作家である(ミソジニーは三島由紀夫と並ぶレベルで擁護不能)。
で、この講演が一九一四年(大正三年)。「東海道中膝栗毛」の十返舎一九の死去が一八三一年。「南総里見八犬伝」の曲亭馬琴の死去が一八四八年。
漱石は彼らの、大衆は享楽主義、武士は儒教倫理を疑わずに済んだ時代から百年も経たずして、真昼に神の死んだ近代と向き合った。早死にするわけよ。
漱石は個人主義が「淋しい」と述べている。その通り、淋しい無力な「個人」は自由から逃走し、偽りの神に―権威に服従し始める。
ドストエフスキーと夏目漱石は近代という時代の最良の手引書だと思う。「大審問官」とこの講演を並べても面白い。
漱石はこの後、「則天去私」を掲げる。留保つきの「個人主義」からの、価値観の転換を追うのもいいかもしれない。
【2.海外文学と村上春樹】ダシール・ハメット「マルタの鷹」☆☆/アベル・カンタン「エタンプの預言者」☆☆/リチャード・フラナガン「姿なきテロリスト」☆/村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」☆☆/李屏瑤「向日性植物」☆
※ネタバレあり
ダシール・ハメット「マルタの鷹」
書いた記事を消したのでもう一度。中世の騎士団に由来する鷹の形の宝石「マルタの鷹」を欲する悪漢たちの争奪戦という、ルパン三世が延々続けてテープの擦り切れた話。
ぶっちゃけ面白いのは宝探しが始まる前―バディ小説かと思いきやいきなり片割れが死に、主人公の探偵スペードにはイデアもクソもなく、まともに話が成立するか不安になる冒頭の危うさにある。
ちなみに本作の宝「マルタの鷹」は作中で執拗に値段を問われる。
これを村上春樹の探偵小説のパロディ短編「シドニーのグリーン・ストリート」の「伯爵令嬢のルビーの宝玉」的なロマンの喪失と捉え、セオドア・ドライサーの「アメリカの悲劇」と絡めつつ資本主義の論理が個人を押しつぶす過程について話したがショートが起きて焦げ臭いので消した。
しかし事実「宝探し」物語は瀕死である。
あらゆる宝が無機質で無個性な貨幣と取り替えられていくこの時代、人は「消費行動」という宝探しの模倣に身をやつす。
この点、ダシール・ハメットの後継者レイモンド・チャンドラーの凄みがあって、彼は人間の内面のモラルや愛といった無形の価値を探し求めるべき「宝」と位置づけるコペルニクス的転換を行った。すなわち騎士道物語の復権である。
※ネタバレあり
アベル・カンタン「エタンプの預言者」
自称リベラルおじいちゃんが、時代錯誤の発言を繰り返し、あげくに極右とくっつきゴタゴタに揉めるブラックコメディ。J.M.クッツェーの「遅い男」の、老いらくの恋に擬似家族に二兎も三兎も追っかける主人公ポール・レマンの滑稽さを思いだした。
しかし最後、彼の批評が「人種を洗浄した」として批判された、黒人詩人のロバート・ウィローがソビエト共産党に―おそらく車のブレーキに細工をされ―殺されていた事実が明らかとなる。
このカラカラした毒っ気、どこかで見たな……と思ったらあれだ、ミシェル・ウェルベックの「服従」―フランスが二〇二二年にイスラーム政党に支配される未来を書いた作品だ(別の選択肢が極右政党の国民連合なのは笑っていいのか)。
少し健康生活に飽きてきた方は具合を悪くするため読んでもよいかもしれない。
リチャード・フラナガン「姿なきテロリスト」
海外版「ゴールデンスランバー」―私が冤罪でテロリストに!?―で、見どころはないが強いて言えば夫との性行為を拒否する妻に共感できた。
この前ナチ高官と彼に収容所で心身を弄ばれたユダヤ人の少女が再び愛しあう「愛の嵐」という映画を見たが、上裸でナチの軍服を着る彼女を見て改めて人間の肉体は「恥」の塊だと思った。
私の裸の実寸大の写真を貼った食卓で人並みに食事が取れる人間はこの世に一人もいない。
何しろ私だって時々風呂場で吐き気がする、他人はとても耐えがたかろう。
子を作るという義務を果たし終えた後、この凸凹の恥を他者の目に晒せなくなる気持ちは分かる気がする。
性や愛情ではなく人間の尊厳に関わる問題だ。
なお私は、夢で叶うならばシロツメクサの花輪の似つかわしい少女になりたい。誰かの膝の上に乗せられ、神々でさえ白旗を上げる退屈な映画を見ながら頭を撫でられたい(大層なロマン主義である)。
※性暴力について触れています
村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
世の中どうあがいても一級にはならない話があって、例えば空飛ぶサメや本当は部下思いのパワハラ上司やパンツ丈のスカートを履く女子高生などが出てくる。
それに比べると本作は、過去に女友達をレイプしたと身に覚えのない罪を一方的に告げられ、親友との関係を絶たれた男という重い主題性を抱えた話だ。
だから、最初の布置は素晴らしい。……のだが間に挟まる必要「可欠」な性描写と、説明的すぎる文章のモタモタ感で話が進まず、結局はまったく記憶に残らない。
この序盤の「なんかやったるど」感と中盤以降の失速感どこかで見たな、あれだ、大江健三郎の「人生の親戚」だ。
これも障がいを持った息子と「健常者」(あまり使いたくない言葉だが)の息子を自殺で亡くした女性を書いた作品だが、なぜか彼女はセックス三昧となってメキシコへ向かう。嘘ではない。私だって嘘であってほしい。
長編三部作「燃え上がる緑の木」につながる性に伴う人間の堕罪―アウグスティヌスの「告白」や親鸞の独白「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し」に通じる―のメタファーなのは―何しろ筆者は鼻持ちならない左派インテリなので―理解できるが、もう何もかもがめちゃくちゃである。
とにかく女性のセクシャルな領域を物語のためにゴリゴリすり潰さないでほしい。
で、多分だけどこれは氏が後に訳したダーグ・ソルスターの「NOVEL 11,BOOK 18」みたいな話が書きたかったんじゃないかな。
これ「タクシードライバー」をさらに悲惨にした話で、ほら、トラヴィスはベトナム戦争帰りでボロボロだったけど肉体は若かったでしょ。
だから美少女娼婦を護る騎士の幻想に―銃社会アメリカの手助けを借りて―一瞬でも浸れたけれど、ソルスターの書くビョーン・ハンセンは年老い、愛から拒まれ、社会との接点を喪失し、けれど暴力を振るうための若い男の肉体も銃もない。
だから最後、彼は健康であるにもかかわらず車いすが必要な病人のふりをする。そこまでして人とのつながりを求める人間の姿は冬の木立のように暗く乾いた読後感を残す。
前も書いたけど、村上春樹の作品で成功している―性描写云々はひとまず置くとして―作品「ノルウェイの森」や「ねじまき鳥クロニクル」は、縦軸に対立の図式があるんだよね。前者は「生と死」、後者は「善と悪」。
逆に失敗してる「ダンス・ダンス・ダンス」「1Q84」ってやたら双六とカジノが充実したPPGというか、確かにハマっている間は楽しいけど結局魔王の正体とか勇者の出自が曖昧で、今ひとつ深みを欠く感じがない?
話が逸れるけどさ、これはゼノブレイドシリーズのディレクターによるファイナルファンタジー(特に後期)の批評で、
ゲームとしての遊びのヨコ軸よりもタテ軸としてのストーリー部分をどんどん突出させてしまった印象があって・・・。
と述べていて非常に納得感がある(お前を許さんぞFF10)。(https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/cafj/vol1/index3.html)
遊びの「ヨコ軸」と真面目な「タテ軸」。
村上氏の「海辺のカフカ」や「1Q84」は「ヨコ軸」が多すぎ「タテ軸」の話が分散したから、本作では「タテ軸」の強い話が書きたかったんじゃないか。
ただ三島の「豊饒の海」と同じ失敗をしてて、話を(メイビー無意識に)盛り上げてしまってる。悪名高い、
「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「鋭いサーブだ、多崎つくるくんにアドヴァンテージ」
という下り(奥さま、「アドヴァンテージ」ですってよ!「バ」じゃなく「ヴァ」ですってよ!奥さま!)を削って、会話をさらに抑制的にすれば、本作は静かな追悼の気配漂う小品になったのではないか。
最後にこれは私の独断だが、何かを悼むとは、その間生きるのを諦めることだ。
多崎つくるは最後まで生きようとする。不倫疑惑のある恋人を愛そうとし、かつての友に「僕らはあのころ何かを強く信じていた」(文庫p420.)と呼びかける。
この人間の生への無防備なまでの信頼が私は嫌いではないが、しかし死と暴力の闇で汚れた坂道を前に、果たしてこうした希望を真に持ちうるだろうか人間は。
李屏瑤「向日性植物」
台湾のレズビアンを扱う小説だが文章に小説特有の説得力が欠けており評価できない。一つ面白かった注釈を載せておく。
同性愛がまだタブー視されていた九〇年代(略)政治大学のレズビアンサークル・奇娃部は集会の日時などを紙切れに書き、図書館のフェミニズムやLGBT関連書籍に挟み、サークル情報をこっそり広めていたと伝えられている。(略、実行者たちは)「奇娃遊撃隊」と後に呼ばれた。
なお、訳者・作家の李琴峰氏の注釈は日本・台湾のレズビアンの方を扱った小説に目配せが効き、大変読み応えがある。
【3.とにかく楽しいミステリ】井上真偽「恋と禁忌の述語論理」☆☆☆☆☆−0.1/井上真偽「引きこもり姉ちゃんのアルゴリズム推理」☆☆☆☆☆
※ネタバレあり
井上真偽「恋と禁忌の述語論理」
『恋と禁忌の述語論理』井上真偽
— わんこそば (@wankosoba_toaru) August 8, 2025
面白かった!子供騙しなんじゃないかと舐めてました、すみません。
登場する名探偵がことごとく当て馬になっていて、その書き方じゃ叔母さんも信頼に値するか怪しいよと心配だったけど最後で解消されて余計な心配でした。ラノベタッチな安楽椅子ミステリ。 pic.twitter.com/6zgMifgDxx
めちゃくちゃ面白い。じゃ−0.1はお前何だべ。男の性欲と同性愛の扱いに対する甘さ。
とはいえどその論理なら谷崎潤一郎の著作は明日からフランス書院が受け持ちそうだし、それ以前に「チカンデオトコモツライゾー」と鳴くミソジニーの皆さまに不起訴率が六割である事実を伝えるのが優先である。
要するに、このさほど罪もない著作を荼毘に付して世界がよくなるかという話だ。
中学生のころ、私は井上堅二氏の「バカとテストと召喚獣」が大好きで、今もドストエフスキーの「悪霊」に読み疲れると手に取るが、本作以上に男の性欲には甘く、同性愛の取り扱いに至ってはディズニーが映画化したらミッキーマウスが首を吊る。
しかしそこには確かに人間の生を励ます、愛すべき愚かさがある。
男性の性欲の加害性が日々むき出しになっている現状、私はどちらの作品も情状酌量の余地なく批判しなきゃならないが(ほんに私たちゃ醜い世界に生きてますな)。
長々こちらの話を聞かせてしまって申し訳ない。
本作は安楽椅子探偵の連作短編で、述語論理―数式とか三段論法とか排中律とか使って謎を解く話だが……私の頭を見くびらないでもらいたい。
これでも在学中数学の教科書で焼き芋を焼く手腕にかけては天才と呼ばれた男である。
要は……申し訳ない、肝心のトリックがわからなかった。
一つ目はシキミとスターアニスの故意の取り違えで起きた殺人事件(前者には強い毒性がある)。
二つ目はネクタイで首を絞めた偽装殺人。
三つ目は足跡を三往復したのを二往復にしてごまかした話。
伝わらないな(ごめんね)。
だから筆者が楽しんだのは、大学生の詠彦と探偵役を務める美しい叔母の硯さんの掛け合いである。
「……嬉しい。詠彦くんが泊まるって言ってくれて……」
蕩けるような囁き。
「あのね詠彦くん。実は私―」
「明日、ホームセンターで買い物ですか?わかりましたよ。荷物を運べって言うんですよね?今回の大物は何ですか。木材ですか。園芸用ブロックですか。農耕器具ですか。」
硯さんが泣きそうな顔を見せた。
「―人の話のオチを読まないで!」
「(略)男女の問題で硯さんに有益な助言ができるとは思えませんが」
「し……失礼ね。それは過剰に失礼ね。私だって恋のアドバイスくらいできる。フランスでは言い寄るイケメン外国人たちを鼻先であしらいながら千切っては投げ千切っては投げ、しまいには『黒髪のオルレアンの少女』なんて異名がついたくらいなんだから」
「オルレアンの少女って、ジャンヌ・ダルクのことですよね?処女のままこの世を去った……。まあそんな硯さんの哀しい武勇伝はどうでもいいんです。僕が借りたいのは硯さんの女子力じゃなくて知力なのですが、相談に乗ってもらえますか?」
この作家の耳がいいのがわかる。読んだとき、すぐに生身の人間の声がパラパラ粒だって聞こえてくる文章だ。
井上真偽「引きこもり姉ちゃんのアルゴリズム推理」
これも非常に面白い。子ども向けだが大人もしっかり楽しめる。
本作の探偵は引きこもりの姉で―この作家はちょっとダメな女性が好きなのか―体からは「カブトムシみたいなにおいがしてる」。
一方で彼女は優れた推理力を武器に弟のクラスメイトの謎を次々解き明かしていく。
特に第三話の「ダイクストラ・アルゴリズム」の、タヌキを逃がした犯人を捕まえるため、キャンプ場の最短距離を求める手つきは美しい魔術のようであった。
子ども向けの作品には自己の内にある幼児性を脅す著作も珍しくない。五分前に見つけた希望をいそいそ貼りつけた幼稚な物語も後を絶たない。
だからこそ、こうした社会不適合者を否定しない物語があることは、何より子どもたちにとって善きことのはずだ。
「……まあ、これからじっくり探せばいいんじゃねえか。人生は長いんだ。探す時間はたっぷりある。いざとなったら、この家にいっしょに引きこもれよ。姉ちゃんが養ってやる」
「ときめきトゥナイト」の蘭世が真壁くんの家のお風呂に隠れる瞬間の、世界中が黄金に輝く夏の午後のような、明日から地球が逆向きに回り始めるような、美しい驚きが井上氏の作品にはある。どちらもぜひ読んでほしい。
【4.政治家の話】石破茂「保守政治家/わが政策、わが天命」☆☆☆☆
石破茂「保守政治家/わが政策、わが天命」
石破氏の政治家としての覚悟が伝わる良書。
少なくとも某首相の「鬱の苦しい国へ」だか何だかよりは読み応えがある。マルクス思想を平易に紹介する思想家、斎藤幸平氏の名が出たのには驚いた。
私は維新の会や国民民主党のポピュリズムも、日本保守党や参政党の排外主義も等しく認めないが、せめて彼らを信じた人々のためにも有権者の「最大公約数」を酌み取る政治を望む、が……まぁ軍事政権が作られないだけマシと思おうか、ねぇ。
【5.短歌とかnote掲載小説とか】松木秀「Easy Livin'」☆☆☆/小森健太朗「大相撲殺人事件」☆/ことと「愛に気を付けてね」☆☆☆☆☆/大中博篤「さよならガルシアマルケス」☆☆☆☆☆/山川藍「いらっしゃい」☆☆☆☆/アボカドトマトナス「くたばれ、文部科学省」☆☆☆☆☆
松木秀「Easy Livin'」
この前出たばかりの歌集である。以下は筆者の気に入った歌。
人間は水が七割 本当は水の七割が人間だろう
大川隆法みたいに生きる人生は幸せなのかよくわからない
「フォローしてくれると抽選で二名様に中核派ヘルメットプレゼント!」
歴史書を読むたび思う日本人自由を使いこなすのが下手
一週間で死ぬ蝉たちが懸命にMEANMEANと鳴いているかな
聖書とは神が著者だといわれるがずいぶんとアバウトな神なり
永遠の命を得ても永遠かどうかは永遠にわからない
「小説を読む」との理由で入院をさせられた十九世紀フランス
ホーキングかつて語りき「地球にも知的生命体はいません」
私が一番好きなのは蝉の歌だ。人も、欠片しか見えない目で見た、切れ端しか聞こえない耳で聞いた、この世の断片を寄せ集め、死を前に生きる意味をこしらえる。
なお私は無自覚に八月十五日の敗戦と重ね無数の人々のもとに不意に訪れた死の意味を問う生者の群れを重ねて読んだが、やや読みすぎだろう。
小森健太朗「大相撲殺人事件」
人食いワニからブロンド美女を救った後にタイムスリップしたナチと死に物狂いの格闘をした後に本の読みたい頭のおかしい方には勧める。残りの常識人は時間の無駄。読むな。ミステリで突然ファンタジーを始めるな。黒力士って結局何?第五話でいきなり感動方向に舵を切らないで。ちょっと涙ぐんだ涙返して。何でこの次の話が封印された黒力士?馬鹿だ。いっそ突き抜けている。世界の真理がここにある。
二度と読みません。
ことと「愛に気を付けてね」
これも以前感想を書いたが、内容に満足できなくて消したので再掲。偶然読ませてもらったが非常に質の高い短編である。
十月の京都で僕の持っているものは財布とサンダル、そして愛。あとは何一つ持ってはいやしません。助けて下せえ。
「舞鶴…」
と僕がつぶやくと、文句ある?という目で僕の目を見てくる。驚いた。僕の存在を認知していたなんて。
(略)僕は彼女の強い部分を見すぎていたことに気が付く。僕らは互いに弱い人間だし、その淡い命を持て余している生き物なのだ。僕は彼女の手を取る。酷く冷えている。その冷えた手を掴みながらようやく喋れるようになった僕は彼女に言う。
「帰ろう」
僕らのココアちゃんに。
奥行きの深いユーモアの背後に静かな詩の気配が漂っている。
その他には寓話性で暴力性を覆った短編「待合室」が印象深くて、これも星は五。
大中博篤「さよならガルシアマルケス」
高橋源一郎氏が主催している文学賞で最優秀賞を取った短編。
第四次世界大戦後、我が国はラテン文学を国文学に制定し、それ以外の舶来文学を皆不適切認定し迫害することにした。
今では老いも若きも男女の区別なく、国唯一の娯楽としてラテン文学を読み漁る日々に明け暮れている。
この小説は私の腹筋を八つに割り、私に八人の彼女を作ったが、全員猟奇殺人鬼で体を八つ裂きにされ、おまけに八人とも人肉嗜癖がありこの記事は水槽に浮かぶ私の脳みそが動かす機械の義手で書かれている。
山川藍「いらっしゃい」
この歌について話そうと思って読ませてもらった。
「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて
はじめに読んだとき、この歌に「庇護」の気配があると感じた。
本来は兄妹の独特の情愛を詠んだ歌だろう。
ただ「無職」とは現在の社会では、少し死に近い存在でもある。
そのとき、彼が猫の死に「天国に行くよ」と呼びかけるのは、彼の死への無防備さを感じさせる。
この無職の兄はいつかの自分の死の間際も、「天国に行くよ」と独りごちて、あっけなく死ぬのではないか。
また、そうして死に開かれた存在を無理に生の岸辺へ引き留めようとする妹の意思が、「無職は本当に黙ってて」という強い命令調に、表れていないか。
まあ無理筋である。他の兄を詠んだ歌を載せる。
叫び声が台所からする兄だゴキブリ見たな 働きなさい
兄は背をわたしは腹を撫でている寝ころがりただ猫だけを見る
「家族って猫とその他になってきた」無職の兄は幸せそうに
無職歴ベテランの兄新米のわたしと家の猫を取り合う
わたしから地蔵オーラが出ていると兄。大仏でなくて良かった。
片づけたところに兄が置いていく手塚治虫を二十六冊
どうしたらいいかと兄に聞いてみるガメラとガメラ2見せられる
あのやばい人が行ったら月を見に出ようと見ればやはり兄なり
父親がおまえたちはと言ってからおまえと言い直していた兄に
芦田愛菜かわいいなどともし兄が言ったらどうしようゾンビ見る
その他の歌も秀歌の宝庫だったが、あまり載せて読む楽しみを削いでもつまらないので、二首だけ。
ネコビトという生き物がいたとして戸籍があれば結婚したい
上の句のメルヘンと下の句のリアリズムのチグハグさが何とも言えぬおかしみ。
非正規の人にも届くボーナスのお知らせだけでボーナスはない
「弱者」とされた者に注ぐ、まなざしの静かな痛みが記憶に残る。
アボカドトマトナス「くたばれ、文部科学省」
なかなか面白く書けたから、いっぱい読んでほしいニャーン(かわいい求愛行動)。
一応解説すると「こころのノート」は教科書の形のゴキブリであるという話である。
雑談―ギリシャ世界における嫁姑闘争・しめじ・庇護とは神を裏切ること―森茉莉について―・我が文化論
この前、マーガレット・アトウッドの「ペネロピアド」が角川で文庫化されたけど読んだ?読んでない?これだから田舎者は嫌だねぇまったく。
この本、外見は高尚な世界文学、中身は「嫁姑の仁義なき抗争〜お母さま、私を舐めてもらっては困りますっ!〜」。
オデュッセイアという英雄物語の、奥さんのペネロペ視点からの語り直しだけど、元ネタ知らなくても楽しめる(森鴎外の「半日」も併せて読むとなお楽しいかも)。
また、しめじを慌てて一パックゆずポン酢和えにしてしまった。料理自慢じゃない。チューブのゆずとポン酢をばしゃぁとかけてチンしてるだけ。
今度こそ冷凍させようと思ったのに忘れ、山盛りのしめじ。まったく食べる気が起きない。誰か殺してくれ。
※以下は小児性愛の話、および、性的な話を含みます
桜庭一樹氏の「私の男」と森茉莉の「日曜日には僕は行かない」読んでた。
どちらもドストエフスキーに次いで隣人にしたくない連中で、前者は小児性愛マザコン男と少女の共依存、後者は男同士の恋人に略奪愛からの婚約破棄ムーブ決めこまれる哀れな女の子の話(もちろん前者が主人公)。
業の極みだけど私はどちらも好きで、何だろうな、すごく歪な形の「庇護」があるんだよね。
森茉莉は「甘い蜜の部屋」もそうだけども……こう、ちょっと暴論かましてよかですか?
「庇護」という行為は神に対する反逆だ。
神が滅び去るべき人間と、永遠の命を与える人間を山羊と羊に引き裂くのなら、滅び去るべき「弱い者」を、神の光に背いて抱きしめること。
ベンヤミンの話をしたけどさ、「庇護」と「法」は対極にあるよね。究極的には人間社会の法という法は選別と排除によって成り立っている。
「庇護」とは、本来は法から排除されるべき者を護ることで、だからベビーカーに当たりが強い男も後を絶たないわけでさ。
彼らからすれば、子どもは「法」を守れない、排除されるべき「弱者」でしかない。
我々男性の方が、そうして法に過適応することで自己を権威化する傾向が強い気がする。
だから女性の方が―社会が介護や育児といった「庇護」を押しつけた側面も否定できないが―「庇護」の関係性を書くのはうまい。
凪良ゆう氏の「流浪の月」もこの点よかった。
変わり種だと、今村夏子氏の「星の子」の少女たちの関係性にもかすかな「庇護」の気配があってね。なんか今「タコピーの原罪」?みたいな漫画(だよね)が流行ってるらしいけど、あれも虐待家庭の話だというから、お好きな方は本作も楽しめると思う(ひでぇ宣伝文句だ)。
日本の恋愛がいつも体制迎合なのも、結局は「法」に屈服してるんだよ。でも互いの体を求める恋人たちの閨の決死の闘争をどう法制化する気?
人間の性愛は、いつも「法」の外にある。「愛の嵐」もそうでさ、「ナチス=悪」「戦争=悪」は、政治家が言うと嬉しく逆に表現者だとやや拍子抜けのセリフだけど、いつも望まない方ばかり。
「愛の嵐」は、人間の性愛があらゆる「法」をぶち壊してしまった世界の男と女の話で、匂うようなエロスがあって、押井守経由で知ったんだけど素晴らしかった(「シネマの神は細部に宿る」)。
だから何が言いたいかというと、「恋愛」を語るなら別に何をどうしようが文句は言わないけど、「性愛」を語るなら、必ず「法」に爪の一つは立てないと腰砕けになるってことよ。
そりゃ近親相姦も小児性愛も略奪愛も明瞭な悪だけども、我々は道徳の教科書を見ながらセックスするかと。国会答弁に耳を澄まして、
「今の首相の発言は、夏子イクぞ、中に出すぞ!ちょっとアメリカに対する不信が強すぎないかな」
「弘さん、今は国際協調の時代なんだから、出して!アタシの中に出して!イクッ、確かにトランプ大統領は問題だけども」
こんな性行為をするカップルは地球広しと言えどいないわけ。
人間の性愛なんて根源的には悪で、一夫一妻というシステムはそれを稀釈して社会に慣らしてるだけで、人間の本能ではない。
そういうナマナマした悪と性愛の近さを書いた作品が、私にはこの二作なの。中上健次の「残りの花」とか雨月物語の「蛇性の淫」とかあるけども、彼らのは「毒婦」であって、乱れたシーツを庇うように朝の光を手のひらで遮る、あの罪深い恋人たちの甘やかな気配はない。
じゃ、話がまとまらないので、適当にそれらしい引用してお茶濁しますわ(何となく通ぶれる上に大概の論理の破綻がごまかせる、さぁ君も今日からカス書評家になろう)。
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
(略)パウロの眼は、どこかの遠い処から生きて還ってきた人のやうに、四辺を見、空を見上げなぞしてゐる。まだ幾らか昏い、罰せられた子供の眼で、あつた。
「やっぱり僕が殺したんだ。……でも達吉も一緒だから。……平気だ」
「ん?」
「ううん、なんでもない。ぎゅうっとしたかっただけなの」
(蛇足)塚本邦雄のこの歌さ、最後の「人あやむるこころ」がなければ、校長先生の訓示みたいじゃない?
「えぇ皆さん、昔のですな、馬喰は馬を洗うときは魂が冴えるまで洗ったそうです。本校の清廉潔白な学生の皆さんも、人を愛せしときはですな」
校長先生がこの短歌を詠んだらこうなる。
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば我が魂燃ゆるまで
しかし塚本邦雄は違う。
「人を愛するとはその人を殺める心を持つことだ」教員一同騒然!PTA逆上!保護者憤慨!
シェイクスピアの「マクベス」で夫に王殺しをけしかけたマクベス夫人は、どれだけ洗っても手から血の臭いが落ちないと嘆く。
私たちの魂はいくら水で洗っても、馬のように冴えわたらない。暗い心を一人一つ匿っているから。
心を持たない美しいものと、心を持つ醜いもの。その象徴が「馬」と「人」だろうか。
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
(愚痴っぽいから無理して聞かないで)
米津玄師氏の曲が好きでよく聞くけどさ、あれだけ女性解放を謳った「虎に翼」の主題歌「さよーならまたいつか」は素晴らしいのに、同じ人が、必然性のない風呂や下着シーンのあるガンダムジークアクスの主題歌「plazma」を歌うのって、なんかガクッとくるよね。
氏を責めるんじゃなくてね(どちらも素敵な曲)。こう……どんどん文化がバラバラになってくというか、
「オタクはオタクの好きなことしてくださいよ、アタシゃアタシの好きなことしますから」という価値観が広がってるというか。
国風文化の始まりは、醍醐天皇の勅撰和歌集である「古今和歌集」と言われているけど、要は天皇を中心とするサロンだね、後の後鳥羽院にしろさ。
まさしく文化って、支える共同体抜きでは話にならないわけよ。
でも今はてんでんばらばらの「アーティスト」がいるばかりというか、非日常的な一瞬の「感動」や「ときめき」だけが求められて、日々の生き方に―ゆず香る山盛りのしめじに―つなぐ力はやせ衰えていくばかりで、悲しいものがあるよね。(山盛りのしめじを日々の生き方と呼べるかはひとまず置くとして)
その行く手には「音楽家は音楽だけやってろ」「宗教家は政治に口出すな」という、オルテガが「大衆の反逆」で述べたタコツボ社会が待ってる。
その点、富める者も貧しい者も、賢い者も愚かな者も、道徳的な人も悪人も、等しく救われるべき「衆生」「凡夫」と捉える浄土教は素晴らしいね!
というわけで、この雑談はろくでもない宗教勧誘で終わる(読ませてごめんよ)。
まぁ、王朝物語が衰えたら軍記物語が、和歌が衰えたら連歌が、それぞれ新しい言葉を生みだした。人間の文化形成意思はオーブンの金網で焦げたチーズのように、たやすく洗い流されはしない。たぶん。
南京戦史資料集
※極めて残虐な描写・自殺の話を含みます。
今は歴史修正主義に取り込まれている右翼系の出版社、偕行社から出版された、様々な兵士の手記を集めた記録。
でこれ、本来は「南京大虐殺」は中国のプロパガンダ、まやかしだと主張するため集めたけど、虐殺を認める記録が次々と出てきて、とうとう編集部が明白に中国に謝罪した複雑な経緯のある本である。
◇十二月十四日
(略)城内外の掃蕩を実施す。至る所に潜伏してゐる敗残兵を引き摺り出す、が武器は殆ど全部抛棄又は隠匿してゐた。
(略)
太平門外の大きな外壕が死骸で埋められゆく。
見れば本部の庭に百六十一名の支那人が神明にひかえている。後に死が近く(筆者注:本文ママ)のも知らず我々の行動を眺めていた。(略)家屋から五人連をつれてきては突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落付を失っているを見る。(略)屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人がとんで出て来たのを突殺す。
暗き中にエイエイと気合をかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。終りて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。(略)
私に何か語る資格はない。ただ、自らの最も醜い姿を写した、この手記を、なぜこの方は公開されたのだろうか。
浄土真宗教団も戦争協力を行い、親鸞の名を冠した戦闘機を作った。それは浄土宗も同じである。
昔、私が自殺未遂をして、入院していたとき、私は人は今日の一日を生きただけ、その今日の一日の分だけ、醜くなる。そう、思った。
今も私は同じ考えを持っている。私は今日、今日一日生きただけ、少し醜くなった。明日はまた少し、醜くなるだろう。一月も経てば、私は、見るに堪えないほど醜くなるだろう。
生とは絶えず壊れ、醜くなることだ。腐った油で、ひび割れたエンジンを動かし、捻くれた腕で人を殺める狂ったロボットのように。
この壊れた人間の群れに、同じ人間が応えられるはずもない。差し伸べたつもりの手で火をつける。人間の背中を支えたはずの手で、人間の顔が凹むまで殴っている。
とうに私たちの回路は狂って、善き願いも、正しい祈りも、私たちを見棄ててしまった。もう二度と思い出すことが許されないほど、遠い遠い昔に。
だから称名とは、壊れ続ける醜い私たち生きとし生けるもののためにある、善き願いである。正しい祈りである。たった一つの、最後の、あらゆる「壊れもの」を照らす光である。
私たちが私たちの内側に、まるで屋根裏に金塊を隠す強盗のように、匿ういくつもの暗く汚れた闇を赦す、明るい光である。
祈らせていただくという言葉は、この時代では服従のみを意味するが、それは暗い怯えを手放す人間の、力の抜けた指先―力をこめては祈れないから―、その、指先のためにある言葉だと思う。
ここまで読んでくれてありがとう。少しでも楽しんでくれたら、私もとっても嬉しい。
そうだ、しめじは案外おいしく食べられた。ゆずが効いてると箸が進む。エセ炊き込みご飯みたいでおいしかった。

